丸亀藩3つの家が治める

丸亀藩

京極家の家紋「平四つ目結」

記事カテゴリ
藩史
藩名
丸亀藩(1641年〜1871年)
所属
香川県
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丸亀城

丸亀城

現存天守
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丸亀藩は、生駒正親が豊臣秀吉より讃岐国12万6千200石を拝領したことから、歴史が始まります。厳密に言えば生駒家が改易となって山崎家が丸亀に封じられたときから「丸亀藩」が成立しましたが、現在では生駒家が治めた高松藩の歴史も丸亀藩の一部と考えられています。そんな丸亀藩の歴史を紐解いていきましょう。

生駒家の治世

生駒正親は織田信長や豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。讃岐国12万6千200石を拝領し、高松と丸亀にそれぞれ城を作りました。このとき、高松城を本城としたため、「高松藩」とも呼ばれています。

生駒正親は嫡男の生駒一正とともに、丸亀と高松に城下町も築いて治世の下地を作ります。なお、関ヶ原の合戦の際、正親は西軍に、一正は東軍について家督を守りました。

正親・一正親子は丸亀藩の基礎を築いたといっていいでしょう。
しかし、一正の孫に当たる生駒高俊は幼くして4代目藩主の座についたため、外祖父・藤堂高虎の後見を受けます。
成長してからも藩政を顧みなかったので、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こります。これが「生駒騒動」と呼ばれるお家騒動です。

内紛の事実を知った幕府は寛永17年(1640年)に生駒高俊の責任を問い、領地を没収して出羽国由利郡に転封という名の流罪にします。
これにより、生駒家は改易となり高松城は一旦幕府直轄になりました。

山崎家の治世

1641年(寛永18年)山崎家治が肥後富岡((現熊本県天草郡)から5万石で移封され、丸亀城を本城にする丸亀藩が成立しました。

丸亀城は一国一城令の発布により生駒正俊が廃城としましたが、建物は残っていたので、改築して本城としたのです。
このとき、幕府は山崎家治の参勤交代を免除し、城の改築費用まで与えています。

山崎家は3代で世継ぎがなく途絶えてしまいますが、初代藩主山崎家治、2代目藩主、山崎俊家は2代にわたって丸亀城を改築し、現在の姿に近いものに作り替えました。なお、2代目藩主山崎都俊家は35才、跡を継いだ3代目藩主の山崎治頼はわずか8才で死去したため、山崎家は後継ぎがなく断絶しました。

京極家の治世

万治元年(1658年)山崎家と近江源氏の同族である京極高和が播磨龍野藩より、移封されて丸亀藩を治めるようになります。以後、京極家が明治を迎えるまで丸亀藩の藩主になりました。

京極高和は現存する丸亀城の天守を完成させたほか、江戸藩邸に広く信仰されていた金比羅大権現(現・金比羅宮)を勧進し、日を決めて江戸庶民にも参拝を許しました。なお、この神社は現在も「虎ノ門金刀比羅宮」として東京都港区に存在して地域の人々に信仰されています。

なお、金刀比羅宮へ詣でる参道は丸亀藩内を通っていたため、参拝客を相手とした観光業は明治になるまで丸亀藩の貴重な財源になりました。

2代藩主京極高豊は芸術に造詣が深く、陶工野々村仁清などとの交流もありました。高豊は。貞享5年(1688年)には丸亀藩下金倉村に大名庭園を築き「万象園」と名付けます。この庭園は現存しており、敷地内には丸亀美術館が併設されています。また、日本三大海浜庭園の1つでもあります。

丸亀藩は気候も温暖で災害も少なく、しかも主要な財源の1つが金刀比羅宮への参拝客相手の観光業だったため、財政には比較的余裕がありました。

藩札を初めて発行したのは、1705年(宝永2年)のことです。
6代目藩主京極高朗のが城主になった文化8年(1811年)以降はさすがに財政が逼迫してきたため、家臣に副業でのうちわ作りをすすめ、これが好評を博しました。現在も丸亀うちわは丸亀の特産物として人気があります。
また、京極高朗は大変聡明な人物であったので、江戸藩邸に藩校・集義館を開きます。また、質素倹約をせねばということで、倹約と風紀を主とした10か条の法律制定も行いました。
揺らいできた丸亀藩の財政を建て直した人物といえます。

最後の藩主である京極朗徹は、5代藩主京極高中の弟・京極高教の子の京極高周の五男に当たる人物で、6代藩主京極高朗の養子となり、天保15年(1844年)に藩主となりました。

養父の政治方針を引き継ぎ、倹約令を出したほか、産業を奨励して輸入を制限すると共に、不正の厳罰化するなどして、藩政改革を行っています。

幕末は尊王派として行動し、慶応4年(明治元年、1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、隣藩である高松藩が「朝敵」となったため、明治政府の命令で土佐藩と共に高松藩追悼任務に当たるなどしました。
しかし、後で高松藩主松平頼聰から新政府との仲立ちを頼まれ、これを了承しています。京極朗徹の尽力により、松平頼聰は赦免されました。

明治2年(1869年)になると諸藩に先駆けて版籍奉還を願い出て、丸亀藩知事に任じられます。そして、藩知事として新しい態勢のもとで人々が穏便に暮らせるように藩政を調えます。

明治4年(1871年)に廃藩置県によって丸亀県が誕生すると初代丸亀県知事になり、引き続き治世を行いました。
しかし、わずか4か月で県知事をやめ、その後は東京に移り住み、そこで生涯を終えています。

まとめ

丸亀藩は四国の小さな藩ですが、大きな災害にも遭わず飢饉もなく、比較的落ち着いて裕福な藩として江戸時代を通して栄え続けました。

丸亀藩の主要産業が観光業であったことも影響しているのでしょう。
また、内職として始まったうちわづくりはいまでも丸亀の特産として名物になっています。
今でも、丸亀市の城下町をあるくと江戸時代の街並みの名残を感じることができます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。