紀州藩徳川御三家の一つ、紀伊徳川家が治める
徳川家の家紋「三つ葵」
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和歌山(紀州)藩は、現在の和歌山県と三重県南部にあたる紀伊国一国と伊勢国の南部を治めた藩です。和歌山藩は大政奉還後に付けられた名称で、江戸時代の間は「紀州藩」と呼ばれました。
徳川家康の十男、二代将軍徳川秀忠の弟に当たる徳川頼宣が入城した時から、徳川御三家の一つ、紀伊徳川家として明治まで徳川家によって治められました。
八代将軍徳川吉宗を輩出したことでも知られています。そんな和歌山藩の歴史を紐解いていきましょう。
和歌山(紀州藩)の成立
和歌山の地は、豊臣政権下では天正14年(1586年)より桑山重晴が3万石で治めていました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、桑山重晴の孫に当たる桑山一晴が東軍に味方したため、改めて2万石で和歌山の地を与えられます。しかし、彼はすぐに大和新庄藩に転封となります。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が37万6千石で紀州藩主となりました。
浅野幸長は、和歌山城を改築して城下町を整備するなどしましたが、元和5年(1619年)改易となった福島正則の代わりに、広島藩に加増転封されて紀州から去ります。
その後、浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で徳川家康の十男、徳川頼宣が入城して、紀伊徳川藩が成立したのです。
紀伊徳川家の治世
初代藩主、徳川頼宣は戦国武将的な性格をしていたと言われており、紀州に入ったときは浪人を多数召し抱えていました。
また、慶安4年(1651年)に起きた慶安の変において、首謀者の由井正雪が頼宣の印章文書を偽造したことにより、松平信綱、中根正盛ら幕閣に謀反の疑いをかけられ、10年間江戸に留め置かれ、和歌山に帰国できなかったという逸話が残っています。
また、2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、和歌山城を大改築しましたが、あまりにも大規模な工事を行ったので、やはり謀反が疑われたと言われています。
藩政では、城下町を整備し、地元の国人を懐柔する地士制度を実施しました。
2代目藩主徳川光貞は、8代将軍徳川吉宗の実父です。3代将軍徳川家光の従兄弟にもあたり、寛文7年(1667年)~元禄11年(1698年)まで31年間という長期間藩政をつかさどりました。
法令27箇条を制定するなど善政を敷き領民に慕われる一方、嫡男である綱教に5代将軍徳川綱吉の長女鶴姫が嫁ぎ、将軍家との絆も深めます。しかし、宝永元年(1704年)に鶴姫、翌年に嫡男綱教が相次いで死去、急遽跡を継いだ4代藩主徳川頼職も、葬儀後に急死するなど悲劇に見舞われます。
このあたりの顛末は、徳川吉宗が将軍になる課程でよく描かれるシーンですので、小説やドラマで知っている方も多いでしょう。
3代藩主徳川綱教は39才、4代藩主徳川頼職が26才で没しています。
5代藩主の座に就いたのは、8代将軍ともなった徳川吉宗です。
吉宗は、徳川光貞の四男にあたり、母親の身分も低かったことから藩主になる可能性はとても低かったにもかかわらず、相次いで兄が死去したことにより22才で藩主の座に就きました。
紀州藩主となった吉宗は、藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図るなど藩政改革に着手します。
このとき紀州藩は、2人の兄と父の葬儀費。幕府からの借用金、宝永4年(1707年)に起きた宝永地震・津波の復旧費用なので財政がかなり悪化していました。
吉宗はその再建に手腕を発揮したほか、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募って民の声を聞き、文武を奨励するなど風紀の改革にも努めています。
吉宗は10年6か月藩主を務めた後、7代将軍徳川家継が8才で後継を残さず病死をしたことをうけ、協議によって8代将軍の座に就きました。
徳川吉宗の治世はドラマや小説で多く取り上げられており、「江戸幕府中興の祖」としても有名です。
は、徳川吉宗の従兄弟に当たり41年の長きにわたり紀州を治めました。
藩札発行や銅銭鋳造などをおこなって財政を建て直そうとしましたが、あまり効果は得られなかったようです。
7代藩主、徳川宗将は長命だった父に比べて46才という短命であり、藩政をつかさどった時間も10年未満でした。
あまり藩政に興味を示さず仏教に帰依し、日蓮宗を激しく排撃したと記録に残されています。
8代藩主徳川重倫は20才で藩主の座に就き、30才で隠居、隠居期間が50年以上にわたったという特異な人物です。
