広島藩浅野家が治め続ける

広島藩

福島家の家紋「沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
広島藩(1600年〜1871年)
所属
広島県
関連する城・寺・神社
広島城

広島城

関係する城

広島は、戦国時代に毛利家が陶氏(大内氏)を滅ぼして自らの領地とした場所です。
広島藩の藩庁であった広島城は毛利元就の孫にあたる毛利輝元によって建てられました。

しかし、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦で毛利輝元が西軍の総大将になったことにより、毛利氏は広島から長州へ改易されてしまいます。

その後、広島藩は福島正則が治めた後、浅野家が幕末まで藩を治めました。
そんな広島藩の歴史を紐解いていきましょう。

福島正則の治世

福島正則は、賤ヶ岳の七本槍の1人して豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将です。慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで敗戦の将となり、長州へ左遷された毛利輝元に代わって広島を与えられました。
慶長6年(1601年)から再検地を実施、毛利家時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なうなど、広島藩の藩政の基礎を固めました。

しかし、元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修したとして、武家諸法度に違反したと咎められ、信濃国川中島へ改易となってしまいます。

なお、この事件の真相は大坂の陣で徳川幕府が豊臣家を滅ぼしたことに福島正則が異を唱えたからという説もありますが、真相は定かではありません。

浅田家の治世

福島正則の改易により、紀州藩から浅野長晟が移封されてきます。浅野長晟は、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男に当たる人物です。

広島藩は大坂との間で瀬戸内海航路の海運に恵まれています。そのため、福島正則は木材・鉄・紙などの専売を敷きました。

浅野長晟もこの政策を引き継ぎます。さらに、米相場を利用して豊作の時に他国から安く米を仕入れ、高値になったころを見計らって売却。利ザヤを稼ぎました。
つまり、国ぐるみで商売をしたわけです。
これにより、広島藩の財政は早々に安定しました。

2代藩主浅野光晟は、徳川家康の外孫にあたる人物です。庶兄にあたる浅野長治に5万石えて支藩である備後三次藩を設立させました。
また、検地や税制改革、西国街道の整備や運輸整備などの藩政改革を実施しています。

3代藩主浅野綱晟は家督を継いで1年未満で病死、4代藩主浅野綱長の時代に赤穂事件が勃発します。吉良義央に刃傷した浅野長矩は分家筋に当たるため、浅野綱晟は赤穂浅野家筆頭家老である大石良雄へ穏便な開場をせまり、赤穂浪士らによる吉良家への討ち入りを防ごうとしましたが、結局討ち入りは行われました。
なお、広島藩は大石良雄の三男をはじめとし、赤穂藩の家臣を多く召し抱え分家の不始末の後始末もしています。
また、浅野綱長の時代、藩政に陰りが出てきたため藩札の発行なども行われています。

5代藩主浅野吉長は、広島藩の藩校である講学所を造ったり宮島の大鳥居を修繕したりといった功績を残しています。
また、この時代、浅野長政と伊達政宗の時代から続けていた伊達家との和解を林信篤などから盛んに進められます。
この和解政策はいったん成功しかけましたが「先祖に申し訳が立たない」などの理由で、再び反故されました。
なお、伊達家と浅野家の和解が成立したのはなんと平成6年(1994年)のことです。

6代藩主浅野宗恒は、悪化し始めた藩政を立て直すために改革を行い、おおよそ成功させてしまいます。
7代藩主浅野重晟は浅野宗恒の政策を引き継ぎ、社倉法による救荒策や絹・油などの国産振興策を進めました。
そのかいあって、経費削減のために閉校状態だった藩校を再開させることができます。
また、縮景園を大改築して現在の形に近いものにもしています。

8代藩主浅野斉賢の時代、広島藩にロシアに囚われてやっと故郷に帰った久蔵という人物により、牛痘の痘苗が持ち込まれますが、広島藩側がこの効果を信じず、広島藩内に天然痘の予防接種の一種である牛種痘法が広まることはありませんでした・

9代藩主浅野斉粛の時代、広島藩は天保の大飢饉などの天災に加え、河川の普請工事、将軍の姫との婚儀などの出費が続き、財政が火の車となります。
野村帯刀という人物により藩政改革が行われましたが、残念なことにあまり効果は上がりませんでした。

10代目藩主、浅野慶熾は幼年から聡明で賢君となる予感がありましたが残念ながら、家督を継いで半年後に死去します。
11代目藩主浅野長訓の時代も藩の財政は大変厳しかったのですが、野村帯刀・辻将曹の両名を家老として登用して藩政改革を実施、有能な人材を身分に関係なく登用し、洋式軍制の導入も行って藩政を立て直しました。

慶応2年(1866年)、第二次長州征討が勃発した際には、停戦を主張し、岡山・徳島両藩主との連署をもって幕府・朝廷に征長の非と解兵を志願しました。
なお、明治元年には明治政府に恭順の意を示すために徳川家からもらった諱である浅野茂長を浅野長訓に改めています。
大変領民に慕われており、家督を譲った彼が東京に移住しようとするとそれを引き留めようと農民たちが「武一騒動」という一揆をおこしています。

12代目、最後の藩主になった浅野長勲は、藩主につく前から養父浅野長訓を助け、江戸幕府と朝廷間の折衝に尽力した人物です。
広島藩は頼山陽の尊皇思想を柱に平和的に倒幕を行う方向で意見を一致させていました。第二次長州征伐は大義がないと出兵を拒否する藩士たちに、老中・小笠原壱岐守長行が反発します。
藩内では小笠原壱岐守長行を討つべしとの声も上がりますが、長勲は広島城内の大広間に全家臣を集めて老中を討つのはまかりならぬと説得しました。
その結果、内乱は免れましたが小笠原壱岐守長行は広島を去り、広島藩は出兵を拒否したまま第二次長州征伐が始まりました。

大政奉還の際も長勲は薩長と幕府の調停役に奔走しますが、結局大政奉還の建白書を土佐藩が抜け駆けで幕府に単独提出したことで、穏便な譲渡は立ち消えになり、戊辰戦争が勃発します。
この時の広島藩の動きは薩摩藩・土佐藩・長州藩などの動きに比べて地味で目立ちません。
しかし、平和に時代が移り変わるように尽力したのです。

なお、戊辰戦争の際に広島藩は「神機隊」と呼ばれる藩士と農民1,200人で構成された軍隊を派遣しています。西洋訓練を受けて最新鋭の武器を備えたえりすぐりの先鋭部隊で、相馬藩・仙台藩・旧幕府軍の連合軍などと戦い、戊辰戦争を早期終結させるのに一役買いました。

明治政府樹立後、長勲は藩主の座を退き、明治5年に日本最初の洋紙製造工場・有恒社を創立します。この製紙会社は大正時代に王子製紙に吸収合併されるまで稼働していました。
その後、明治14年(1881年)に元老院議官となり、翌年にはイタリア公使となり、ヨーロッパやアメリカを歴訪します。その時の経験を活かし、のちに旧藩内の若者や自身の容姿を、イギリスやフランスに留学させています。

その後も明治22年(1889年)に創刊された新聞「日本」への出資、十五銀行の頭取を務めるなど実業家としても大活躍して、94歳という長寿で亡くなりました。

広島藩まとめ

浅野氏は広島藩を初期から幕末まで治めました。
短命に終わった藩主も多かった半面、賢君も多く、特に12代目の浅野長勲は実業家としても有名です。
なお、浅野氏の家系はまだ続いており、現当主の浅野長孝氏は藩校がルーツである修道中学校・修道高等学校や広島修道大学を運営する学校法人修道学園名誉学園長を務めています。

関係する城
AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。