姫路藩(1/2)池田輝政や酒井家など名門が治める

池田家の家紋「備前蝶」

記事カテゴリ
藩史
藩名
姫路藩(1749年〜1871年)
所属
兵庫県
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日本で最も有名な城の1つである姫路城は江戸時代を通じて姫路城の藩庁として機能しました。
姫路藩は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将、池田輝政によって始まり、譜代大名の筆頭「酒井氏」が治めた時代に明治維新を迎えました。
では、これから姫路藩の歴史を紐解いていきましょう。

池田輝政以前の姫路藩

姫路城は、南北朝時代に赤松氏が姫山に砦を築いたことからはじまり、赤松氏の居城として長い歴史がありました。
戦国時代後期、姫路城は羽柴秀吉の中国攻めの本拠地となり、彼の異父弟羽柴秀長が一時期城代を務めた後、木下定家という武将が城主になります。

木下定家は大坂城の留守居など要職を務めましたが、関ヶ原の戦いでは西軍にも東軍にもつかずに中立を保ちます。
そのため、徳川家康は木下定家から姫路城を取り上げて岐阜城攻略の功績として家臣の池田輝政に52万石で与えました。
これにより姫路藩が開かれ、池田家の治世が始まります。

池田家の治世

姫路城の初代藩主である池田輝政は徳川家康の娘、督姫を妻にしています。
そのため、徳川家康の信頼も篤く外様大名でありながら52万石という大大名です。
また、幕府の政治にも深く関わり二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席もしました。
池田輝政は、姫路城を大改修し現在の形に近くしています。
彼が50歳で没すると池田利隆が跡を継ぎます。

利隆はすでに異母弟池田忠継に変わって備前岡山藩主として藩政を敷いていました。しかし、姫路藩藩主になった後すぐに33才の若さで病没してしまいます。

その跡を継いだのは子の池田光政ですが、当時7才であったため「幼少で姫路藩は治められない」と判断され、鳥取藩へ国替えされてしまいます。

こうして、池田家は姫路藩から離れましたが、池田光政はその後鳥取藩から岡山藩へさらに国替えとなり、その後明治維新まで彼の子孫が岡山藩を治めることになります。

本多家の治世

池田家に変わって姫路藩の藩主になったのは、本多忠勝の長男、本多忠政です。本多忠勝は伊勢桑名藩の初代藩主でありましたが、2代目にして国替えになりました。ちなみに、本多忠政も徳川家の姫を正室にしています(松平信康の次女、熊姫)。

本多忠政は50才で死去、その跡を次男本多政朝が継ぎますがどちらも目立った功績はありません。
その跡を継いだ本多政勝は本来なら藩主になれる立場ではありませんでした。しかし、二代目藩主本多政朝の子ども、政長・政信がどちらも幼少であったため、本多政朝の従兄弟である本多政勝が繋ぎとして跡を継ぎました。政朝の長男、政長を養子として成長した暁には藩主の座を譲る約束をしていましたが、次第に実子である本多政利に継がせたいと思うようになります。

そのため、政勝の実子、本多政利は父の死後、4代将軍徳川家綱の老中首座酒井忠清に働きかけ、本多政勝の遺領15万石のうち9万石を政長に、6万石を政利に分割して相続させるように工作しました。これを、六・九騒動といいます。

しかし、本多政利はこれを不服として本多政長を毒殺したと伝わっています。結局本多政利は姫路城藩主になることはできず、本多政長の養子本多忠国が姫路城藩主になり、その直後に陸奥国福島に国替えとなりました。
そして、本多政利は播磨明石へ転封となりましたが、悪政を敷きさらに侍女や家臣に躊躇なく暴力を振るうなど素行不良が目立ったため、ついに元禄6年(1693年)除封となり、出羽国庄内藩主・酒井忠真の預かりとなります。つまり、大名をクビになってしまったのです。

彼の粗暴な振る舞いは生涯治ることなく、大名でなければ死刑になっていたと伝えられています。この騒動により、本多家の姫路藩の治世は終わりを告げました。

酒井家が姫路藩主になるまでの過程

酒井家が姫路藩主になるまで、姫路藩の藩主はほぼ2代ごとに治める家が変わりました。
松平(奥平)・松平(越前)・榊原(松平)・本多家です。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。