姫路藩池田輝政や酒井家など名門が治める
池田家の家紋「備前蝶」
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- 姫路藩(1749年〜1871年)
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姫路城
世界遺産・国宝天守
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日本で最も有名な城の1つである姫路城は江戸時代を通じて姫路城の藩庁として機能しました。
姫路藩は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将、池田輝政によって始まり、譜代大名の筆頭「酒井氏」が治めた時代に明治維新を迎えました。
では、これから姫路藩の歴史を紐解いていきましょう。
池田輝政以前の姫路藩
姫路城は、南北朝時代に赤松氏が姫山に砦を築いたことからはじまり、赤松氏の居城として長い歴史がありました。
戦国時代後期、姫路城は羽柴秀吉の中国攻めの本拠地となり、彼の異父弟羽柴秀長が一時期城代を務めた後、木下定家という武将が城主になります。
木下定家は大坂城の留守居など要職を務めましたが、関ヶ原の戦いでは西軍にも東軍にもつかずに中立を保ちます。
そのため、徳川家康は木下定家から姫路城を取り上げて岐阜城攻略の功績として家臣の池田輝政に52万石で与えました。
これにより姫路藩が開かれ、池田家の治世が始まります。
池田家の治世
姫路城の初代藩主である池田輝政は徳川家康の娘、督姫を妻にしています。
そのため、徳川家康の信頼も篤く外様大名でありながら52万石という大大名です。
また、幕府の政治にも深く関わり二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席もしました。
池田輝政は、姫路城を大改修し現在の形に近くしています。
彼が50歳で没すると池田利隆が跡を継ぎます。
利隆はすでに異母弟池田忠継に変わって備前岡山藩主として藩政を敷いていました。しかし、姫路藩藩主になった後すぐに33才の若さで病没してしまいます。
その跡を継いだのは子の池田光政ですが、当時7才であったため「幼少で姫路藩は治められない」と判断され、鳥取藩へ国替えされてしまいます。
こうして、池田家は姫路藩から離れましたが、池田光政はその後鳥取藩から岡山藩へさらに国替えとなり、その後明治維新まで彼の子孫が岡山藩を治めることになります。
本多家の治世
池田家に変わって姫路藩の藩主になったのは、本多忠勝の長男、本多忠政です。本多忠勝は伊勢桑名藩の初代藩主でありましたが、2代目にして国替えになりました。ちなみに、本多忠政も徳川家の姫を正室にしています(松平信康の次女、熊姫)。
本多忠政は50才で死去、その跡を次男本多政朝が継ぎますがどちらも目立った功績はありません。
その跡を継いだ本多政勝は本来なら藩主になれる立場ではありませんでした。しかし、二代目藩主本多政朝の子ども、政長・政信がどちらも幼少であったため、本多政朝の従兄弟である本多政勝が繋ぎとして跡を継ぎました。政朝の長男、政長を養子として成長した暁には藩主の座を譲る約束をしていましたが、次第に実子である本多政利に継がせたいと思うようになります。
そのため、政勝の実子、本多政利は父の死後、4代将軍徳川家綱の老中首座酒井忠清に働きかけ、本多政勝の遺領15万石のうち9万石を政長に、6万石を政利に分割して相続させるように工作しました。これを、六・九騒動といいます。
しかし、本多政利はこれを不服として本多政長を毒殺したと伝わっています。結局本多政利は姫路城藩主になることはできず、本多政長の養子本多忠国が姫路城藩主になり、その直後に陸奥国福島に国替えとなりました。
そして、本多政利は播磨明石へ転封となりましたが、悪政を敷きさらに侍女や家臣に躊躇なく暴力を振るうなど素行不良が目立ったため、ついに元禄6年(1693年)除封となり、出羽国庄内藩主・酒井忠真の預かりとなります。つまり、大名をクビになってしまったのです。
彼の粗暴な振る舞いは生涯治ることなく、大名でなければ死刑になっていたと伝えられています。この騒動により、本多家の姫路藩の治世は終わりを告げました。
酒井家が姫路藩主になるまでの過程
酒井家が姫路藩主になるまで、姫路藩の藩主はほぼ2代ごとに治める家が変わりました。
松平(奥平)・松平(越前)・榊原(松平)・本多家です。
