会津藩上杉家・会津松平家が治める
松平家の家紋「三つ葵」
- 関係する城
会津藩は東北の要所として会津蘆名氏から伊達政宗が攻め取り、豊臣秀吉に召し上げられた土地です。江戸時代になってからは徳川秀忠の4男である保科正之を素とする会津松平家が幕末まで会津藩の藩主を務めました。ここでは、会津藩の歴史を紹介していきます。
保科正之入城以前の会津藩
会津藩は、豊臣秀吉が任じた蒲生氏郷・蒲生秀行・上杉景勝の3人の城主によって現在復元されている城郭や城下町の基礎が築かれました。しかし、上杉景勝は豊臣秀吉の死後、徳川家康に徹底的に反発し、軍備増強に励みます。徳川家康は慶長5年(1600年)に会津征伐を開始し、これが関ヶ原の戦いの幕開けとなりました。上杉景勝は関ヶ原の戦いでは西軍についたので、上杉家の存続は許されましたが出羽米沢30万石へ減封になります。
徳川家康は豊臣秀吉が改易した蒲生秀行を18万石から60万石に増強したうえで、再び会津藩主に任じます。この増石幅はほかに類を見ないほど大きなものですが、これは、蒲生秀行の正室が徳川家康の娘であったためといわれています。しかし、蒲生秀行は家臣団をうまく制御できず、改易の原因となったお家騒動(蒲生騒動)が再燃します。さらに、慶長16年(1611年)にマグニチュード7と推定される会津地震が発生し、鶴ヶ崎城も天守が傾き石垣が崩れるなど大きな被害を受けました。
心労が祟ったのか、蒲生秀行は30歳で死去、その後を長男蒲生忠郷が継ぎます。蒲生忠郷は、従兄弟である徳川家光との関係を強化するなど幕府との結びつきを強めましたが、25歳で急死します。忠郷は子がいなかったので、会津藩主の座は賤ヶ岳七本槍のひとり、加藤嘉明が伊予藩から移封されて継ぎました。
加藤嘉明は嫡子の加藤明成と共に城下町や鶴ヶ崎城の整備に力を入れます。会津地震の際に傾いたままとなっていた天守閣も造り直されています。
しかし、このときの出費が元で会津藩の財政は圧迫し、加藤明成は年貢の取り立てを厳しくしました。その結果、寛永19年(1642年)に会津藩を飢饉が襲ったときは、農民2,000人以上が、村を捨てて他国に逃げ出しています。また、加藤嘉明の跡を継いで藩主となった加藤明成は、家老の堀主水と激しく対立し、ついに堀主水の一族が300人あまりで鶴ヶ崎城に発泡、関所を破って江戸に向かう騒動を起こしました、(会津騒動)堀主水は、幕府に加藤明成の悪行を訴えたうえ、自身の保護を願い出ます。
この事件は将軍徳川家光自らが裁定に当たりました。堀主水の主張は一部受け入れられましたが、国を出奔したり、鶴ヶ崎城へ発泡したりした責任を問われ、その身柄は加藤明成に引き渡されます。堀主水は処刑され、会津騒動はこれで収束しました。しかし、寛永20年(1643年)加藤明成は、幕府に会津40万石を返上し、幕府はそれを受けています。これにより加藤家の存続は許されましたが、加藤明成の嫡子加藤明友は、石見吉永藩1万石に移封され、加藤家の会津支配は終わりました。
会津松平家の治世
寛永20年(1643年)加藤明成が幕府に領地を返上した後、会津藩に移封されてきたのが、出羽山形藩の藩主であった保科正之です。保科正之は徳川秀忠の四男でしたが、正式な嫡子ではなく、庶子として誕生しました。非常に優秀な人物で高遠藩から出羽山形藩へ移封された際は、高遠藩の農民が数千人単位で村を逃げ出し、山形藩へ勝手に移動したという逸話が残っています。
保科正之は23万石の大名として会津藩に入ります。そのころ、会津藩は天災・飢饉・お家騒動によって財政がかなり傾いていましたが、保科正之の政治手腕によりほぼ建て直されました。保科正之は第四代将軍徳川家綱の後見を務め、さらに大老にまで出世したため、会津の地を踏んだのは正保4年(1647年)と、晩年の数年間のみと言われています。
