犬山藩慶応4年にようやく独立

犬山藩

成瀬家の家紋「丸に片喰」

記事カテゴリ
藩史
藩名
犬山藩(1868年〜1871年)
所属
愛知県
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犬山藩は慶応4年(1868年)に明治政府により、ようやく独立した藩として認められた特殊な藩です。江戸時代は尾張徳川家の附家老の一家であった成瀬家が代々藩主を務めました。そんな犬山藩の歴史をひもといていきましょう。

戦国時代、数々の合戦の舞台となった犬山城

犬山城は天文6年(1537年)に織田信長の叔父である織田信康によって改修・創建された城です。現在の愛知県と岐阜県の中間にあり、木曽川を背にした要所ということで、織田信長と豊臣秀吉の身内や重臣が城主を務めました。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の合戦など、歴史に残る戦いの舞台にもなっています。徳川家康が江戸幕府を開くと、犬山城は一度尾張清洲藩のものになり、徳川家康の四男・松平忠吉が城主として清洲城に入り、付家老、小笠原吉次に犬山領と犬山城が与えられます。
付家老というのは、正式名称を御附家老といい、将軍家から枝分かれした大名家に将軍が直々に任命した家老たちを指します。通常は筆頭家老を指しました。なお、尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の御三家の筆頭附家老5家が特に有名です。
犬山藩の初代城主であった平岩親吉は徳川16神将の1人として徳川家康の重臣として活躍した武将です。
慶長12年(1607年)、徳川義直が尾張藩主に任ぜられると附家老として尾張に下りました。
石高は12万3千石であり、ちょっとした大名家並です。なお、御付家老は御三家の家臣ではありますが、将軍に拝謁できるなど数々の特権を持っていました。
平岩親吉は初代城主として城下町の整備などを行いましたが、嫡子が生まれず養子も早世したので、平岩家は一代で断絶します。

成瀬家の支配

平岩家が断絶した後、代わりに御附家老として尾張に配属されたのが、成瀬正成です。小牧・長久手で初陣を飾った正成は徳川家康に請われて御附家老に任じられます。石高は3万5千石で、平岩家には劣りますが小藩の大名と同等です。以来、成瀬家は幕末まで犬山城の城主を務め、平成16年(2004年)まで犬山城を所有することになりました。
成瀬家は大名と同等の石高を持ち、将軍に拝謁する特権もありました。実際、二代目城主である成瀬正虎は、尾張藩二代藩主徳川光友に付き従って江戸城に上洛した際、共に三代将軍徳川家光に拝謁しています。
そのため、成瀬家は尾張藩の筆頭家老として藩政を手助けしつつ犬山城の城下町を治めます。

尾張藩と成瀬家

尾張藩は徳川御三家の1つであり、筆頭でもあります。名古屋城を居城とし、時に幕府の政策にも深く関わりました。
特に、七代将軍徳川家継が世継ぎを設けずに没したとき、紀州徳川家の徳川吉宗と将軍の座を競った徳川継友や、その弟で幕府が出した倹約令に公然と逆らった徳川宗春は有名です。
徳川宗春は、京都の九条家の財政を支えるなど朝廷の結びつきを大切にし、幕府の倹約令にことごとく反発して尾張の自由経済を発展させました。そのため、幕府は徳川宗春を厳しく叱責して態度を改めよと命じますが宗春は従いません。この幕府と尾張徳川家の対立が家臣達にも混乱をもたらします。成瀬家はその当時、5代目城主成瀬正泰が筆頭家老の職についていましたが、同じく御附家老であった竹腰正武が徳川宗春を蟄居させようとする動きを見せたことに激しく反発します。徳川宗春は結局藩主の座を降ろされて蟄居に追い込まれますが、その際、成瀬正泰は「幕府と一戦交えるべし」と強硬論を唱えたと伝えられています。
しかし、徳川宗春の政策により尾張藩は大幅な赤字に転じており、宗春の蟄居後竹腰正武が倹約令を打ち出した時は意を唱えることはありませんでした。
また、成瀬家は犬山城の城主として尾張藩の防衛を固め、軍備の要として武芸をよくする家でもありました。成瀬家3代目当主成瀬正親や6代目当主成瀬正典は馬術に優れており、特に正典は尾張藩主に馬を献上するほど馬術好きであったと伝えられています。

