杵築藩(2/2)二つの家に治められた小藩

能見松平家の家紋「五葉雪笹」

記事カテゴリ
藩史
藩名
杵築藩(1632年〜1871年)
所属
大分県
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三代目藩主の松平重休の代で、杵築城の台山の城郭は機能を失い、台山北麓にある御殿に政治機能が全て移りました。

また、このときに、幕府の朱印状に「木付」と書くべきところが「杵築」と記されるという間違いが起ります。
このことをきっかけに、藩の名前は杵築藩、城の名前も杵築城に改められました。松平重休は領民に慕われる善政を布いたと伝わっていますが、残念ながら25才の若さで死去してしまいます。

4代藩主松平親純の時代に享保の大飢饉がおき、藩にも大きな被害が出ました。このとき、杵築藩は幕府に3,000両の借金をして凌ぎますが、この借金によって藩の経済は苦しくなっていきます。

5代藩主松平親盈は、傾いた藩の経済をなんとか建て直そうと藩札を発行して倹約例を出しますが、宝暦年間は凶作が相次いだため、焼け石に水の有様でした。

6代目藩主松平親貞の代ではさらに明和の大火により江戸屋敷が全焼するという凶事にみまわれます。江戸屋敷再建のために藩の財政は更に悪化しました。

7代目藩主、松平親賢は天明6年(1786年)に行き詰まった藩政を何とかしようと思想家で自然哲学者でもある三浦梅園を家臣に迎え藩政改革を行ないました。

しかし、一度傾いた藩政はなかなか改善せず、9代目藩主の松平親明の時代には、藩内で一揆や打ち壊しが相次ぎます。

9代藩主松平親良は、13代目将軍徳川家斉に直接使え奏者番や寺社奉行など幕府の役職を歴任した人物です。そのため、佐幕派であり第二次長州征伐にも積極的でしたが、藩内は尊王攘夷派と佐幕派で分裂して対立がおき、思うように結果を残すことができませんでした。慶応4年(1868年)にはようやく上洛して明治天皇に拝謁しています。

最後の藩主である松平親貴は、新政府派で会津戦争のときには新政府軍に加わって会津にまで出兵しています。
明治になると藩知事になりますが明治4年に廃藩置県が行われると罷免され、東京に移り住みます。明治6年、権少教正という宗教官吏となりますが、45才の若さで死去しました。

杵築藩まとめ

島津氏をはじめとする大規模な外様大名が多い九州の地で、2万~4万石の杵築藩は小藩で、しかも天災に多く見舞われて、苦難の歴史を辿りました。

杵築城も明治になると早々に取り壊され、昭和45年にやっと天守閣が復元されたほどです。
しかし、能見松平氏の歴史は現在も復元された杵築城内の資料館などで見ることができ、歴代藩主が調えてきた城下町は風情ある街並みとして観光名所にもなっています。

なお、孫に当たる松平親義氏は、法学者兼政治家として日本国憲法制定に関わっています。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。