杵築藩二つの家に治められた小藩
能見松平家の家紋「五葉雪笹」
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杵築藩はの豊後国国東郡・速見郡内を領した藩で、杵築城を藩庁として小笠原氏と能見松平という二つの家が幕末まで治めた譜代大名の藩です。
2万~4万石の小藩ですが、平地が少ない分畳の原料であるい草などと栽培して藩の財政を支えました。
そんな杵津藩の歴史を紐解いていきましょう。
江戸時代までの杵築藩
江戸時代以前、杵築の地は大友氏の庶流である木村氏によって統治されてきました。
戦国時代末期には、大友氏と島津氏の間で豊薩合戦が勃発し、杵築戦場になります。
このとき、杵築城の城主であった木付鎮直は島津氏の家臣である新納忠元の軍を2ヶ月間、籠城して耐え抜きました。
しかし、その後木付鎮直は主君であり、大友宗麟の嫡男である大友義統が文禄の役での失態を咎められて改易すると、木付鎮直は城内を掃き清めて妻と共に自害をしてしまいます。
なお、木付鎮直は自信の子どもと孫を文禄の役で失っています。
治める者がいなくなった杵築の地は豊臣家の蔵入地(直轄地)となります。前田玄以、宮部継潤が奉行を務めた後で、慶長元年(1596年)に杉原長房の所領となりました。
杵築藩の成立
慶長4年(1599年)より、杵築の地はで細川忠興の所領となります。細川忠興は、松井康之、有吉立行などを杵築城代として統治させました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功で、細川忠興は豊前一国を加増されます。
細川家は中津城に一旦本拠地をしたあと藩庁を小倉城に移し小倉藩を成立させました。
寛永9年(1632年)細川忠興の息子忠利が熊本藩に転封となると、小倉藩は小笠原忠真が移封されます。そして、木付には忠真の弟で旗本の小笠原忠知が4万石で入城し、ここに杵築藩が成立しました。
小笠原忠知は、寛永14年(1637年)の島原の乱出陣と島原城在番などで功績を残し、藩政においても植林事業で一定の成果を上げます。
その功績を持って、正保2年(1645年)5,000石加増の上で三河吉田に加増移封されます。その後、小笠原氏に変わって杵築藩に移封されてきたのが、松平英親です。
松平英親は高田藩初代藩主・松平重直の長男で、能見松平家の7代目にあたります。
この、能見松平氏が幕末まで杵築藩を治め続けました。
能見松平氏の統治
初代藩主松平英親は、25か条の法令を出して藩政を調え、検知を行って新田開発に力を入れました。
二代目藩主松平重栄は、隣藩の日の出藩から百姓が離散して藩内に侵入したところを保護し、日の出藩と交渉をしながら穏便に解決したという実績を残しています。
三代目藩主の松平重休の代で、杵築城の台山の城郭は機能を失い、台山北麓にある御殿に政治機能が全て移りました。
また、このときに、幕府の朱印状に「木付」と書くべきところが「杵築」と記されるという間違いが起ります。
このことをきっかけに、藩の名前は杵築藩、城の名前も杵築城に改められました。松平重休は領民に慕われる善政を布いたと伝わっていますが、残念ながら25才の若さで死去してしまいます。
4代藩主松平親純の時代に享保の大飢饉がおき、藩にも大きな被害が出ました。このとき、杵築藩は幕府に3,000両の借金をして凌ぎますが、この借金によって藩の経済は苦しくなっていきます。
5代藩主松平親盈は、傾いた藩の経済をなんとか建て直そうと藩札を発行して倹約例を出しますが、宝暦年間は凶作が相次いだため、焼け石に水の有様でした。
6代目藩主松平親貞の代ではさらに明和の大火により江戸屋敷が全焼するという凶事にみまわれます。江戸屋敷再建のために藩の財政は更に悪化しました。
7代目藩主、松平親賢は天明6年(1786年)に行き詰まった藩政を何とかしようと思想家で自然哲学者でもある三浦梅園を家臣に迎え藩政改革を行ないました。
しかし、一度傾いた藩政はなかなか改善せず、9代目藩主の松平親明の時代には、藩内で一揆や打ち壊しが相次ぎます。
9代藩主松平親良は、13代目将軍徳川家斉に直接使え奏者番や寺社奉行など幕府の役職を歴任した人物です。そのため、佐幕派であり第二次長州征伐にも積極的でしたが、藩内は尊王攘夷派と佐幕派で分裂して対立がおき、思うように結果を残すことができませんでした。慶応4年(1868年)にはようやく上洛して明治天皇に拝謁しています。
最後の藩主である松平親貴は、新政府派で会津戦争のときには新政府軍に加わって会津にまで出兵しています。
明治になると藩知事になりますが明治4年に廃藩置県が行われると罷免され、東京に移り住みます。明治6年、権少教正という宗教官吏となりますが、45才の若さで死去しました。
杵築藩まとめ
島津氏をはじめとする大規模な外様大名が多い九州の地で、2万~4万石の杵築藩は小藩で、しかも天災に多く見舞われて、苦難の歴史を辿りました。
杵築城も明治になると早々に取り壊され、昭和45年にやっと天守閣が復元されたほどです。
しかし、能見松平氏の歴史は現在も復元された杵築城内の資料館などで見ることができ、歴代藩主が調えてきた城下町は風情ある街並みとして観光名所にもなっています。
なお、孫に当たる松平親義氏は、法学者兼政治家として日本国憲法制定に関わっています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。