浜松藩十二の名家によって治められた
水野家の家紋「水野沢瀉」
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浜松藩は、譜代大名によって治められた藩です。
江戸時代、大名はたびたび移封、転封といって藩を移らされましたが、浜松藩は特に大名の入れ替わりが激しいことで知られています。
また、城主が幕府の要職に数多く付いていることから、藩主の居城となった「浜松城」は「出世城」とも呼ばれました。
実際、歴代城主の中から兼任を含めて老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を排出しています。
そんな浜松藩の歴史を紐解いて生きましょう。
浜松藩の誕生
浜松の地は、徳川家康が浜松城城主として29歳~45歳までの17年間治めました。
この間に、家康は三方ヶ原の合戦を皮切りに、姉川、長篠、小牧・長久手の戦いなど日本史に名が残る戦いに参戦し、歴史の表舞台に躍り出てきます。
天正18年(1590年)小田原征伐が起こり北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉は徳川家康を武蔵へ移封し、浜松城は豊臣氏の重臣・堀尾吉晴が12万石で入りました。
その後、子の堀尾忠氏が2代目城主となります。
堀尾忠氏は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで東軍について活躍したため、江戸幕府が開かれた後、出雲富田藩(後の松江藩)に加増移封されました。
その後、浜松城には徳川氏譜代の重臣・松平忠頼が美濃金山藩から5万石で入ります。
ここに、浜松藩が誕生しました。
譜代大名によって治められた浜松藩
初代浜松藩藩主、松平忠頼は徳川家康異父妹を母として生まれました。
つまり、徳川家康の甥にあたります。
関ヶ原の戦いの後浜松藩を5万石で与えられましたが、慶長14年(1609年)、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に招かれた際、茶室で同席していた久米左平次と服部半八の争論に巻きこまれて刺殺されてしまいました。
まだ28歳の若さであり、これによって桜井松平家は改易になってしまいます。
なお、この騒動の責任を取って水野忠胤と服部半八は切腹を申しつけられています。
桜井松平家が改易されたことにより、2代目の藩主として徳川家康の母方の従兄弟にあたる水野重央が移封されてきました。水戸藩の家老から2万5,000石を与えられての出世です。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では初陣を飾った徳川家康の十男、徳川頼宣を補佐して活躍します。
そして、徳川頼宣が紀州藩に移ると、水野重央は再び家老にもどって死ぬまで徳川頼宣を支えました。
3代藩主高力忠房は、島原の乱後に島原藩へ移封され、4代藩主松平乗寿は、浜松城主になってから4年後に徳川家綱の老中になり、その2年後に上野館林6万石に加増移封となります。
その後、浜松藩の藩主になったのは太田資宗です。5代目藩主の座に就いた太田資宗は、父の妹が徳川家康の側室、という徳川家に大変近い人物です。
3代将軍・徳川家光の側近として幕府を支えました。
武家系譜編纂書『寛永諸家系図伝』を完成させた人物としても知られています。
5代目藩主にしてやっと、次男である太田資次に跡を継がせることができましたが、太田資次は、藩主になって7年後の。延宝6年(1678年)、大坂城代に任じられたことをきっかけに、2万石を加増された上で所領を摂津・河内・下総などに移封されました。
次に浜松藩の藩主になったのは、青山宗俊です。
彼は、徳川家康の重臣、青山忠俊でした。
青山家ではじめて3代、同じ家から浜松藩主がたちます。
しかし、青山家2代目の青山忠俊は35歳で亡くなり、その後、弟にあたる青山忠重は藩主として大きな功績を残すことなく、浜松藩から亀山藩に移封されました。
その後、浜松藩主の地位に就いたのは、松平家ですが、松平(本庄)家と松平(大河内・長沢)家の2種類がありました。
2つの松平家から6人の藩主がたちますが、松平家最後の藩主、松平資昌意外は幕府の要職に就き、藩政にはほぼノータッチでした。
松平資昌は、19才の若さで亡くなっています。
その後、藩主になったのは井上家です。
井上家で初代藩主になった井上正経は、寺社奉行、京都所司代、老中と幕府の役職を歴任しました。
跡を継いだ井上正定は33才で夭折、その後藩主の座に就いた井上正甫は、女性問題を起して天保の改革の主導者、水野忠邦に藩主の座を取られてしまいます。
水野家は、水野忠邦とその子ども水野忠精の2代浜松藩主を出しますが、両方とも老中など幕府の役職に就いたので、浜松の治世には関わりませんでした。
ちなみに、水野忠精は、横須賀造船所の建設を推進したともいわれています。
水野家が2代藩主を務めた後、藩主の座は再び井上家に戻ります。
井上正甫の長男、井上正春が水野忠精の後に藩主の座につきました。
彼もまた、奏者番、寺社奉行、大坂城代など幕府の要職を歴任し、浜松城主に返り咲きます。
実は水野家が領民に借金をしたまま移封先の山形に行こうとしたため、井上家が間に入り領民を宥め、一揆を収めたという逸話が残っています。
井上正春は藩主としても有能で、綿糸を利用した浜松織物の生産を奨励したほか、藩校克明館を設置し、藩士の教育に力を尽しました。
最後の藩主である井上正直は、老中を務めた後で慶応2年(1866年)の第二次長州征討では第14代将軍・徳川家茂に従軍し上洛しています。
明治維新後は細々とくらし、明治37年に死去しました。
浜松藩まとめ
浜松藩は藩主の多くが老中、京都所司代、寺社奉行など幕府の役職を歴任し、華々しく出世した一方、浜松藩主としてはあまり功績を残していません。
そのため、浜松藩は大きな問題も起きなかった反面、傑出した人物も育たず幕末も迎えています。
なお、水野忠邦だけは箔を付けるために藩主になったという見方が有力です。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。