佐賀藩明治維新の立役者の1つ

佐賀藩

鍋島家の家紋「杏葉紋」

記事カテゴリ
藩史
藩名
佐賀藩(1607年〜1871年)
所属
佐賀県
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佐賀城

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佐賀藩は、現在の佐賀県佐賀市(当時は肥前国)にあった藩です。肥前国は元々龍造寺氏が国人から戦国大名まで成り上がり、治めた土地でした。しかし、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れた後は重臣である「鍋島直茂」が実権を握り、鍋島家が藩主として幕末まで治めました。そんな佐賀藩の歴史を紐解いていきましょう。

龍造寺氏と鍋島家の確執

佐賀藩は成立から幕末まで「鍋島家」という1つの家が治めていた藩です。鍋島家といえば「鍋島化け猫騒動」という怪談が大変有名ですが、あれはフィクションです。しかし、初代藩主鍋島勝茂の父、鍋島直茂とその主人筋にあたる龍造寺氏との間には怪談を生み出すほどの深い確執がありました。
龍造寺隆信の死後、その義理弟であり家老でもあった鍋島直茂が隆信の嫡男龍造寺政家の後見人となり実権を握りました。

そのころ、天下の実権を握っていた豊臣秀吉は鍋島家の龍造寺家支配を認め、龍造寺家の家督相続にも口を出してきます。龍造寺政家は天正18年(1590年)に秀吉の名で隠居させられ、その後を嫡男である龍造寺高房が継ぎます。しかし、豊臣秀吉は鍋島直茂にも4万4千石、その子どもである勝茂にも7000石の所領を安堵しています。つまり、佐賀藩はこの時期表向きの支配者は龍造寺家でしたが、実権は鍋島家が握っていたのです。
鍋島直茂、勝茂父子は秀吉亡き後関ヶ原の戦いでは西軍に与すると見せかけて東軍に通じます。その功績を認められて徳川家康に所領を安堵されました。

龍造寺高房は名目上の藩主ではありましたが、その実権は鍋島直茂、勝茂親子ににぎられていたため、高房その立場に絶望し、慶長12年(1607年)3月3日、江戸桜田屋敷で妻を刺殺した後、自殺を図ります。
高房は一命こそ取り留めましたが精神に異常をきたし、間もなく世を去りました。実子の死を知った龍造寺政家は、失意のあまり後を追うようにして世を去りました。

なお、龍造寺高房には、実子と弟がおりましたが龍造寺家の再興は幕府に認められず龍造寺家は消滅しました。
なお、龍造寺高房は江戸から佐賀城下の泰長院へ遺骨を移されて葬られましたが、高房の亡霊が馬に乗って佐賀城下を駆け回るという噂が流れ、鍋島直茂も元和4年(1618年)に81歳の高齢でありながら耳に腫瘍がで苦しみ抜いて死んだため、龍造寺高房の祟りとささやかれたのです。
このような紆余曲折を得て、鍋島直茂の息子、鍋島茂勝が初代藩主となって佐賀藩(鍋島藩)が成立します。

なお、鍋島藩は名目上は35万石以上の大藩でしたが、佐賀藩は35万7千石の大封でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)という自治領があったので、実質的には6万石程度だったと言われています。

幕末までの佐賀藩

前述したように、佐賀藩は鍋島藩が江戸初期から幕末まで治めました。藩主は11人いますが、その中でも有名なのが二代目藩主の鍋島光茂です。彼の小姓として勤めていた山本常朝が、田代陣基の対談から『葉隠』を生み出しました。
また、幕府に先んじて殉死を禁止したり、対等な立場であったはずの蓮池藩・小城藩・鹿島藩ら三支藩に三家格式を設けたりして鍋島家の佐賀藩支配を強めました。

