掛川藩13家が治める

掛川藩

太田家の家紋「桔梗」

記事カテゴリ
藩史
藩名
掛川藩(1601年〜1868年)
所属
静岡県
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掛川藩は、静岡県掛川市に存在した藩です。掛川の地は東海道の要所であり戦国時代には支配者であった今川氏と徳川氏、さらに武田氏の3つの家が支配権をめぐって激しい争いを繰り広げました。

結果的に掛川の地を手に入れたのは徳川家康であり、掛川城には重臣の石川家成・石川康通父子を城代にしました。また、江戸幕府を開いた後は初代掛川藩主に自分の異父弟に当たる松平定勝を任じています。

しかし、親藩以外にもたくさんの大名家が掛川藩を治めました。
そんな掛川藩の歴史を紐解いていきましょう。

太田家が治める以前の掛川藩の歴史

掛川藩は藩が開かれてから幕末まで13の家が治めました。
江戸時代、大名家は国替えといって現代の転勤のような制度があったので、一つの藩を複数の大名家が治めることは珍しくありません。
しかし、一つの藩を13もの家が治める藩は稀です。

掛川藩の初代藩主は家康の異父弟にあたる松平定勝でした。
松平定勝は慶長6年(1601年)に掛川藩主に任命されましたが、16年後に伊勢桑名藩11万石の城主となります。
城主としての実績は特にありませんが、二代将軍徳川秀忠の信任が厚く、異父兄徳川家康の死後は二代将軍、三代将軍の相談役を勤めました。

二代目藩主の松平定行は、初段藩主松平定勝の次男に当たります。
藩主になったのは慶長12年(1607年)と父松平定勝の存命中です。
寛永12年(1635年)、家光の命により伊予松山藩に4万石の加増転封となります。
こうして、松平家の藩主時代は終わり、その後安藤直次が、2年間だけ藩主を勤めました。

安藤直次が徳川家康の十男、徳川頼宣に従って紀州藩に移ると松平定綱が藩主となりましたが、彼も5年間という短い任期で山城国淀藩に移封されます。

その後、掛川藩は朝倉宣正、青山幸成、桜井松平家と目まぐるしく藩主が変わります。
しかし、いずれも1代、(桜井松平家のみ2代)でほかの藩に移封されたため、目立った功績はほとんどありません。

そして、ようやく4代まで藩主が続いたのが井伊直好から続く井伊家です。
時代は万治2年(1659年)、掛川藩が開かれて55年目のことでした。

しかし、2代目井伊直武は歴史書に「暗愚な人物」と書かれるほど政治能力がなく、3代目の井伊直朝は、幕府に「発狂している」と判断され強制的に改易されてしまいます。

4代目藩主となった井伊直矩は藩主になった翌年越後に国替えされました。

その後、藩主の家は一代限り桜井松平家に戻された後、今度は小笠原家に移ります。
初代藩主の小笠原長煕は、享保7年(1722年)には大井川と天竜川の治水工事を行うなど、はじめて藩主らしい行動を起こしました。

しかし、2代目藩主小笠原長庸は23歳で夭折、3代目藩主小笠原長恭は、藩主になって2年後に、陸奥棚倉藩へ移封となります。

なお、小笠原長恭は歌舞伎の「白波五人男」の一人、日本駄衛門のモデル、日本左衛門と名乗る盗賊が、旧領掛川において盗賊行為を行ったために出仕を止められるといったとばっちりを受けたエピソードが伝わっています。

太田家の藩主時代

延享3年(1746年)、掛川藩の藩主に太田資俊が就任します。
この太田家が幕末まで掛川藩を治めることになります。

太田資俊は舘林藩から掛川藩に移封され、2代目藩主太田資愛は、幕府で、奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代、老中を歴任するという、出世街道をひた走りました。
その分、掛川にはほとんど訪れることなく、墓所だけが三島にあります。

3代目の太田資順も奏者番となりますが47歳と若くして死去、4代藩主太田資言は、藩主になった翌年に29歳で亡くなってしまいました。

5代目藩主太田資始は、11代目将軍徳川家斉の側近として寺社奉行、京都所司代、大坂城代などを歴任し、天保5年(1834年)に老中となります。
老中となった後、同じく老中で天保の改革を実践した水野忠邦と激しく対立し、水戸藩の徳川斉昭を盾に、水野忠邦を解任しようと画策しました。

しかし、この画策は失敗に終わり太田資始は老中の任を解かれて隠居します。

その後、大老井伊直弼が太田資始を老中に再任するという、前例のない人事を行いましたが、1ヶ月で辞任し、その後は幕府の要職に就くことはありませんでした。

6代目藩主太田資功は、寺社奉行になったものの36歳で病没、最後の藩主太田資美は、新政府の命で現在の千葉県に当たる上総山辺郡内に移封されますが、藩知事を罷免される4年間に優れた手腕を発揮して藩を豊かにしました。

藩知事を辞任した後は東京に拠点を移し、東京仏学校(法政大学の前身の一つ)の設立に尽力するなど教育・芸術関連に貢献して生涯を終えました。

掛川藩まとめ

掛川藩は記録によると米作を中心として茶・木材・椎茸などが作られていたそうですが、生産量は少なく、藩政は苦しかったといわれています。

東海道の要所だったため、親藩や譜代など格の高い大名家が藩主を勤めましたが、そのほとんどが短期で国替えをされたり幕府の要職についたりして、藩の政治は国元の臣下たちに任されていたと推測されます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。