日出藩(1/2)豊臣秀吉に連なる一族が納めた

日出藩

木下家の家紋「木下沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
日出藩(1600年〜1871年)
所属
大分県
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日出藩は、大分県速見郡一帯を納めていた2万5千石の小藩です。豊臣秀吉の正妻、おね(高台院)の兄、木下家定の三男である木下延俊が初代藩主となり、そのまま移封もされずに木下家が明治維新まで藩主を務めました。
そんな日出藩の歴史を紐解いていきましょう。

日出藩成立までの歴史

日出藩は、豊臣秀吉の正妻、おね(高台院)の兄、木下家定の三男である木下延俊によって開かれました。
木下延俊は、秀吉に召し抱えられて若狭国小浜領主となり、後には備中足守藩主となります。なお、木下延俊は関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで有名となった小早川秀秋の実兄でもあります。

木下延俊は、細川ガラシャの夫として知られている細川忠興の妹と結婚していましたが、関ヶ原の戦いでは、彼の助言を受けて東軍に加わります。

その功績をもって、日出藩の領地を下賜されたのです。なお、下賜された領地は3万石でしたが、2代藩主木下俊治の時代、弟の木下延由に5000石を分け与えたことで、2万5千石になっています。
この石高を日出藩は幕末まで維持しました。これは非常に珍しいことです。

木下延俊は通称「慶長日記」と呼ばれる日記の著者としても有名です。
この日記は、慶長18年(1613年)の元旦から大晦までの1年間の出来事を1日も欠かさず記したもので、当時の大名の生活や大慶長19年(1614年)に起こった大坂冬の陣までの動きを知ることができる貴重な資料となっています。

木下延俊は、元和14年(1637年)に起こった島原の乱にも出兵した武将でもありましたが、当時としてはそこそこ長寿である66歳まで生きて江戸で没しました。

江戸時代の日出藩

2代目藩主である木下俊治は、薩摩藩から畳表の材料である「七島蘭」を譲り受けて、その国産化に努めるなど、藩を豊かにするために尽力しましたが、48歳のときに参勤交代の途中で急死しました。

3代目藩主木下俊長、4代目藩主木下俊量の時代には、農地を新しく開墾したり長河原・富水池の治水工事を行なったりして、領地の整備を進めています。
しかし、農民が逃散するなどの事件もあり、そのせいで3代藩主木下俊長は、一時謹慎をしています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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