浜松藩(2/2)十二の名家によって治められた

浜松藩

水野家の家紋「水野沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
浜松藩(1601年〜1871年)
所属
静岡県
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彼は、徳川家康の重臣、青山忠俊でした。
青山家ではじめて3代、同じ家から浜松藩主がたちます。
しかし、青山家2代目の青山忠俊は35歳で亡くなり、その後、弟にあたる青山忠重は藩主として大きな功績を残すことなく、浜松藩から亀山藩に移封されました。

その後、浜松藩主の地位に就いたのは、松平家ですが、松平(本庄)家と松平(大河内・長沢)家の2種類がありました。
2つの松平家から6人の藩主がたちますが、松平家最後の藩主、松平資昌意外は幕府の要職に就き、藩政にはほぼノータッチでした。
松平資昌は、19才の若さで亡くなっています。

その後、藩主になったのは井上家です。
井上家で初代藩主になった井上正経は、寺社奉行、京都所司代、老中と幕府の役職を歴任しました。
跡を継いだ井上正定は33才で夭折、その後藩主の座に就いた井上正甫は、女性問題を起して天保の改革の主導者、水野忠邦に藩主の座を取られてしまいます。

水野家は、水野忠邦とその子ども水野忠精の2代浜松藩主を出しますが、両方とも老中など幕府の役職に就いたので、浜松の治世には関わりませんでした。
ちなみに、水野忠精は、横須賀造船所の建設を推進したともいわれています。

水野家が2代藩主を務めた後、藩主の座は再び井上家に戻ります。
井上正甫の長男、井上正春が水野忠精の後に藩主の座につきました。
彼もまた、奏者番、寺社奉行、大坂城代など幕府の要職を歴任し、浜松城主に返り咲きます。

実は水野家が領民に借金をしたまま移封先の山形に行こうとしたため、井上家が間に入り領民を宥め、一揆を収めたという逸話が残っています。

井上正春は藩主としても有能で、綿糸を利用した浜松織物の生産を奨励したほか、藩校克明館を設置し、藩士の教育に力を尽しました。

最後の藩主である井上正直は、老中を務めた後で慶応2年(1866年)の第二次長州征討では第14代将軍・徳川家茂に従軍し上洛しています。
明治維新後は細々とくらし、明治37年に死去しました。

浜松藩まとめ

浜松藩は藩主の多くが老中、京都所司代、寺社奉行など幕府の役職を歴任し、華々しく出世した一方、浜松藩主としてはあまり功績を残していません。
そのため、浜松藩は大きな問題も起きなかった反面、傑出した人物も育たず幕末も迎えています。
なお、水野忠邦だけは箔を付けるために藩主になったという見方が有力です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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