小田原藩歴代藩主の多くが幕閣として活躍

小田原藩

大久保家の家紋「那須藤」

記事カテゴリ
藩史
藩名
小田原藩(1590年〜1871年)
所属
神奈川県
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小田原城

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小田原は江戸時代以前、後北条氏が治めた土地でした。江戸時代になると徳川家康の腹心大久保忠世が藩主として封じられます。小田原藩も他藩同様、複数の家が治めましたが基本的には大久保氏が明治まで藩主を務めました、ここでは、小田原藩の歴史をひもといて行きましょう。

後北条氏の統治

小田原藩の歴史を解説する前に、5代100年にわたって小田原を治めた後北条氏の治世を簡単に解説します。
後北条氏は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)を始祖とする氏族です。鎌倉時代の北条氏とは血縁がないことから、区別するために「後」がつけられています。また、相模北条氏、小田原北条氏という別名もあります。
後北条氏は軍事だけでなく内政にも優れていました。小田原は当時としては最も税率が低い四公六民の税制をしいています。その代わり代替わりの際には必ず大規模な検地を行うことで、米の取れ高の増減を正確に把握しました。また、中世では一般的だった国人による税の徴収の委託を段階的に廃止し、大名が直接税を取り立てることで中間搾取をなくします。そのため、税が少なくても経済が逼迫することはありませんでした。これは、江戸時代に一般化する村請制度の先駆けともみなされています。このほか、飢饉の際には減税を行い、時には代替わりをすることで借金を棒引きにする徳政令も出すこともしました。そのおかげで、農民の離散などがほとんどなく後北条氏は安定した収入を長期にわたってえることができ、豊臣秀吉に滅ぼされるまで関東の覇者として君臨し続けました。

大久保氏の統治

小田原城の歴史でも触れましたが、北条氏が滅ぼされた小田原は豊臣秀吉が徳川家康に与え、その後大久保忠世に統治が任されました。大久保忠世は天正18年(1590年)に4万5千石で小田原に入ります。その後、忠世が文禄3年(1594年)の没すると、嫡子の大久保忠隣が跡を継ぎます。大久保忠隣は慶長15年(1610年)には老中になり、二代将軍徳川秀忠の元で権力を握りました。しかし、老中に就任して僅か1年後の慶長16年(1611年)に嫡子大久保忠常を失うと意気消沈し、度々政務を欠席するようになります。これが、秀忠・家康、そして他の老中たちの不興を買い、慶長19年(1614年)に改易となってしまいました。これにより、小田原城は破却され、以後5年間は藩主がいない「番城」となります。

阿部正次の統治

元和5年(1619年)になると、上総国大多喜藩の藩主であった安部正次が5万石で新たな小田原藩主として赴任します。しかし、特に目立った成果を上げることなく元和9年(1623年)に岩槻藩に転封となりました。なお。阿部正次は同年に大阪城代にも命じられ、死ぬまでこの職を勤め上げます。阿部正次が去った後、小田原城は再び藩主不在となりました。

稲葉家の統治

寛永9年1(1632年)になると、稲葉正勝が8万5千石をもって小田原藩の藩主に任じられます。稲葉正勝は徳川家光の乳母である春日局の実子にして、将来を約束された人物でした。しかし、幕政での激務が応えたのか寛永10年(1633年)頃から体調を崩し始め、寛永11年(1634年)に38才の若さで病没します。その後を継いだ次男稲葉政則は幼少だったため、従兄弟にあたる堀田正盛などの後見を受けています。稲葉政則はその後老中にまで出世し、4代将軍徳川家綱の政治を担っています。藩主であった小田原藩では新田開発に力を尽しました。
政則の後を継いだのは嫡男の稲葉正往です。政則とは反対に当時としては高齢の44才になってからの家督相続でした。稲葉正往が家督を継いだ際、小田原藩の石高は10万8千石にもなっています。しかし、稲葉正往が小田原藩主になった後で親戚である若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を暗殺した事件がおき、正往は連座として遠慮処分になり小田原藩から越後高田藩へ移封されました。これで、稲葉家の統治は終わりを告げます。ちなみに、稲葉正往は、その後江戸留守居役を経て老中に復帰しました。赤穂浪士が吉良邸へ討ち入った際の後始末を行い、浪士たちが即刻処分されることのないように配慮したとも伝えられています。

