松江藩越前系松平家が治める
松平家の家紋「三つ葵」
- 関係する城
松江藩は、堀尾家・京極家・越前系松平家という3つの家によって治められました。しかし、堀尾家、京極家が立て続けに断絶するという不幸に見舞われ、松平家の統治も決して安泰とはいきませんでした。そんな松江藩の歴史をひもといていきましょう。
松平家以前の松江藩
松江藩は、長らく出雲・隠岐地方を支配していた毛利氏が関ヶ原の戦いで西軍に味方したことを理由に周防・長門2国に減封され、代わりに遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、父親の梶尾吉晴と共に出雲・隠岐2国24万石で移封されたことにより成立します。当初は、出雲富田藩と呼ばれていました。その後、月山富田城に入城した梶尾忠氏が城下町の構築に不向きとの理由で松江城の築城を決め、工事に着手します。梶尾忠氏は城の完成を見ることなく若干27才で病没し、その跡を嫡子の堀尾忠晴が継ぎました。堀尾忠晴はまだ幼少だったため、後見人として祖父の梶尾吉晴が実質的な藩主を務めました。慶長16年(1611年)に松江城が完成すると堀尾忠晴はそこに入城し、松江藩が成立します。梶尾吉晴はそれを見届けた直後、同年6月に死去しました。しかし、堀尾忠晴は成人しても後継ぎに恵まれず、寛永10年(1633年)に33才で死去します。後継ぎがいないことから、梶尾家はそのまま無嗣改易となりました。
梶尾家に変わって松江藩の藩主となったのは若狭小浜藩より移封された京極忠高です。忠高は、二代将軍徳川秀忠の娘である初姫と婚姻を結んでいましたが、夫婦仲が良くなく、しかも初姫が死去した際には臨終にも立ち会わなかったとして将軍家の不興を買っています。
松江藩の藩主になってからもたいした功績は残さず寛永14年(1637年)、45歳で死去します。後継である男子がいなかったので改易となりました。
なお、松江藩で相次いで二家が断絶をしたのは、松江城を建てるときに人柱を立てたせいだという伝説が残っています。また、人柱にされたのは盆踊りのうまい娘であったことから江戸時代の間は松江城が見える場所では盆踊りが禁止されていました。
越前系松平家の治世
京極家が断絶したことにより、新しく松江藩の藩主になったのは信濃松本藩の藩主であった松平直政です。松平直政は徳川家康の次男、結城秀康の三男にあたります。「松平」という姓は結城秀康を粗とする一門の姓で、徳川家御家門の1つです。松平直政は血統的には徳川家光の従兄弟にもあたるため、小藩の大名としてはかなり優遇されていました。松江藩に移封される際も、直轄地であった隠岐国1万4千石の代理統治も加えて任されています。
松江藩主となった松平直政は、キリシタンを厳しく弾圧するなどしました。また、隠岐にあった後鳥羽天皇陵を修繕し、社殿などを新築しています。松平直政は66才で死去するまで、短命の藩主続きだった松江藩を統治し、松平家治世の基礎を築きました。
しかし、松江藩の治世は松平直政の後継ぎである松平綱隆の時代から荒れていきます。藩内で大水害が起こったり、重臣香西隆清の追放事件が起こったりして藩政は安定を欠いていきました。松平綱隆は藩政の立てなおしをしようとは米・雑穀の移出禁止、酒造の禁止、藩札の発行などの政策を打ち出しますが、逆に藩政を混乱させるだけだったと伝えられています。
しまいには、松平綱隆自身が家臣の妻に横恋慕し、自らのものとするために家臣に無実の罪を着せて流罪にするという醜態をさらしました。その後、松平綱隆は45才で急死しますが、家臣の祟りだという噂が根強く残ったと伝えられています。
その後の藩主は、綱近・吉透・宣維と続き、誰もが藩政を改革し藩の経済を建て直そうと商品作物の栽培や藩札の発行、さらに製鉄事業にも力を入れますが、どれもうまくいきません。ついに、6代目藩主松平宗衍が享保6年(1731年)わずか2才で藩主の座に就いたときには、「松前藩は滅亡する」とまで言われるようになりました。松平宗衍は18歳になるとこれまで家老達が合議制で行ってきた政治を藩主親政に替え、小田切備中という家臣を補佐役に「御趣向の改革」と呼ばれる財政振興策を行います。この改革は一部成功し、松平宗衍は能力がある中級、下級藩士を盛んに登用しました。しかし、さらなる天災が松江を襲い、重臣達の反発も大きくなり,改革は道半ばで終了してしまいます。松平宗衍は、その後明和4年(1767年)に藩の財政の窮乏させた責任を取り、家督を次男の松平治郷に譲って隠居しました。