しかし、保科正之は幕末まで続く会津松平家支配の基礎を立派に築き、藩主の座を子の保科正経に譲り渡します。保科正経は、現在「御薬園」として公開されている庭園の元となった薬草園を開園し、領民を疫病から守ろうとするなどしましたが、病弱のために嫡子を設けることなく死去しました。次代の藩主は弟の松平正容が継ぎます。正容は最初保科正容と名乗っていましたが、徳川家より松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用の許可を得て、松平と改姓します。以後、保科家は会津松平家と名乗り、徳川家の一門として認められるようになりました。
松平正容の跡を継ぎ、松平容貞が第4代藩主になった時代、寛延2年(1749年)、会津藩始まって以来の大規模な農民一揆が発生します。(会津寛延一揆)この一揆の原因は、会津藩が財政危機を改善しようと厳しい年貢の取り立てを行い、そこに不作が重なったことが原因でした。会津藩は首謀者を捕えて処刑しますが、一揆鎮圧のために年貢の減免を行っています。その後、1751年から1764年までの宝暦年間で、会津藩の借金は約37万両までに膨れ上がります。返済額は年4万2200両にも登っていましたが払い続けるのも不可能になっていました。松平容貞は藩の経済を建て直そうと井深主水という人物を登用しますが、主水は借金問題を解決することができず、藩を捨てて逃亡してしまいます。
このような絶望的な財政状況を改善したのは、第5代藩主松平容頌が任じた、家老の田中玄宰です。玄宰は殖産興業政策の導入と農村復興、教育改革に力を入れるのと同時に、不正の厳罰化、有能な人材の登用など大胆な藩政改革を行いました。これにより、会津藩は破産状態から立ち直ったのです。
戊辰戦争と会津藩
第5代藩主松平容頌の跡を継いだ第6代藩主、松平容住は嫡子が幼いときに早世し、松平容衆が僅か3歳で第7代藩主になります。松平容衆もまた20歳で早世し、嫡子を残さなかったので、常陸国水戸藩、6代藩主徳川治保の次男、松平義和の庶子松平容敬が、第8代藩主となります。松平容敬も子に恵まれず、自身の甥に第9代藩主の座を譲ります。この『甥』が、歴史に名高い松平容保です。松平容保は血統的には美濃国高須藩10代藩主、松平義建の子どもであり、兄には尾張徳川家14代当主徳川慶勝、一橋徳川家10代目藩主徳川茂徳、弟に伊勢桑名藩13代目藩主松平定敬がいます。彼ら4人は幕末、幕府方の中心人物として明治政府に対抗し、高須4兄弟とも呼ばれました。
松平容保は、万延元年(1860年)に桜田門外の変が起こった後、幕府と水戸藩との調停役を務め、14代将軍徳川家茂の後ろ盾を受けて無血で事態を収束させます。文久2年(1862年)、松平容保が28歳の時、京都守護職に任じられます。この人事を容保は再三辞退したそうですが、幕府の使者が江戸屋敷に日参し、対に会津松平家初代保科正之が定めた家訓まで持ち出し、説得に当たったと伝わっています。
松平容保は、新撰組の前身である浪士組を預かり、壬生浪士組を作った人物として小説・漫画・ドラマなどによく登場します。しかし、それ以外にも孝明天皇に何度も面会し、朝廷と幕府を繋ぐ橋渡しの役も務めました。このほか、会津藩士を江戸に上洛させて徳川家茂の身辺警護なども行わせています。
松平容保は「国を一つのまとめることが第一」という信念で外交方針を固め、幕府と朝廷の意見統一に腐心します。しかし、その真意は幕府に伝わらず、意見は一向に聞いてもらえませんでした。しだいに、江戸に詰めていた会津藩士の不満も高まり、松平容保は何度も京都守護職を辞職したいと幕府に願い出ます。ですが、その希望がかなえられることはありませんでした。
松平容保の奮闘も虚しく元治元年に池田屋事件が発生し、長州藩が挙兵します。京都から追放されていた長州藩兵が松平容保の排除を目的として京都市中に武装してなだれ込み、市街戦も発生しました。(蛤御門の戦い)
