小田原藩(2/2)歴代藩主の多くが幕閣として活躍

小田原藩

大久保家の家紋「那須藤」

記事カテゴリ
藩史
藩名
小田原藩(1590年〜1871年)
所属
神奈川県
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大久保忠増は、御宝物の正宗の太刀を売り、質素倹約に努めましたがままならず、ついに足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村の住民が幕府に直訴を検討する事態となったことで、幕府に救済を求めます。その結果、小田原藩藩領のうち、噴火による被害が特に大きかった足柄地方と御厨地方の6万石が天領(幕府の直轄地)となりました。小田原藩にはその代わり伊豆・美濃・播磨という代替え地が与えられます。その後、関東郡代伊奈忠順を復興総奉行に任ぜられ、全国の大名から臨時に課税して集めた48万両を復興費用として被災地の土地改良・河川改修が行われました。

その後、天領となった足柄・御厨地域6万石が小田原藩に変換されたのは35年後の延享4年(1747年)のことです。藩主は大久保忠増孫、忠興の代になっていました。しかし、領地が変換された後も火山灰が川底に降り積もったことにより酒匂川が度々氾濫や洪水を起こし、その治水工事が終わったのは噴火から76年後の天明3年(1783年)でした。

二宮尊徳の活躍と小田原藩

このように天災に見舞われた小田原藩は、江戸時代後期になると財政難が深刻になります。この財政難を藩政改革により快勝しようと考えたのが、9代目藩主の大久保忠真です。彼は小田原藩の重臣である服部家の財政再建に成功した「二宮尊徳」を重用し、藩の財政を建て直そうとしました。二宮尊徳は百姓の出であったために身分が低く重用に反対する臣下も多かったのですが、大久保忠真は反対を押し切り二宮尊徳を重用し、金1000両や多数の蔵米を支給して農村改革を支持しました。このおかげで二宮尊徳の農村改革はほぼ成功しましたが、大久保忠真が急な病により。天保8年(1837年)に57才で病没すると改革は道半ばでとん挫してしまいました。しかし、二宮尊徳の功績は大きく、なかでも一斗枡の改良と藩内での規格の統一は、年貢の横領を防ぐために大いに役立ちました。

幕末と小田原藩

小田原藩11代目藩主を務めた大久保忠礼は、最後の将軍徳川慶喜の従兄弟に当たります。そのため、戊辰戦争では官軍に恭順して箱根の関所を明け渡したものの、旧幕府軍の攻撃で官軍側が不利になると旧幕府軍に寝返りをしていました。その後、説得により再び官軍側についたものの、裏切りを攻められて明治元年(1868年)に蟄居の上、家督を養子の忠良に譲ることを強制されます。石高も11万3000石から7万5000石に削減されてしまいました。
最後の藩主となった大久保忠良は、僅か11才で家督を継ぎます。その後、明治2年(1869年)に版籍奉還がおこったため、小田原藩知事に任じられますが、明治4年(1871年)には廃藩置県となり、藩知事を解任されました。その後、忠良は慶應義塾に入学しましたが、明治8年(1875年)に病気を理由に大久保忠礼に家督を返還しています。忠良は明治10年(1877年)に勃発した西南戦争に従軍し、熊本城にて戦死しています。享年21才という若さでした。忠良に家督を返還された後、大久保忠礼が再び藩主の座につき、13代目となります。大久保忠礼はその後、華族令により子爵の位を賜り、57才で病没します。

まとめ

小田原藩は日本の藩の中では移封が少なく、大久保家が長年藩主を務めています。初代が徳川家康の重臣だったことにより、家系から老中を多数輩出しました。その一方で、小田原は富士山の大噴火などの天災に見舞われ、藩政は幕末になるほど逼迫していきます。9代目藩主大久保忠真のように、優秀な人材を起用して藩政を建て直そうとした藩主もいましたが、道半ばでとん挫しました。しかし、現在も二宮尊徳など偉業を伝えられている人物もいます。
大久保家の子孫は今も現存しており、「大久保家」も存続中です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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