日出藩(2/2)豊臣秀吉に連なる一族が納めた

日出藩

木下家の家紋「木下沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
日出藩(1600年〜1871年)
所属
大分県
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5代藩主は早世、6代藩主木下俊保の時代は享保の飢饉が起きて幕府より3,000両を借料しなければならなくなるなど、藩政がおおきな打撃を受けました。その心労がたたったのか、俊保は33歳の若さで急死しています。

その後も藩政の混乱は11代藩主木下俊懋の代まで続きます。なお、10代藩主木下俊胤は文武両道の人物で藩士の教育するために自ら講師を務め、馬術や剣術、槍術にも優れていたといわれていますが、藩政を建て直すまでには至りませんでした。

11代藩主木下俊懋の代でようやく殖産興業政策や塔ノ平池の治水工事を行って、わずかながら藩政が立ち直ります。
しかし、その後も藩政は厳しいままで、13代藩主木下俊敦は豊後三賢の1人、ら帆足万里を登用して藩政改革を行ないましたがうまくいきませんでした。

14代藩主は20代前半、15代藩主は35歳と若くして亡くなり、最後の藩主である木下俊愿もの享年も44歳です。
木下俊愿は、幕派と尊皇派に分裂して対立していた藩内の意見を尊皇派にまとめ、戊辰戦争では新政府軍に加わります。

明治2年(1869年)に版籍奉還して藩知事に任ぜられますが、税を重くしたために農民が一揆を起すなどして、藩政は決して安定しませんでした。

明治4年(1871年)、廃藩置県により藩知事を罷免されたあとは華族に列せられ東京で暮らし、そこで亡くなりました。

現在の木下家

16代にわたって日出藩藩主を務めた木下家は現在も血脈が続いており、2022年4月、19代目当主である木下崇俊さんが88歳でなくなっています。
木下崇俊さんは上皇陛下のご学友でもあり、たびたび週刊誌などにも登場していました。
地元では「殿様」として慕われており、現在も日出町には旧家臣団の会があります。
ちなみに、明治生まれの作曲家「滝廉太郎」の生家も、日出藩の重臣でした。

日出藩まとめ

日出藩は、豊臣家の重臣でもあった木下家が開祖となり、その後移封されることも石高の増減もなく、明治を迎えた大変珍しい藩です。

藩主は初代を除けば短命も多く、藩政も決して豊かとはいえませんでしたが、大きな一揆もなく穏やかな藩だったと推測されます。

なお、19代目の藩主であり2022年になくなった19代目当主の木下崇俊さんは、生前に「豊臣家の末裔」として、たびたびマスコミにも登場しました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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