松本藩6つの家が治める

松本藩

石川家の家紋「六曜」

記事カテゴリ
藩史
藩名
松本藩(1590年〜1871年)
所属
長野県
関連する城・寺・神社
松本城

松本城

国宝天守
関係する城

松本藩は、江戸時代に長野県に存在した6万石の藩です。譜代大名であり、室町時代から信濃守護であった小笠原氏や、水野氏、戸田氏など6つの家によって幕末まで治められました。藩庁は松本城に置かれ、現在も城は現存しています。
ここでは、松本城の歴史を振り返っていきましょう。

江戸時代以前の松本

江戸時代以前、室町幕府によって小笠原氏が信濃守護に任じられ、かの土地を治めていました。
しかし、武田信玄が天文19年(1550年)に信濃に侵攻してきて、小笠原氏を追放します。その後、23年間武田氏は信濃を支配しました。しかし、天正10年(1582年)に織田信長が武田勝頼を滅ぼしたことにより、信濃は織田信長の支配に移ります。
そして同年、織田信長が「本能寺の変」で倒れると、小笠原一族がふたたび信濃の支配権を取り戻しました。まずは、小笠原洞雪斎が、木曽義昌の助力と上杉景勝の後ろ盾を受け、深志城を奪還します。その後、武田信玄に信濃を追放された小笠原長時の息子、小笠原貞慶が小笠原洞雪斎より深志城をさらに奪い返しました。

小笠原貞義、そして息子の秀政は後に松本城となる「深志城」の改築や城下町の作成に力を入れましたが、徳川家康が豊臣秀吉の命令で関東に移動させられると、父親の後を継いでいた小笠原秀政も家康に付き従って関東に下り、下総古河藩3万石の藩主となりました。

空になった松本藩を代わりに治めるようになったのは、「三河の旗頭」と呼ばれた、徳川家康の重臣、石川数正です。この石川数正が実質上初代松本藩主になります。なお、江戸時代を通して、松本藩は6つの家によって治められました。

石川家・小笠原家の統治

石川数正とその息子、石川康長が現在の松本城を築城し、松本の城下町の建設に努めました。松本城の築年数は諸説あってはっきりしていません。しかし、残された記録から天正18年(1590)には石川康長の手によって造られたのではないか、というのが有力です。

なお、石川康長は松本城築城にあたり、過酷な賦役を民衆に課したと伝わっています。
石川康長は、慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いで東軍についたため、松本の領土を安堵されます。
しかし、慶長15年(1610)に松本藩の筆頭家老、渡辺金内と若手実力者の伴三左衛門との間で、藩政の主導権を握って争いが起こりました。

幕府はこれ幸いと石川康長を改易しようとします。あまりに幕府が改易に積極的だったので、徳川家康が黒幕という説が出たほどです。

この騒動は、一時期石川康長の親戚であった大久保長安の取りなしにより沈静化します。
ところが、慶長18年(1613)に大久保長安が亡くなると、彼が莫大な隠し財産を持っているという疑惑が持ち上がりました。大久保長安は徳川家康の側近で、佐渡の金山や石見銀山を開発した人物だったので、隠し財産を作りやすかったのでしょう。調査の結果、大久保長安の財産は幕府に没収され、石川康長は改易されました。(大久保長安事件)

石川氏の改易により、飯田藩より小笠原秀政が8万石で松本藩に移封されます。小笠原英正は、石川康長が人足役や職人役など重税を課したため、他国に逃げた百姓を帰村させるために百姓還住策を行い、戦国時代から松本の地に住んでいた地侍達の力を弱めるために、直轄地を増やしました。

また、宿駅制度を整備し、北国脇往還(善光寺道)の改修なども行います。
善政を敷いた小笠原秀政でしたが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で戦死します。
その跡目を継いだのは、息子の小笠原忠真です。彼は城主になってすぐに大坂夏の陣の功績により、2万石を追加され、播磨明石藩に移封されます。このとき、石川氏が城主だったときも松本に残っていた小笠原氏の家臣が数多く明石藩へついていったと伝わっています。

戸田松平氏の統治

小笠原忠真が明石藩に移封された後、松本城に入ったのは松平康長です。松平氏の名が示すとおり家康の義理の妹を妻とし、三代将軍徳川家光の側近を務めたほどの有能な人物でした。譜代大名として移封した彼は地侍を家臣団に加え、兵農分離の完成、新しい行政区画を創設など松本藩の政治の基礎を作りました。なお、松平の姓は康長の功績に応じて賜ったもので、元の名を戸田康長といいます。ですから、「戸田松平氏」と呼ばれ、書物によっては戸田氏と評されることもあります。松平康長は松本で71才で死去した後、松本神社に祀神の1柱になりました。跡目は三男の松平庸直が継ぎますが、彼は寛永10年(1633)播磨明石へ移動になりました。

