中津藩福沢諭吉を輩出

中津藩

黒田家の家紋「藤巴」

記事カテゴリ
藩史
藩名
中津藩(1587年〜1871年)
所属
大分県
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中津城

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中津藩は、現在の大分県中津市一帯を治めていた藩です。豊臣秀吉に知略で使えた黒田孝高と、肥後細川氏の祖である細川忠興氏が築いた中津城を藩庁とし、幕末まで4つの家が治めました。福沢諭吉を輩出した藩として知られています。そんな中津藩の歴史を紐解いていきましょう。

黒田氏・細川氏の統治

中津藩の基礎を築いたのは江戸時代以前と関ヶ原の戦い前後に中津の地を治めていた黒田氏と細川氏です。
黒田孝高は、豊臣秀吉に豊前国6郡12万3000石を与えられて中津に入り、黒田城の築城を開始しました。
しかし、黒田孝高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦功を立てたため、増石のうえ「福岡藩」へ移封になります。

黒田氏の後に中津の地を与えられたのが、肥後細川氏の祖である細川忠興です。
細川忠興は築城途中であった中津城を20年以上の歳月を得て完成させるとともに、城下町を整えました。
今でも中津市では細川忠興が整えた城下町の痕跡や地名を見ることができます。

なお、細川忠興は慶長7年(1602年)小倉城を築城、自身もそこへ移ったことで藩の名前が「小倉藩」となり、中津藩は支藩扱いになりますが、寛永9年(1632年)に細川氏が肥後藩へ移封となっため、再び中津藩は独立した藩となりました。

小笠原氏の統治

細川氏が肥後藩に移封になった後、播磨国龍野から、譜代大名小笠原長次が8万石で移動してきました。
この時期、九州北部はすべて譜代大名小笠原氏の支配下となっています。

初代藩主小笠原長次こそ、新田開発をしたり新田開発をしたりして藩の発展に貢献しましたが、2代目藩主小笠原長勝は、藩政を放り出して奢侈にふけり参勤交代の費用すら事欠く有様になりました。ついに幕府からお仕置きを受けるまでになったので、相当目に余る悪政を敷いたことが察せられます。

長勝は信濃守に左遷され、その後を甥である小笠原長胤が継ぎます。3代目藩主となった彼は藩主になってしばらくは大規模な治水工事を行って新田開発などを試みましたが、工事費がさらに藩政を圧迫するようになると、それに嫌気がさしたのか先代同様藩政をおろそかにするようになりました。

家臣がいさめるも聞き耳持たず、ついに幕府は元禄11年(1698年)に小笠原長胤を改易します。通常なら、ここで小笠原氏は断絶となりますが、先祖の功績を考慮されて4万石に減石されたうえ、初代藩主小笠原長次の孫にあたる小笠原長円が跡目を継ぐことを許されました。

しかし、長円も暗愚な藩主で2代藩主、3代藩主同様藩政を放り出して奢侈におぼれ、30代で死去します。
その後を長男の小笠原長?がわずか6歳で継ぎますが夭折し、ここに小笠原氏は断絶しました。
幕府に咎められるほどの悪政を3代続けて藩主が行った例はひどく珍しいといえます。

奥平家の統治

小笠原氏が五代で途絶えた後、代わって中津藩に入ったのは奥平昌成です。
彼は、下野国宇都宮藩主、丹後国宮津藩主を経て10万石で中津藩藩主になりました。
この奥平家が明治時代になるまで中津藩を治めます。

2代目藩主奥平昌敦から藩政改革に着手し、質素倹約の推奨や運上役所の設置と商業統制、農業改革などを行って、藩政を立て直そうとします。
さらに、奉行制度の制定、目付や目安箱の設置、宝暦札の発行なども行いました。

3代目藩主奥平昌鹿は、西洋の解剖学の書である「ターヘル・アナトミア」を日本語訳した蘭学者の1名、前野良沢を手厚く保護し、藩でも蘭学を推奨しました。

4代目藩主の奥平昌男は、若年で後を継いだのでしばらく家老たちが政治の実権を握っていましたが、政治闘争の末家老たちを粛清して親政を行おうとします。しかし、その矢先に天明の大飢饉が起こり、再び藩の実権は家老たちに奪い返されてしまいました。
その失意の中で、彼は24歳の若さで死去します。

5代目藩主奥平昌高は、奥平昌男の娘婿で薩摩藩主・島津重豪の次男に当たります。
島津家も奥平家も蘭学が盛んだったせいか、本人も江戸屋敷に総ガラス張りのオランダ部屋を作り、出島で買い集めたオランダ製の品を飾るほどのオランダ好きでした。

オランダ語も達者で、オランダの商館長(カピタン)と長年交流し、通訳なしで会話したほどでした。
シーボルト事件で国外追放された「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」とも交流があり、5回も面会しています。

藩主の座を退き、隠居してからは通称「中津辞書」と呼ばれる「日蘭辞書」や「バスタールド辞書」を著し、西洋文化導入に大いに貢献しました。

6代目藩主奥平昌暢は、藩主の座についてすぐの24歳で夭折、その後を継いだ7代目藩主奥平昌猷も、5代藩主よりも早く30歳で亡くなってしまいます。

8代目藩主奥平昌服は、第6代藩主・奥平昌暢の次男であり、7代藩主の死後に跡を継ぎます。
藩主になって10年後の嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航して開国をせまります。
このとき、彼は鎖国攘夷を唱えており、まだ存命だった5代藩主奥平昌高と盛大にぶつかっていたという記録が残っています。

奥平昌暢自身は島津家の出ですが、奥平家は譜代大名だったので、長州征伐が起こった時は佐幕派として幕府軍に加わっていました。
しかし、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると明治新政府に味方して会津まで出兵しました。

9代目にして最後の藩主、奥平昌邁は、鳥羽伏見の戦いの年である慶応4年(1868年)に、8代藩主奥平昌服の隠居とともに藩主になります。

伊予国宇和島藩主・伊達宗城の四男として誕生し、8代藩主奥平昌服の養子となっていました。
藩政を取った時間はわずかですが、選挙制を藩内に導入するなど斬新な政治を行います。廃藩置県後伯爵に任ぜられ、藩士の福沢諭吉や小畑新次郎にすすめられてアメリカ留学をしました。
帰国後は東京府会議員となり、東京府芝区長にも就任します。
さらに、福沢諭吉にすすめられて藩校・進脩館の後身校「中津市学校」を設立しました、
しかし、彼は渡米中にかかった病気がもとでわずか30歳で死去しました。

中津藩まとめ

今回は中津城・中津藩の歴史を紹介しました。
大分県の小さい藩でしたが、福沢諭吉という優れた人物を輩出しました。
これは、藩主の奥平家が蘭学をはじめとして新しい学問に貪欲で寛容だったからともいえます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。