土佐藩幕末に活躍した偉人をたくさん輩出
山内家の家紋「土佐柏」
- 関係する城
土佐藩は山内一豊を始祖とする山内家が代々治めてきた藩です。幕末は板垣退助や坂本龍馬など、現在も人気がある幕末の偉人が多く誕生しました。そんな土佐藩の歴史を紐解いていきましょう。
山内一豊が支配する前の土佐について
安土桃山時代、土佐は国人から大名に出世した長宗我部氏が納めていました。戦国大名として有名なのが、21代目当主の長宗我部元親です。長宗我部元親は高知城がある場所城を築き、城下町の整備に着手するなど、土佐藩の基礎を築きました。
しかし、長宗我部元親の嫡子である長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍に味方したために改易されます。なお、長宗我部盛親はその後大坂の陣に参戦、敗者となり京都の六条河原で斬首され、長宗我部家は滅亡してしまいました。
山内一豊の土佐入り
長宗我部家に代わって土佐国20万2600石を与えられたのが、掛川城主であった山内一豊です。入国して以降一貫して山内家が土佐の地を治めました。外様大名でこのような例は珍しいことです。
山内一豊は土佐を与えられると、築城の名人である百々綱家を家臣に迎え、大高坂山に城を築きます。これが現在の高知城です。
なお、長宗我部家が土佐を支配していた頃、この地には「一領具足」と呼ばれる半農半民の集団がおり、山内一豊が土佐に入った後もこれに従わずに反乱をくり返しました。そのため、山内一豊は藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えています。
山内一豊が整備した城や城下町を受け継いだのが、二代藩主山内忠義です。山内忠義は、山内一豊の志を引き継ぎ、藩政の基礎を確立しました。
その後、野中兼山という家臣を重用して新田開発や養蚕などの殖産興業に力を入れますが、野中兼山はが強引な手法を用いたため、藩士の恨みを買って失脚後に一族すべてが幽閉されるなどの事件も起こりました。
しかし、その山内一豊と山内忠義が築いた藩政の基礎はしっかりとしていたため、8代目藩主、山内豊敷の代になるまで藩の財政は安定していました。
4代目藩主、山内豊昌が享楽的な性格で藩の財産を浪費したり、6代目藩主の山内豊昌の時代に宝永地震が起こり1,000人以上の死者が出たりしましたが、藩の財政に大きな痛手を与えるまでにはならなかったのです。これは、非常に幸運なことでした。
江戸時代中期以降の土佐藩
8代目藩主の山内豊敷のとき、享保12年(1727年)の高知城の焼失、享保17年(1732年)の害虫による凶作と、立て続けに災害が土佐藩を襲います。特に、凶作は翌年に飢饉となり、藩の財政は大きく揺らぎます。山内豊敷は、幕府から1万5千両の借金をして急場を凌ぐと共に、行政整理や風俗の徹底、製鉄業の奨励など藩政改革に乗り出します。特に、主要産業であった製紙業には力を入れ、国産方役所を設けて専業化を測りましたが、専業化に反対する人々が一揆を起こしたため、改革は道半ばで終わってしまいました。
9代目藩主、山内豊雍のときには天明の大飢饉が起こり藩の財政はますます困窮します。山内豊雍は藩士の知行借上などを行って事態を打開しようとしますがうまくいきません。ついに、百姓が土地を捨てて逃げ出すまでになり、ついに大胆な藩政改革に乗り出します。土佐藩は20万石ですが格式を10万石に下げて節約を行い、五人組の強化や問屋制解体などを行います。これにより、藩の財政はやっと回復をし始めたという記録が残っています。
しかし、10代目藩主山内豊策の時代、寛政9年(1797年)、郷士の高村退吾殺害事件をきっかけとした郷士騒動が勃発。これにより、上氏・下氏といった土佐藩の身分制度が揺らぎ始めるようになりました。
これにより、坂本龍馬を初めとする幕末に活躍する土佐藩士が生まれる下地ができたという意見もあります。