家督を継いだ7代目藩主松平治郷は、松江藩で最も有名な藩主です。松平治郷は家老の朝日茂保を補佐役に再度財政再建に乗り出し、木綿・朝鮮人参・楮・ハゼノキなど商品価値の高い作物の栽培を推奨し、治水工事などもおこないました。その後努力の甲斐あって朝鮮人参の栽培に成功、さらに天明5年(1785年)には無事に佐陀川の治水事業も完成させます。その一方で、借金の棒引きや藩札の使用禁止など厳しい倹約も行い、松江藩の財政は一気に改善したのです。しかしその後、松平治郷は趣味である茶道に傾倒し、高価な茶器を買いあさるようになります。松平治郷の残した茶道具の目録である『雲州蔵帳』、自著の『古今名物類聚』、「瀬戸陶器濫觴」などは、現在も茶道具研究の貴重な資料となっています。
また、松平治郷が藩主であったとき、松江は茶道が盛んになったことから京都や奈良と並ぶ和菓子の一大産地にもなりました。さらに、庭園や工芸なども「不昧公好み」と呼ばれる一種のブランドを作り出し、松江の文化の発展に大いに貢献しています。しかし、その散財のお陰で、一時は持ち直した松江藩の財政は再び悪化しました。
一説によると、松平治郷は財政を一気に建て直したことで幕府に軽快されることを恐れ、あえて道楽者を演じていたとも言われています。しかし、彼が再度悪化させた財政は再び建て直されることはありませんでした。
なお、松平治郷の逸話はこれだけではなく、伝説の力士雷電為右衛門を武士として召し抱えたり、部屋の天井をガラス張りにしてそこに金魚を泳がせて眺めるのを趣味としていたりといったことが伝わっています。ちなみに、このとき品種改良されて生まれた金魚が「イズモナンキン」と言われており、現在は島根県の天然記念物に指定されています。
松平治郷は文化3年(1806年)に家督を長男である家松平斉恒に譲り、没する、文政元年(1818年)まで趣味人としての生を全うしました。
松平斉恒は父と同じ趣味人でしたが、短命で文政5年(1822年)に32歳で死去してしまいます。その跡を継いだ9代目藩主松平斉斎は、天保の飢饉や大水、さらに城下町の火事など天災が続き、藩の状態が極度に悪化したにもかかわらず、幕府に12万両もの献金を行ったり趣味の鷹狩りに没頭したりするなどして、藩の財政を再び破産寸前まで悪化させたため強制的に隠居させられました。
その跡を継いだ10代目藩主の松平定安は、文武を奨励して西洋学校を創立します。また、ときは幕末を迎えており、松平定安は佐幕派として大坂や京都の警備を務めていました。文久2年(1862年)はアメリカから軍艦「八雲丸」を購入しています。一藩が軍艦を購入した例は、薩摩・長州をのぞけば松江藩だけです。そして、文久3年(1863年)には軍備増強を図るため、隠岐国で17歳から50歳の男子を徴兵して農兵を作ろうとしました。しかし、これに農民が大反発し、ついに慶応4年(1868年)に民衆3,000人が蜂起して反乱を起こします。(隠岐騒動)これにより、隠岐を統治していた代官が民衆の手によって追放され、隠岐は一時期松江藩から独立して自治政府を造りました。この隠岐騒動を松江藩は武力で鎮圧しようとしましたが、長州・薩摩の両藩から反対に遭い、鳥取藩と新政府の取りなしによってようやく自治政府が開かれます。そのため、隠岐は明治2年、廃藩置県より2年早く「隠岐県」として独立が認められました。
なお、松平定安はその後、大政奉還・王政復古後も新政府・幕府のどちらにつくか態度を曖昧なままにしています。第二次長州征伐に破れた石見国浜田藩主・松平武聰をかくまったかと思うと、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与するなどしたため、新政府の不興を買いました。その後、松平定安は結局曖昧な態度のまま明治4年の廃藩置県を迎え、松江藩藩知事から免官されています。その後は長男に家督を譲ったり再度家督に返り咲いたりしたものの、48歳で死去しました。
その後の松平家
明治時代の松平家は華族に列せられました。松平定安の三男、松平直亮は明治27年(1894年)に北海道上川郡鷹栖村の山林1700ヘクタールの貸付をしてもらい、富山や香川から入植者を連れて松平農園として開墾を開始します。その後、14年で貸付地1337ヘクタールの開拓を終了し、住民に全農地を分配します。松平直亮の二女が蓮池藩鍋島家当主鍋島直柔と結婚し、その孫が21代目尾張徳川家当主徳川義宣となりました。
松江藩まとめ
松江藩は越前系松平家が江戸時代初期から幕末まで治めていましたが、天災が相次ぎ、藩の財政は常に火の車であったようです。藩の財政はどこでも時代が下るにつれて苦しくなっていったものですが、「藩が滅亡するかも」とまで言われたのは松江藩だけです。その一方で、七代藩主松平治郷のような趣味人も誕生し、現在にも伝わる松江の文化を花開かせました。なお、松平家は現在も存続しており、母親を通じて尾張徳川家の現在の当主にもその血が流れ続けています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。