島原藩(2/2)江戸時代最大の内乱「島原の乱」の舞台

島原藩

有馬家の家紋「五瓜に唐花」

記事カテゴリ
藩史
藩名
島原藩(1616年〜1871年)
所属
長崎県
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高力忠房はその期待に見事に応え、島原の農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの政策を行って見事に島原を復興させました。

高力家は、その後長男の高力隆長が跡を継ぎますが、父の復興政策路線を引き継がずまた農民に過酷な税を課したため、改易の上仙台城に幽閉されてしまいました。

高力家に変わって島原を納めたのは同じく譜代大名であった松平忠房です。
彼は、長崎奉行の監督並びに長崎警備・西国大名の監視も目的として移封されたとも言われています。
松平家はその後5代にわたって島原を納めます。初代藩主松平忠房は農民を保護する政策を打ち出しましたが、虫害などの天災もかさなりなかなか藩政は安定しませんでした。
一時期家臣の黒川政勝が専横を極めたので、3代目藩主である松平忠俔以降、家臣の綱紀粛正を徹底する姿勢を貫いています。
5代目藩主松平忠祇のときに、下野宇都宮に移封となりました。

松平家に変わって島原に入ったのは、戸田忠盈です。病弱のため早めに隠居しましたが、「御教条之趣」を出して罪を犯した領民に対し厳罰でなく心や孝行で領民の心を変えること、と定めています。
その跡をついだ戸田忠寛は、島原の藩主であると同時に京都所司代や大阪城代などの幕府の要職を歴任してあまり島原の政治にタッチしないまま生涯を終えました。

その後再び島原藩は松平家が治めるようになりますが、戸田家から島原の領地を引き継いだ11代目藩主の松平忠恕の際、寛政4年(1792年)に普賢岳眉山が激震と共に大崩落を起こし、島原城下の大半が埋没するという大災害が起きました。(島原大変)

松平忠恕は病弱の身を押して領地の復興に努めましたが、心労が祟り大変が起きた数か月に死去してしまいました。
その跡を次いだ歴代藩主も藩の復興のために力を尽しましたが、島原大変の傷跡は大きく、藩の財政を大いに圧迫します。
さらに、外国船が領内の海に出現するようになり海の守りの強化も求められます。

そのような心労が重なったのか、12代目藩主の松平忠馮は49歳、13代目藩主の松平忠侯は43歳、以下、最後の藩主松平忠和まで全ての藩主が10代後半~20代で死去しています。

最後の藩主である松平忠和は、徳川斉昭の実子であり、最後の将軍徳川慶喜の異母弟に当たります。彼が藩主になった後、海防強化の必要性から軍制改革を行いますが、藩内の復興が最優先事項だったため、薩摩藩や佐賀藩のような西洋式の軍備を揃えることができませんでした。

幕末は、第一次長州征伐は幕府側につきます。そのため、家臣の反発を招き一部の過激な尊攘派の下級藩士が脱藩して天誅組の変や天狗党の乱に加わりますが、藩を揺るがすほどの自体にはなりませんでした。
慶応4年(1868年)からはじまった戊辰戦争では新政府側につき、明治維新を迎えます。
明治7年(1874年)、東照宮宮司となり、明治17年(1884年)に子爵に列されました。
死去したのは、大正6年(1917年)です。

島原藩まとめ

島原藩は江戸時代初期こそ朱印船貿易で栄えましたが、島原の乱以降国土が荒れ、雲仙普賢岳のたびたびの爆発など天災も頻発しました。

そのため、幕末も佐賀藩や薩摩藩のように目立った活躍はできず、ひっそりと明治維新を迎えました。
最後の藩主である松平忠和は徳川慶喜の異母弟でありますが、幕府側に過剰に接近することもなかったのです。
なお、水戸徳川家の藩主であった徳川斉昭の血筋は現在まで続いています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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