こうしたかずかすの困難にも何とか耐えてきた松平容保でしたが、慶応2年(1867年)に親交が厚かった孝明天皇が崩御すると、ついに公武合体政策を放棄し、慶応3年(1868年に)京都守護職を辞任、会津に帰国します。慶応4年(1868年)戊辰戦争の始まりとなる鳥羽・伏見の戦いが勃発。
松平容保は幕府軍として会津藩士・桑名藩士を出陣させますが、幕府軍が敗退します。
この敗北により、会津・桑名を朝敵とする勅命が下りました。これに対抗し、東北諸藩34藩からなる奥羽越列藩同盟が結成され、明治政府軍と対決する姿勢が示されます。
明治元年(1868年)に始まった会津戦争は、白河口の戦い・二本松の戦いといずれも明治政府軍が勝利し、会津藩は若松城下への撤退を余儀なくされます。そして、一か月にわたる鶴ヶ崎城の籠城戦のあと、ついに無血開城をしたのでした。なお、会津戦争では多くの少年兵が犠牲になり、中でも二本松少年隊と白虎隊の悲劇は今でも広く知られています。また、会津藩士も多数の戦死者をだし、籠城戦の際に「足手まといにならぬように」と自害した藩士の妻や子どもは239名にも登ります。この、会津籠城戦の有様は大河ドラマ「八重の桜」でも描かれました。
なお、会津藩士が徹底抗戦の構えを見せたのに対し、会津の農民達の反応は酷く冷淡だったといわれています。これは、会津藩が明治政府と戦う資金を賄うために農民達に重税を課したためでした。農民達にとって会津藩そのものが憎悪の対象であり、明治政府を支持するものも少なくなかったといいます。会津藩が明治政府軍に降伏し、無血開城をした後、会津藩は一時的に政治的な空白が生じました。その時を狙い、農民達は検地帳・年貢帳・分限帳の破棄、選挙制の導入、専売制の廃止、年貢の減免を求めて一揆を起こします。(会津世直し一揆・ヤーヤー一揆)
明治政府はこれを積極的に鎮圧せず、農民達は新しく選任された村役人に多くの要求をのませました。
また、松平容保が会津から江戸へ送られる際、農民達は護送の行列を見ても跪くことはせず、野良仕事をして無関心を貫いたという記録が残っています。
松平容保は無血開城後、江戸に護送されて池田邸預かりになります。その後、明治2年(1689年)に実子松平容大が誕生、家名相続が許され3万石が支給されました。しかし、実際に松平容大が藩主の座に就くことはなく、松平容保が最後の藩主になります。松平容保は和歌山藩や青森の斗南藩預かりなどを経て、東京で蟄居を命じられますがその生活は困窮し、仕官した旧会津藩士が生活を支えていたといいます。
その後、明治13年(1880年)にようやく日光東照宮宮司兼上野東照宮に任じられ、給与を得ることができるようになりました。
明治26年(1893年)肺炎で死去します。享年56歳でした。
その後の会津松平家
会津松平家は、その後も華族(子爵家)として家名が存続し、松平容保の六男で外交官の松平恆雄の娘、(松平容保のひ孫に当たる)松平節子が秩父宮妃の妃となります(秩父宮妃勢津子)。しかし、秩父宮は死去するまで子どもに恵まれなかったため、皇室に会津松平家の血筋が残ることはありませんでした。なお、秩父宮は昭和天皇の弟にあたり、スポーツの振興にちからをいれたことから「スポーツの宮様」として国民から人気を集めました。現在も「秩父宮杯」などでその名が残っています。秩父宮妃勢津子も、長年にわたり結核予防総裁を務め、結核の予防活動に尽力を尽しました。
一方、会津松平家は未だに家名が存続しており、日本テレビのプロデユーサーを務めた松平保久さんは、第14代目当主にあたります。
福島県会津市で毎年開催される会津祭では、会津藩公行列が行われており、2019年に会津藩主松平容保役を務めたのは、松平保久さんの長男、松平親保さんでした。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。