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稲葉正往が後高田藩へ移封された後、代わりに小田原藩主の座に就いたのは大久保忠隣の孫に当たる大久保忠朝です。彼は貞享3年(1686年)に小田原藩に転じられ、以後12年にわたって小田原城主を務めました。なお、石高は随時加算されて最終的に11万石を超えています。大久保忠朝が小田原城主になった後、以後10代にわたり大久保氏が幕末まで小田原藩主を務め続けました。

天災と財政難

大久保忠朝の嫡男、大久保忠増が城主を継いだ後、宝永4年(1707年)に富士山が大噴火を起こします。(宝暦の大噴火)これにより、小田原藩は、藩領である足柄上郡と駿東郡が大打撃を受けました。大久保忠増は藩の復興に尽力を尽しましたが自身が老中の座に就いていて江戸から離れることができなかったことと、噴火から遡ること4年前に発生した元禄大地震の傷跡がまだ残っていたことがわざわいし、復興はなかなか進みませんでした。

大久保忠増は、御宝物の正宗の太刀を売り、質素倹約に努めましたがままならず、ついに足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村の住民が幕府に直訴を検討する事態となったことで、幕府に救済を求めます。その結果、小田原藩藩領のうち、噴火による被害が特に大きかった足柄地方と御厨地方の6万石が天領(幕府の直轄地)となりました。小田原藩にはその代わり伊豆・美濃・播磨という代替え地が与えられます。その後、関東郡代伊奈忠順を復興総奉行に任ぜられ、全国の大名から臨時に課税して集めた48万両を復興費用として被災地の土地改良・河川改修が行われました。

その後、天領となった足柄・御厨地域6万石が小田原藩に変換されたのは35年後の延享4年(1747年)のことです。藩主は大久保忠増孫、忠興の代になっていました。しかし、領地が変換された後も火山灰が川底に降り積もったことにより酒匂川が度々氾濫や洪水を起こし、その治水工事が終わったのは噴火から76年後の天明3年(1783年)でした。

二宮尊徳の活躍と小田原藩

このように天災に見舞われた小田原藩は、江戸時代後期になると財政難が深刻になります。この財政難を藩政改革により快勝しようと考えたのが、9代目藩主の大久保忠真です。彼は小田原藩の重臣である服部家の財政再建に成功した「二宮尊徳」を重用し、藩の財政を建て直そうとしました。二宮尊徳は百姓の出であったために身分が低く重用に反対する臣下も多かったのですが、大久保忠真は反対を押し切り二宮尊徳を重用し、金1000両や多数の蔵米を支給して農村改革を支持しました。このおかげで二宮尊徳の農村改革はほぼ成功しましたが、大久保忠真が急な病により。天保8年(1837年)に57才で病没すると改革は道半ばでとん挫してしまいました。しかし、二宮尊徳の功績は大きく、なかでも一斗枡の改良と藩内での規格の統一は、年貢の横領を防ぐために大いに役立ちました。

幕末と小田原藩

小田原藩11代目藩主を務めた大久保忠礼は、最後の将軍徳川慶喜の従兄弟に当たります。そのため、戊辰戦争では官軍に恭順して箱根の関所を明け渡したものの、旧幕府軍の攻撃で官軍側が不利になると旧幕府軍に寝返りをしていました。その後、説得により再び官軍側についたものの、裏切りを攻められて明治元年(1868年)に蟄居の上、家督を養子の忠良に譲ることを強制されます。石高も11万3000石から7万5000石に削減されてしまいました。
最後の藩主となった大久保忠良は、僅か11才で家督を継ぎます。その後、明治2年(1869年)に版籍奉還がおこったため、小田原藩知事に任じられますが、明治4年(1871年)には廃藩置県となり、藩知事を解任されました。その後、忠良は慶應義塾に入学しましたが、明治8年(1875年)に病気を理由に大久保忠礼に家督を返還しています。忠良は明治10年(1877年)に勃発した西南戦争に従軍し、熊本城にて戦死しています。享年21才という若さでした。忠良に家督を返還された後、大久保忠礼が再び藩主の座につき、13代目となります。大久保忠礼はその後、華族令により子爵の位を賜り、57才で病没します。

まとめ

小田原藩は日本の藩の中では移封が少なく、大久保家が長年藩主を務めています。初代が徳川家康の重臣だったことにより、家系から老中を多数輩出しました。その一方で、小田原は富士山の大噴火などの天災に見舞われ、藩政は幕末になるほど逼迫していきます。9代目藩主大久保忠真のように、優秀な人材を起用して藩政を建て直そうとした藩主もいましたが、道半ばでとん挫しました。しかし、現在も二宮尊徳など偉業を伝えられている人物もいます。
大久保家の子孫は今も現存しており、「大久保家」も存続中です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。