11代藩主、山内豊興は早世、跡を継いだ12代目藩主山内豊資は、天保の大飢饉によって藩の財政に大きな被害を受けながらも、藩校・教授館を拡大し文治や医学進歩を奨励しました。また、この時期、土佐の郷村の庄屋が秘密同盟を結成し、待遇改善を訴えて庄屋と対立するなど土佐の身分制をますます揺るがす事件が起きています。なお、この秘密同盟は幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えたともいわれています。
13代目藩主の山内豊熈は、西洋砲術の導入し文武を奨励します。また、倹約令による藩財政再建を継続し、馬淵嘉平をはじめとする身分に囚われず有能な人材の登用に力を入れました。しかし、残念ながら34才の若さで夭折します。その結果、藩政改革は実質失敗に終わってしまいました。
幕末の土佐藩
15代目藩主の山内豊信は、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称する粋人であり、大胆な藩政改革を行って後の世で「幕末の四賢侯」と称されました。
自身が僅か1500石の分家の出であったために、門閥・旧臣を重用するこれまでの藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋などを登用します。
そのため、藩の保守派からの評判は大変悪かったそうです。
また、吉田東洋が、後の勤王派の人々を台頭させたという意見もあります。
山内豊信は幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を迫り、大老の井伊直弼と将軍継嗣問題で衝突します。そして、井伊直弼が安政の大獄を起こして政敵を排除し、自身が推す徳川家茂を14代将軍の座につけると、それに憤慨して政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出し、幕府より謹慎命令が下されました。
山内豊信が謹慎中、土佐藩ではクーデターが発生し、武市瑞山を首領とする土佐勤王党が山内豊信が信頼していた家臣である吉田東洋を暗殺します。
山内豊信は謹慎が解かれると同時に土佐勤王党の大粛清に乗り出し、首領の武市瑞山を斬首したのを皮切りに、党員は片っ端から処罰され、土佐勤王党は壊滅します。なお、吉田東洋暗殺直前に、坂本龍馬など土佐の志士たちは脱藩しており、かれらの活躍によって薩長同盟が結ばれています。
山内豊信自身は、自分を藩主にまで推挙してくれた幕府に非常な恩義を感じており、最後まで佐幕派でありましたが、脱藩した土佐の志士や薩長の暗躍により土佐藩全体が倒幕に傾いており、その流れを押しとどめることはできませんでした。
慶応4年(1868年)旧幕府軍と明治政府の戦いである鳥羽・伏見の戦いが始まると山内豊信は、率いていた土佐藩士100名に戦に加わらないように命じます。しかし、時すでに遅く、兵士達は豊信の制止を振り切って明治政府側に付き、幕府軍と戦いました。
大政奉還後、山内豊信は内国事務総裁に就任したが、わずか2年で辞職しています。
なお、山内豊信が隠居したさい、家督時代は16代藩主山内豊範が継ぎましたが、15代藩主が実権を手放さなかったため、山内豊範の影は薄いです。しかし、山内豊範は明治時代鉄道業などに積極的に出資し、華族としてだけでなく実業家としても名を成しました。なお、山内家は現在も存続しており、18代目当主が存命です。
土佐藩まとめ
土佐藩は、山内一豊を始祖とする山内家が江戸時代初期から幕末まで治めた藩です。幕末の歴史が好きな方ならば、土佐藩は尊皇攘夷派であり、倒幕に積極的なイメージを持つこともあるでしょう。
しかし、実際は15代藩主山内豊信を始めとする藩主達は幕府に親和的でした。しかし、坂本龍馬を初めとする脱藩した元土佐藩士たちが薩長同盟を結ぶために積極的に動くなど、倒幕を指示したためこのようなイメージが生まれた可能性もあります。
現在、高知県は高知城とならんで坂本龍馬や板垣退助といった幕末や明治初期に活躍した偉人の痕跡が観光名所となっています。幕末の藩主や藩を飛び出して日本のために動いた人々を思いながら、土佐を巡ってみるのも面白いことでしょう。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。