丸亀藩(2/2)3つの家が治める

丸亀藩

京極家の家紋「平四つ目結」

記事カテゴリ
藩史
藩名
丸亀藩(1641年〜1871年)
所属
香川県
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丸亀城

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現存天守
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2代藩主京極高豊は芸術に造詣が深く、陶工野々村仁清などとの交流もありました。高豊は。貞享5年(1688年)には丸亀藩下金倉村に大名庭園を築き「万象園」と名付けます。この庭園は現存しており、敷地内には丸亀美術館が併設されています。また、日本三大海浜庭園の1つでもあります。

丸亀藩は気候も温暖で災害も少なく、しかも主要な財源の1つが金刀比羅宮への参拝客相手の観光業だったため、財政には比較的余裕がありました。

藩札を初めて発行したのは、1705年(宝永2年)のことです。
6代目藩主京極高朗のが城主になった文化8年(1811年)以降はさすがに財政が逼迫してきたため、家臣に副業でのうちわ作りをすすめ、これが好評を博しました。現在も丸亀うちわは丸亀の特産物として人気があります。
また、京極高朗は大変聡明な人物であったので、江戸藩邸に藩校・集義館を開きます。また、質素倹約をせねばということで、倹約と風紀を主とした10か条の法律制定も行いました。
揺らいできた丸亀藩の財政を建て直した人物といえます。

最後の藩主である京極朗徹は、5代藩主京極高中の弟・京極高教の子の京極高周の五男に当たる人物で、6代藩主京極高朗の養子となり、天保15年(1844年)に藩主となりました。

養父の政治方針を引き継ぎ、倹約令を出したほか、産業を奨励して輸入を制限すると共に、不正の厳罰化するなどして、藩政改革を行っています。

幕末は尊王派として行動し、慶応4年(明治元年、1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、隣藩である高松藩が「朝敵」となったため、明治政府の命令で土佐藩と共に高松藩追悼任務に当たるなどしました。
しかし、後で高松藩主松平頼聰から新政府との仲立ちを頼まれ、これを了承しています。京極朗徹の尽力により、松平頼聰は赦免されました。

明治2年(1869年)になると諸藩に先駆けて版籍奉還を願い出て、丸亀藩知事に任じられます。そして、藩知事として新しい態勢のもとで人々が穏便に暮らせるように藩政を調えます。

明治4年(1871年)に廃藩置県によって丸亀県が誕生すると初代丸亀県知事になり、引き続き治世を行いました。
しかし、わずか4か月で県知事をやめ、その後は東京に移り住み、そこで生涯を終えています。

まとめ

丸亀藩は四国の小さな藩ですが、大きな災害にも遭わず飢饉もなく、比較的落ち着いて裕福な藩として江戸時代を通して栄え続けました。

丸亀藩の主要産業が観光業であったことも影響しているのでしょう。
また、内職として始まったうちわづくりはいまでも丸亀の特産として名物になっています。
今でも、丸亀市の城下町をあるくと江戸時代の街並みの名残を感じることができます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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