佐賀藩は佐賀城の焼失や飢饉などたびたび災厄に遭いますが、藩を揺るがすほどの災難とはならず、代を重ねていきます。
肥前佐賀藩8代藩主であった鍋島治茂の時代、財政難が悪化しました。しかし、治茂は松原小路に藩校弘道館を設立したり米筈を発行するなど経済政策も積極的に推進したりして、藩の財政の立て直しに努めます。
さらに、六府方や徒罪方の設置をするなどして藩政を建て直します。この改革が佐賀藩を明治維新での薩長土肥で西南雄藩の一角を占めさせる礎になりました。

幕末の佐賀藩

9代藩主鍋島斉直の時代、イギリス船フェートン号が長崎を襲い、オランダ商館員を拉致して長崎奉行・松平康英を脅迫するフェートン号事件が勃発します。この騒動の責任を幕府は「佐賀藩が長崎警備の兵を減らしたため」と佐賀藩に押しつけました。そのため、佐賀藩は家老数人が切腹をさせられます。さらに、佐賀藩全体に大変な被害をもたらした台風(シーボルト台風)の襲来や江戸藩邸の焼失が重なり、佐賀藩の借金は13万両にも膨れ上がります。

そんな中で10代目藩主の座に就いた「鍋島直正」は、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行なったことで藩政改革を成功させます。
さらに、長崎警備の強化を掲げて独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置して反射炉などの科学技術の獲得にも力を入れます。

その結果、佐賀藩アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功しました。そして、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関や、蒸凌風丸という蒸気船まで完成させました。
この技術は、品川台場建設に大いに役立ち、江戸幕府老中の阿部正弘から信頼を得ます。

同時期、嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが来航して開国を迫りますが、鍋島直正は
イギリスの親善外交に対して開国論を主張しました。
鍋島直正は藩主を嫡男である鍋島直大に譲った後、関白近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請しています。
そして、盟友であった阿部正弘が没した後は、佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、藩内で犠牲者を出すことを防ぎました。

このような立ち位置にたった佐賀藩に対し、鳥羽・伏見の戦いの際薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がりましたが、佐賀藩は巧みに立ち回って薩摩藩・長州藩側が勝利に終わって以降は上京して新政府側に汲みしたため、征伐は行なわれませんでした。

なお、佐賀藩の近代西洋兵器は上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで新政府軍の主力となり、明治政府成立の後押しをしたのです。
このように、鍋島直正が行なった藩政により佐賀藩は諸藩の中でいち早く近代化に成功し、多くの人材も育ちました。そのため、薩摩藩、長州藩に比べて討幕運動には不熱心であった
にも係わらず、佐賀藩は、薩長土肥の一角を担うこととなったのです。

鍋島直正は、廃藩置県の後明治2年(1869年)に蝦夷開拓総督を命ぜられます。直正自身は蝦夷地へ赴かず、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に命じて佐賀藩の藩士も積極的に蝦夷に移住させます。
直正自身は大納言に転任し、満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言しました。
鍋島直正が明治4年(1871年)に病没すると、薩長土肥の中で佐賀藩(肥前)の影響力は急激に低下していきました。
鍋島直正の功績は大変大きく、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信と並んで佐賀七賢人の1人に数えられています。

鍋島直正の嫡子で、最後の藩主であった鍋島直大は明治維新の後、佐賀藩知事となりましたが、これを辞して岩倉使節団としてアメリカに留学、一旦帰国した後で今度は弟直虎・直柔とともにイギリスに留学します。帰国後は外務省御用掛となり、明治13年(1880年)駐イタリア王国特命全権公使に任ぜられました。
明治15年(1882年)帰国し、元老院議官、宮中顧問官等らを歴任し、明治天皇・大正天皇の篤い信頼を受けます。
その後、鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営、外国人居留地や避暑地の整備、鉄道建設、音楽推進など日本の近代化に力を尽しました。

現在の鍋島家

鍋島家の血脈は現在に至るまで存続しており、現当主は15代目の鍋島直晶さんです。直晶さんの妹に当たる鍋島房子さんは、現在、佐賀藩主・侯爵鍋島家の伝来品を扱う歴史博物館「徴古館」の館長を務めています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。