ここまでめまぐるしく治める家が変わった理由は、播磨国が幕府にとって要所であったことと、歴代藩主が後継ぎの幼いときに亡くなる例が多かったためです。
そのため、姫路藩は15万石で親藩が治める藩となり、藩主が後継の幼いときに亡くなると国替えを行うことが慣習化しました。
ですから、1代~3代ごとに治める家が変わっています。
歴代藩主の中には、白河騒動の引き金になった松平忠弘などもいました。
ここまで国替えが多いと、藩主の多くがろくに功績をのこせないまま代替わりをしています。
しかし、中には意外なことで名を残し、有名になった大名もいました。
越前松平家二代目当主、松平直矩です。彼は大名の中でも最も多く国替えを経験し、「引っ越し大名」のあだ名を付けられた悲運の人です。
2019年、松平直矩が姫路藩から日田藩へ国替えを命じられたときの顛末を描いた「引っ越し大名」という映画が公開されました。
松平直矩を及川光博さん、引っ越し奉行の片桐春之介を星野源さんが熱演し、ヒットしました。なお、この松平家に伝わっていた家宝の槍「御手杵」は、2015年にサービスを開始したブラウザゲーム「刀剣乱舞」に登場して知名度が一気に上がり、いまではレプリカが保存されている三島市の観光資源となっています。
酒井家の治世
さて、このように治める家がめまぐるしく変わった時代を経て、姫路藩は酒井忠恭が藩主の座につきます。酒井忠恭は9代将軍徳川家重が将軍につく前から西の丸老中として権力を握っていました。徳川家重が9代将軍についてからは、老中首座となります。酒井忠恭は、老中であると同時に上野前橋藩第9代藩主でしたが、上野前橋藩は利根川の氾濫が相次ぐ治世が困難な土地でした。年貢の実入りも少なく酒井家の格式を保つのに不適当であるとし、酒井家の財政立て直しのために姫路に国替えをしたのです。
この国替えに、酒井家の家老である川合定恒という人物が最後まで反対しましたが、無理矢理押し切って国替えは行われました。そのため、川合定恒は姫路国替えに積極的だった家老本多光彬や用人犬塚又内を家に招き入れて殺害し、後に自害しています。
なお、ここまでして国替えをした姫路藩は、当時夏に大干ばつが起きて一揆が多発、「寛延大一揆」と呼ばれる大規模な騒動にまで発展します。
また、酒井忠恭が姫路に入る直前の7月には台風が直撃、前述した川合定恒が独断で姫路城を開城して避難民を受け入れ。備蓄米を振る舞ったという記録が残されています。
しかも、8月には再び台風が来襲、酒井忠恭のもくろみははずれ、姫路藩は年貢の取り立てもままならないほどに荒れ果ててしまい、酒井家の財政はますます逼迫しました。
しかし、酒井家はこの難局をのりきり幕末まで姫路藩を治め続けます。財政が好転したのは三代目藩主の酒井忠道の時です。酒井忠道は河合道臣という人物を家老に付け、社倉(食料備蓄制度)冥加金(災害時緊急用貯蓄)を領内の百姓に徹底させます。
その後、木綿の栽培推奨、養蚕の直轄化、サトウキビの栽培など商品作物に力を入れて財政を建て直していったのです。
なお、この時代木綿の販売権は大阪の商人が持っていましたが、酒井忠道の八男・忠学の正室が11代将軍徳川家斉の娘だったため、将軍家の後ろ盾をもって木綿の売買権を藩直轄にしたということです。
財政を建て直した姫路藩はその後短命の藩主が続きますが藩政は安定していました。
酒井家が再び歴史の表舞台に出てくるのは8代目藩主酒井忠績の時代です。酒井忠績は江戸幕府最後の大老となり、兵庫港の開港などを巡って朝廷対策に奔走しました。
幕末を舞台とした歴史小説に名前だけはよく登場する人物です。
なお、酒井忠績とその子、酒井忠惇は戊辰戦争の鳥羽伏見の戦の責任を問われ、明治政府から蟄居を申しつけられます。大老・老中の座も剥奪され、政治にかかわることを禁じられました。また、明治になってからは姫路藩の佐幕派家臣の粛清を命じられます。
しかし、酒井忠績・酒井忠惇はその後許され、共に華族に任ぜられます。最後の藩主であった酒井忠邦は、慶應義塾大学に入学した後でアメリカに留学までしますが、25才の若さで没しました。
まとめ その後の酒井家
姫路藩主酒井家は10代で幕を下ろしますが、血脈はその後も受け継がれます。
戦前の政治家酒井忠正さんは、酒井忠邦の孫、秋子と結婚して婿養子になり、農林大臣などを務めた後、大相撲の横綱審議委員会初代委員長、日本プロレス協会初代会長を勤めました。
現在の酒井家当主である酒井忠輝さんは、オーストラリアで牧場を経営する実業家兼、馬術家として活躍しています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。