加賀藩外様の名門前田家が治める
前田家の家紋「加賀前田梅鉢」
- 関係する城
加賀藩は、江戸時代を通して前田利家を祖とする前田家によって治められました。1つの家が江戸時代を通して1つの藩を治めるのは、とても珍しいことです。前田利家は織田信長・豊臣秀吉に仕え、外様大名でありながら徳川家と深い繋がりがありました。そんな前田家が治めた加賀藩の歴史をひもといていきましょう。
織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将が開祖の藩
加賀藩は、加賀・能登・越中の大半と、飛び地として近江弘川村を領地としてもっていた藩です。近江弘川村は現在の滋賀県高島市、今津町にあった村で、前田利家の妻「まつ」の化粧料(婦女用の領地)として与えられていたものです。
前田家は織田信長・豊臣秀吉に仕えた前田利家を祖とする外様大名です。織田信長に天文20年(1551年)ごろから小姓として仕えた前田利家は、天正9年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられ、23万石の大名となります。この頃、利家が居城としていたのは七尾城でした。信長の死後、豊臣秀吉に仕えるようになった利家は、賤ヶ岳の戦い・小牧・長久手の戦いなど歴史的に有名な戦いに参加し、やがて五大老の一員として、、豊臣秀頼の傅役(後見人)を務めます。豊臣秀吉の没後、前田利家は徳川家康の牽制に奔走しますが、秀吉の死の8か月後に病没しました。
さて、このように徳川家と対立してきた前田家ですが、前田利家の後を継いだ嫡男、前田利長は政治的な判断で徳川家康に帰順し、関ヶ原の戦いでは東軍につきます。一方、前田利長の弟にあたる前田利政は西軍についたために、戦後領地を没収されて前田利政に与えられます。前田利長はこれにより加能越3か国に及ぶ所領を取得しました。加賀前田家は利家を祖としていますが、加賀藩の祖はこの前田利家ということになっています。
外様大名最大の領地
前田利長の後を継いで二代目藩主に前田利常がついた後、寛永8年(1631年)、3代目将軍徳川家光が利常の行動を疑い、「前田征伐」が計画されます。しかし、前田家家老、横山康玄が陳述を行い、利常も長子・光高と共に江戸に出て供従の意思を示したため、征伐が行われることはありませんでした。その後、寛永11年(1634年)8月には、家光が領知朱印状を利常に発行したことにより、加賀・越中・能登の三国内での表高119万2760石が確定します。この石高は外様大名としては最大のものです。「加賀百万石」はこのときに誕生しました。
前田家を支えた家臣団達
前田家の直臣は、人持組頭・人持組・平士・足軽に分類されていました。人持組頭は別名、加賀八家・前田八家ともいい、いずれも1万石以上の石高を持つ家が務めています。加賀八家は本多家・長家・横山家・前田対馬守家・奥村河内守家・村井家・奥村内膳家・前田土佐守家といい、前田家の分家も含まれました。なお、加賀八家はいずれも石高が高く富裕の暮らしをしていたことから、今も残る家財を展示する企画展なども開かれています。また、現在も屋敷跡が金沢市に残っており、史跡巡りをすることもできます。
前田家と徳川家の関係
前田家は、外様大名にあたります。しかし、2代目藩主前田利常に2代将軍徳川秀忠の娘が嫁ぐなど、姻戚関係が強く準親藩として松平姓と葵紋が下賜されています。江戸城における扱いも別格で、将軍に拝謁する順番を待つ伺候席も徳川御三家や越前松平家などの御家門がと同じ大廊下でした。慶長20年(1615年)に一国一城令が発令されたあとも、加賀藩にだけ特別に小松城の再建が許されています。そのため、加賀藩は珍しく一国に二城がある藩です。また、前述した加賀八家にも徳川将軍家は加賀武家官位を与えています。
名君 前田綱紀の治世
加賀藩三代目の前田光高は徳川秀忠の娘を母として生まれましたが、29歳の若さで病没してしまいます。その後を継いだ嫡子綱紀は僅かに3歳でした。しかし、綱紀は祖父の利常を後見として藩主を務めます。
成人した綱紀は、新田開発を推奨し、十村制度を整備します。その後、北陸一帯を襲った寛文の飢饉の際には生活困窮者を助けるための施設作ります。この施設はのちに授産所としても機能し、医療施設としての役割も担いました。藩政としては、加賀八家の役割を中心とした前田家家中の職制や、刑罰の寛容化を行っています。このほか、学問を推奨し、自身の手で百科事典『桑華学苑』を記し、家臣にも学問を推奨しました。この頃、加賀藩には全国から集めた豊富な書籍が収蔵された書庫が誕生し、新井白石から、「加賀藩は天下の書府」と礼賛されています。
前田綱紀はこのように、始祖前田利家から続いた武断政治を文治政治に改め、加賀藩繁栄の基礎を築いた名君と後の世で評価されています。綱紀の治世は80年にもおよび、第5代将軍徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられました。
傾く財政
前田綱紀の死後、三男の前田吉徳が家督を継ぎます。名君、前田綱紀のお陰で藩の治世は問題ありませんでしたが、家格の向上と大藩ゆえの出費の大きさから藩の財政は徐々に傾いて行きます。前田吉徳は、足軽出身の大槻伝蔵を重用して質素倹約、公費の節減、新しい税の制定など財政改革に乗り出します。そのお陰で、加賀藩の財政は一時的に立ち直りましたが、身分の低い足軽出身の大槻伝蔵を重用したことで、保守派や門閥層の間に不満が溜まっていきます。吉徳の死後、大槻伝蔵は失脚させられました。