これは、あまりにも傍若無人な人柄でついに幕府から登城を禁止されるまでになり、なかば強制的に隠居させられたという説が有力です。
9代藩主徳川治貞は、6代藩主徳川宗直の次男に当たり、重倫の養子という形で藩主を継ぎました。非常に聡明な人柄で、熊本藩8代藩主・細川重賢と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞され、麒麟をもじって紀麟公と呼ばれました。
徳川吉宗に習い、綿の服と粗食を望んで質素倹約に励み、財政を建て直しただけでなく、10万両の貯蓄まで築いて死去したと伝えられています。
10代藩主徳川治宝は、8代藩主徳川重倫の実子です、父徳川重倫が隠居したことはまだ幼少だったので、大叔父の徳川治貞の後に藩主の座に就きました。学問好きの藩主として知られており、和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を作って紀州藩士の子弟の教育を義務化しました。このとき、これら藩校に集められた蔵書は、現在も紀州藩文庫に保管されています。
仁井田好古や本居大平を登用して史書を編纂させ、「紀伊続風土記」の新撰を命ずるなど文化・芸術面での功績が非常に大きく、「数寄の殿様」という別名があるほどです。
また、表千家や楽家を庇護も積極的に行いました。
しかし、文政6年(1823年)、紀ノ川流域で「こぶち騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が勃発。その責任を取る形で隠居をしています。
11代藩主徳川斉順は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の七男で、養子縁組をして紀州藩主となります。12代将軍・徳川家慶の異母弟であり、13代将軍・徳川家定の伯父、さらに14代将軍徳川家茂の実父です。
しかし、彼は家茂が誕生する前に死去したため、父子は面識がありません。
藩主になった当時、紀州藩には重倫、治宝の2人の元藩主が隠居しており、彼らの生活費だけで莫大な出費になりました。
また先代藩主の徳川治宝が政治の実権をまだ手放さなかったため、家臣の間にも深刻な対立が生じたという記録が残っています。
なお、彼の治世は21年にも及びました。
12代目藩主の徳川斉彊は、徳川家斉の二十一男に当たります。10代目藩主であった徳川治宝は、西条藩主・松平頼学を12代目藩主にと望みましたが、紆余曲折のすえ、徳川斉彊が藩主となりました。
落雷で和歌山城の天守閣が焼失するなど数々の困難に見舞われ、30才の若さで死去します。
13代藩主徳川慶福(とくがわよしとみ)は、14代目将軍徳川家茂でもあります。
藩主であった期間は9年2か月ですが、家督を継いだのが4才であったため、藩政にはほとんど関わっていません。
13才で将軍となりました。皇女和宮と結婚し、慶応2年(1866年)、第2次長州征伐の途上、大阪城で病に倒れ、死去しました。
徳川家茂・慶喜は幕末を舞台にしたドラマや小説、映画、漫画などに頻繁に登場するので、
その生涯をご存じの方も多いことでしょう。
最後の藩主になる14代徳川茂承は、8代藩主・徳川重倫の実弟に当たります。
徳川家茂の死後、茂承を将軍に推挙する動きもありましたが、それを断って徳川慶喜を将軍に推し、自身は紀伊徳川家の当主になりました。
長州戦争では第二次征長軍の先鋒総督に任命されて出兵し、藩政においては御用取次に登用した津田出に藩政改革を行わせています。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発したとき、徳川茂承は病で伏せっていましたが、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んでいたことと、紀州藩が御三家の一つであったことから、明治政府が討伐をしかけています。
しかし、徳川茂承は藩兵1500人を新政府軍に提供した上、軍資金15万両を献上することで、新政府に叛く意志はないということを証明したので、討伐は取りやめになりました。
なお、同時に紀州藩は勅命により京都警備の一翼を担っています。
明治2年(1869年)の版籍奉還が行われたことにより和歌山藩知事となり、2年後の明治4年(1871年)に廃藩置県が行われて藩知事の任を解かれ、東京に住居を移しました。
なお、徴兵令や秩禄処分などの新政策によって窮乏しつつある士族を見て、「武士は自立すべし」と旧紀州藩士族の共有資本として徳義社を設立します。さらに、徳義中学校を開設し、窮乏する士族の援助育成に尽力しました。
その後、徳川茂承は63才で亡くなるまで、貴族院侯爵議員を務めました。
紀州藩まとめ
紀州徳川家は、8代将軍、14代将軍という2人の将軍を輩出した名門の家です。
家系は現在までも続いており、当代当主で19代目を数えています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。