大名への野望

前述したように、成瀬家は3万5千石を与えられ、始祖は徳川の重臣です。大名になれる資格は十分にありました。実際に、家臣団の中でも別格で成瀬家独自の家臣も100名以上抱えています。そのため、七代城主成瀬正壽は尾張藩から独立し譜代大名になろうと江戸城に足繁く登城し、9才で家督を継いだ尾張藩11代目藩主の徳川斉温の教育を熱心に行います。

徳川斉温は十一代将軍徳川家斉の実子であったため、将軍の覚えもめでたく、お褒めの言葉や馬具などの褒美を受け取っています。しかし、尾張藩からの独立はついに叶いませんでした。跡を継いだ八代目城主成瀬正住も独立の気概が強く、敬道館という家臣のための学校を作り、成瀬家の忠臣を育てようと力を注ぎます。さらに、十代目尾張藩主徳川斉朝の許可なく江戸を立って犬山城に入るなど家老としてあるまじき振る舞いもあったようです。しかしその一方、成瀬正住は斉温、斉荘、慶臧、慶勝という4人の藩主に仕え、尾張藩の藩政を支えました。そのため、幕府からの信頼も篤く家督相続の際も徳川斉温の死後、徳川斉荘を新藩主に迎えるにあたり、調整役を務めたと記録にのこっています。ちなみに、このとき、隠居をしていた徳川斉朝には一切の相談をしなかったそうですから、藩主と重臣の仲は良くなかったようです。
しかし、やはり独立は叶いませんでした。

犬山藩誕生

成瀬家が正式に「大名」として認められたのは、最後の城主にして最初の藩主となった成瀬正肥の時代です。成瀬正肥は、成瀬正住の娘を娶り婿養子となって家督を継ぎます。時代が幕末を迎え幕府も混乱していました。安政5年(1858年)に尾張藩14代藩主・徳川慶勝が将軍の世継ぎ問題やアメリカ・イギリスとの条約勅許問題に巻きこまれて大老「井伊直弼」から謹慎と蟄居を命じられると、連帯責任で一時期尾張藩の藩政から遠ざけられました。しかし、後に復権し、文久3年(1863年)には徳川慶勝とともに京都へ入り、十二代将軍徳川家茂を補佐して朝廷との調整役を務めています。また、徳川慶勝の子ども徳川義宜が最後の藩主の座に就くと、藩政の中心人物にも返り咲きました。その後、明治元年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは慶勝に従って上京していた成瀬正肥は、二条城を接収などに関わり、ついに独立した大名として認められ、犬山藩が誕生しました。この藩の寿命は明治4年(1871年)の廃藩置県までの僅か4年でありましたが、成瀬正肥はたいそう喜び、明治2年(1869年)には藩知事に任命され、藩知事を辞したあとは華族になり、明治33年(1900年)には犬山銀行を創立します。
そして、廃城となった犬山城を修復する条件で無償譲渡され、市民の協力を経て修復し、以来成瀬家は犬山城の持ち主になりました。

現在の成瀬家

成瀬家は明治以降も代を重ね、平成16年(2004年)までは犬山城の持ち主として犬山市名誉市民として城の管理や調査の責任者となっていました。2008年最後の個人所有者であった12代目当主成瀬正俊さんが亡くなった際には、犬山市でお別れの会にあたる市葬が開かれ、300人以上の市民が「殿様」との別れを惜しんだということです。現在、成瀬家は13代目当主の成瀬淳子さんを理事長として財団法人犬山城白帝文庫を創設し、変わらず犬山城の管理者としての職務に励んでいます。成瀬淳子さんはメディアにもたびたび登場し、犬山城を後世に残すための活動をしています。

まとめ
犬山藩の歴史をまとめました。大名家同様の家格を持つ成瀬家が城主を務めながら、明治元年まで藩として独立できなかった特殊な藩でしたが、その血脈は現在も残り、日本最古級の犬山城の守り手となっています。大名家になりたいと強く願い、尽力した家だからこそ、犬山城の天守も現在まで江戸時代初期の姿のまま残せたかもしれません。
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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。