加賀騒動勃発
加賀騒動とは、大名家の内紛であるお家騒動のことで、伊達騒動や黒田騒動とならび、3大お家騒動の1つに数えられた大事件です。
前田吉徳の財政改革は、前田八家の出である前田直躬を筆頭とした藩内の保守派たちの反発を招きました。前田吉徳の死後、大槻伝蔵は失脚し、越中五箇山に配流になります。前田吉徳の後を継いだ前田宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半後に病死してしまいました。その後を継いだのは異母弟の前田重煕です。この前田重煕とその母浄珠院が毒殺未遂されたことが、加賀騒動の始まりです。調査の結果、毒殺の実行犯は奥女中の「浅尾」という人物でしたが、彼女に毒を入れるように命じたのが、前田吉徳の側室だった真如院ということが分かります。さらに、真如院の居室から大槻伝蔵からの手紙が見つかり、これが不義密通の証拠として取り上げられました。真如院が捕えられたことを知った大槻伝蔵は配流先で自害し、奥女中浅尾も殺害されます。真如院とその子前田利和は幽閉されていましたが、真如院が自らを殺してくれるように依頼し、それが実行されています。
この事件は、真如院が自らの子どもである前田利和を藩主の座につけようと大槻伝蔵と結託して起こした事件と言われています。しかし、真如院は最後まで毒殺を認めず、大槻伝蔵も厳しい監視下の元、密かに手紙を出すのは困難でした。この騒動の後、金沢の城下町では、大槻伝蔵が前田吉徳も手にかけたという謎の「実録本」などが数多く出回りましたが、現在は、保守派の前田直躬が、大槻伝蔵派を一掃するためにこの騒動をでっち上げたのではないか、という説が有力です。歌舞伎の『加々見山廓写本』・『加賀見山再岩藤』などは加賀騒動を舞台にしたもので、現在も上演が続けられています。
相次ぐ藩主の交代と金沢城焼失
加賀騒動の余波は、8代藩主、9代藩主の時代にまで尾を引きます。8代藩主前田重靖は、19歳で病没、その後を異母弟の前田重教が継ぎます。前田重教は、もともと他家の養子でありましたが、8代藩主急死により慌てて家督を継ぎます。そのころ、加賀藩の財政は一層厳しくなっていました。さらに、宝暦9年(1759年)4月10日、金沢に大火が起こり金沢の城下町1万5千戸に加え、金沢城も焼失してしまいます。加賀藩の財政は逼迫していたことから、幕府から金5万両を借りて急場をしのぎ、金沢城を再建しました。その後を継いだ10代藩主前田治脩は、学問を好み、寛政4年(1792年)、藩校明倫堂と経武館を兼六園の隣に創設しています。なお、10代藩主前田治脩は、6代藩主前田吉徳の10番目の男子で、到底家督を継げる立場にないことから、17歳で得度して出家していました。しかし、藩主の早世が相次ぎ、急遽還俗して藩主となったのです。加賀騒動がいかに加賀藩に大きな傷跡を残したかが察せられるエピソードです。
傾き続ける財政
11代藩主前田斉広は、10代藩主の後を継いだのち、農民をはじめとする臣民の生活を案定させる経済政策を行いましたが、いずれも挫折しました。その一方で、金沢城の二の丸が火災で焼失、領地の水害などで出費がかさみ、米の収穫高は減少し続けます。ついに100万石の石高を持ちながら、米の収穫高が50万石にも満たない年も出るようになりました。12代藩主前田斉泰も同様に藩政改革に取り組みますが、ペリー来航が来航するなど、世の中の激変により尊皇攘夷派の武士たちと開国派の武士達の争いが藩内で起こり、前田斉泰は尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多政均と共に弾圧していきます。
また、前田斉泰は加賀藩を薩摩・長州藩同様に国政に関わらせようとしますが、結局うまくいきませんでした。
明治時代と加賀藩
加賀藩最後の藩主となったのは、13代目の前田慶寧です。前田慶寧は、父である前田斉泰と対立し、ついに「幕命に背き御所の警備を放棄したとして」金沢で謹慎を申しつけられてしまいます。慶応元年(1865年)に謹慎を解かれ、慶応2年(1866年)4月4日、斉泰から家督を譲られますが実権はありませんでした。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、王政復古宣言を「薩州家奸臣共」の陰謀とし「内府様江御協力」するためとして出兵を決意しますが、戦いが僅か3日で終結した上、朝廷からこの進軍を「佐幕之国論」であるとして厳しく問いただされ、慌てて軍を引き返すという失態を演じました。その後、加賀藩は勤王で藩論を統一しますが、目立った活躍はなく明治を迎えます。明治2年(1869年)6月に金沢藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により、藩知事の任を解かれ東京に上京しますが、すぐに結核により病没しました。
- まとめ
- 前田家は外様大名でありながら、徳川将軍家と婚姻関係を結び御三家・御三卿につぐ名家の扱いを受けました。しかし、時代が下るにつれて藩の財政の悪化に苦しみ、なんどか改革を行いましたが、いずれも失敗に終わっています。幕末も薩摩藩・長州藩の活躍に比べればぱっとせず、12代、13代藩主のどちらも藩の平安を保つのに手一杯という印象です。それでも、加賀百万石の輝きは今なお私たちを魅了してやみません。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。