戸田松平氏の跡を継いだのは、徳川家康の三男、結城秀康の三男にあたる松平直政です。彼は松本城の改築や寛永通宝松本銭の鋳造などを行いましたが、これは徳川家康の直系だからこそ許されたことと考えられています。存命中、寛永15年(1638)に出雲国松江藩へ移封されました。

その後、城主になったのは徳川家光のもとで老中を務めていた堀田正盛です。老中と兼任しながらでしたので、松本に出向いたことはほとんどありませんでした。また、城主であった寛永18年(1641)と寛永19年(1642)に「巳午の飢饉」と呼ばれる大飢饉が起こり、多くの餓死者が出ました。
その間、未納だった年貢は、その後城主になった水野氏が分割で幕府に納めています。

水野家の時代

戸田松平家の時代を経て、城主の座に就いたのは水野忠清です。彼は、徳川家康の従弟にあたります。
水野家の統治は6代、72年に及びました。水野家は検知を実施して財政基盤を立てなおし、百姓訴訟法の制定など、民政の確立に務めます。しかし、水野忠職の時代には寛永の飢饉、延宝期にも飢饉が相次ぎました。水野家は、質素倹約例を出し、財政再建に努めますがうまくいきません。

しかも、水野家の3代目城主忠直その子、4代目城主忠周は諸芸の名人を召し抱えるなど、風俗や文化の発展に力を尽します。その結果、松本は江戸や京都のように文化的に発展しましたが、飢饉の頻発により財政は圧迫されます。
ついに、貞享3年(1686)に大規模な百姓一揆が起こります。年代にならって貞享騒動、もしくは首謀者の名を取って「加助騒動」ともよばれました。なお、当時の城主は3代目の忠直です。

「加助騒動」は全国的には無名の騒動ですが、松本地域では義民として語り継がれ、加助神社などもあります。また、処刑される際、加助が松本城をにらんだため、天守が傾いたという伝説も生まれました。
なお、松本城天守が傾いたのは、明治時代のことで相同とは関係がありません。
そして、5代目藩主水野忠幹が25才の若さで病死するとその弟水野忠恒が6代目城主になりました。

しかし彼は、粗暴で享楽的な正確であったそうで、享保10年(1725)八代将軍吉宗に拝謁した後、江戸城中の松之大廊下で長府藩の世子毛利師就とすれ違った際、いきなり抜刀して切りつけるという事件を起こします。
これにより、水野忠恒は乱心したとして所領没収・改易となり、水野家の支配は終わりました。

再び戸田松平家の統治へ

水野家が改易された後、松本藩は一時期幕府直轄地になりますが、志摩鳥羽藩主の松平光慈が、享保10年に松本藩城主になります。以後、幕末まで9代、142年間にわたって戸田松平家が再松本を治めます。

しかし、松平光慈が城主になった2年後、享保12年(1727)に本丸御殿が火災で焼失してしまいました。このときすでに財政難に陥っていた戸田松平家に本丸御殿を再建する力はなかったといわれています。以後、藩政は二の丸御殿で行われました。
水野光慈の時代、すでに松本藩の借財は1万8000両にまでに膨れ上がっていました。歴代城主たちはその借財を何とかしようと倹約や財政再建に奔走しますが、いずれもうまくいきませんでした。

幕末になると、元治元年(1864)に天狗党の乱が起こります。松本藩は諏訪藩と協力して中山道の和田峠で交戦しますが、敗北しました。また、長州征討にも出兵していますが、戦闘には参加しなかったようです。この2つの戦争により、松本藩の財政はますます圧迫しました。

そして、慶応4年(1868)の戊辰戦争には、直前まで幕府につくか明治新政府につくか藩の意見がまとまりませんでしたが、直前になって勤王を選択し3万両を献上して帰順しました。
最後の藩主であった松平光則は、明治2年(1869)に版籍奉還上を行い、翌年に藩知事となります。

明治以降の松本藩

幕末まで松本を治め続けてきた戸田松平家は、明治維新後に名字を戸田と改めます。華族に列せられ、爵位は貴族でした。
松平光則の長男、戸田康泰はオーストリア公使館在勤員外書記生として、外交に携わっていたこともありました。
また、松平光則の孫に当たる戸田 康英は宮内省に入り、上皇陛下の傅育官を務めた後、東宮侍従長を務めます。昭和天皇の外遊に何度も同行したり、玉音放送の録音時には自重として側に控えていたりしたなど、まさに昭和という時代の生き証人でした。

また、松本藩の藩庁として機能し続けていた松本城は、明治時代になっても取り壊されることなく、何度も修繕を加え、現存12天守の1つとして国宝に指定されています。

関係する城
AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。