岡崎藩石高は低いが格は高い

岡崎藩

水野家の家紋「水野沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
岡崎藩(1602年〜1871年)
所属
愛知県
関連する城・寺・神社
岡崎城

岡崎城

関係する城

岡崎藩は、愛知県東部「三河の地」と呼ばれた一帯を治めていた藩です。
岡崎城は江戸幕府を開いた徳川家康が生誕した城でもあり、石高は低いですが格の高い大名家によって治められてきました。
そんな、岡崎藩の歴史を紐解いていきましょう。

江戸幕府が開かれる前の岡崎藩

岡崎の地は徳川家康の祖父である松平清康が、西郷信貞より奪還した場所です。
松平清康、その嫡男で徳川家康の父にあたる松平広忠も20代半ばの若さでなくなり、徳川家康も織田家や今川家に人質として19歳まで過ごします。
永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、徳川家康はようやく人質から解放され、岡崎城を本拠地として天下統一への道を歩み出します。

元亀元年(1570)、徳川家康は自身の本拠地を遠江浜松(現、静岡県浜松市)へ移し、岡崎城は、嫡男松平信康を城主となりました。信康が自害した後、岡崎城は石川数正や本多重次といった徳川の重臣が城主を務めます。
その後、天正18年(1590)に、徳川家康が豊臣秀吉の命によって江戸に本拠地を移すと、田中吉政が城主となりました。

田中吉政は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に味方したため、江戸幕府が開かれた後、筑後国柳河藩32万5000石へ加増移封されます。

岡崎藩の成立から明治維新まで

田中吉政が移封された後、代わりに岡崎城を与えられたのは徳川氏譜代の重臣である、本多康重です。
この本多康重が岡崎藩の初代藩主となりました。本多康重は徳川家康の信任が厚く、岡崎藩成立後に3万石増加して最終的に5万石となっています。

本多康重は岡崎城を大規模に改修し、現在修復された複合連結式望楼型3重3階の天守や、曲輪、櫓などを作りました。
また、検地を実施して東海道の整備、城下町の建設なども行い、岡崎藩の基礎を築きました。

なお、岡崎の地は立地条件が悪く、「岡崎の27まがり」と呼ばれる細長い城下町が築かれたと記録に残っています。

本多家は、初代康重から始まって、本多康紀、本多忠利、本多利長の4代に渡って岡崎藩を治めます。
3代目の本多忠利までは大坂夏の陣で武勲をたてるなどしましたが、4代目の本多利長は、遠江横須賀へ移封された後で過酷な治世を行ったとのことで、改易されました。

本多家が移封された後、岡崎藩を治めたのは水野家です。このとき、石高を1万石増加され、石高が6万石になりました。

初代藩主水野忠善は、尾張徳川家を仮想敵国として軍備増強に力を入れます。
2代目、3代目は寺社奉行などの幕府の役職に就き、岡崎藩の政治は国元の家臣に任されました。

4代目藩主、水野忠之は元禄14年(1701)に播磨赤穂藩主の浅野長矩が高家吉良義央へ刃傷沙汰に及んだとき、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めを行っています。

また、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした後、幕府へ出頭した後で9名の浪士を邸宅に預かっています。
その際、浪士達に過酷な仕打ちを行った後で切腹させたので、水野家は祟られたという伝説が生まれました。
事実、赤穂浪士の討ち入りがあって以降、水野家では不幸が続きます。

水野忠之自身も若年寄から老中へと出世し、8代将軍吉宗の片腕となって活躍しましたが、年貢を4公6民から5公5民に引き上げるなど過酷な制作を押し進めたため、民衆から深く恨まれることとなりました。

6代目藩主水野忠辰は、傾きかけた藩の財政を建て直そうと倹約を徹底します。1日の食費を100文、着るものは木綿のみと自ら率先して質素倹約に努め、財政もある程度回復しましたが、保守派家老達の妨害工作にあい、改革は道半ばで挫折しました。

その結果、水野忠辰は一転して遊興にふけるようになり、心を痛めた生母、順性院が死を持って彼を諫めようとする事件を起します。

しかし、この一件でさらに自暴自棄になった水野忠辰は、遊女を身請けして側室にするなど乱心し、ついに家督を養子・忠任に譲って幽閉され、29才の若さで座敷牢にて亡くなりました。
この一連の騒動は「水野騒動」と呼ばれ、跡を継いだ7代目藩主水野忠任は肥前唐津藩に転封されます。
なお、転封後水野忠任は唐津藩で増税政策を取ろうとしましたが、領民達から激しい反発を受けて挫折しました。

水野氏が転封された後、一時的に松平康福が城主になりますが、彼は寺社奉行、大坂城代、と幕府要職についていたため、国元に入ることはほとんどありませんでした。岡崎藩主になったのも、老中になるための箔付けといった感じです。

松平康福は田沼億次と強い繋がりがあり、自分の娘を嫁がせています。1代のうちに何度も国替えを経験し、田沼億次とともに失脚したため、藩での功績はほとんどありませんでした。

その後、岡崎藩は忠勝系本多家宗家11代目にあたる本多忠粛が入ります。
この本多家が幕末まで岡崎藩の藩主を務めました。

この頃、藩の財政はかなり厳しく、本多家2代目藩主本多忠典は、幕府へ豊かな地へ再度移封を願い出たり、預かり地を与えてもらえるように願い出たりしていますが、いずれも却下されています。
そのかわり、1万両を10年かけて与えられたり、諸役も免除されたりするなど優遇措置も受けています。
彼は27才の若さで亡くなったため、養子の本多忠顕が3代目藩主となります。この際、相次ぐ養子相続から、家督抗争が起こりますが大きな騒ぎになる前に沈静化しました。

しかし、本多忠顕は、中根忠容と服部平兵衛という家臣が財政建て直しに東奔西走して借金を23万両に減らすことに成功したのをいいことに遊興にふけり、彼らが相次いで失脚した後も、藩政を顧みませんでした。
そのため、藩の財政は再び困窮し、武具も馬も維持していくことができないところまでとなります。

破産寸前の藩を受け継いだ4代目藩主本多忠考は病弱で藩政が満足に取れなかったうえ、矢田川の洪水など天災が発生し、藩はさらに窮乏します。

跡を継いだ養子の本多忠民は老中を2年務めるなど幕末の幕臣として活躍しましたが、国元にはあまり帰りませんでした。

そして、最後の藩主本多忠直の時代、岡崎藩は明治政府に恭順の意思を示して明治を迎えます。
彼はヨーロッパへ留学するなど見聞を広げましたが37才の若さで死去、その後は養子の
本多忠敬が継ぎます。
彼は、廃藩置県の後岡崎城を公園に整備して市に寄付をしたり、岡崎市の教育事業に携わったりするなど、故郷の発展に尽力しました。

岡崎藩まとめ

岡崎藩は徳川家発祥の地であり、岡崎藩藩主の地位は一種の名誉職のように扱われました。
そのため、本多家や水野家など格の高い大名家が移封されます。
しかし、藩の財政は苦しく一時期を覗いてつねに破産寸前だったようです。
なお、最後まで藩主を務めた本多家はまだ現存しており、現当主はたびたび徳川家関係のイベントなどでも登場しています。

関係する城
AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。