伊勢亀山藩(1/2)多くの大名家が治める

伊勢亀山藩

石川家の家紋「丸に笹竜胆」

記事カテゴリ
藩史
藩名
伊勢亀山藩(1600年〜1871年)
所属
三重県
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伊勢亀山藩は8つの大名家によって治められてきた藩です。東海道の要所である「関」を藩地に持つため、小さい藩ですが幕府との結びつきは強いものでした。ここでは、伊勢亀山藩の歴史を紐解いていきましょう。

伊勢亀山の基礎を作った岡本良勝

岡本良勝は、豊臣秀吉に仕えた武将であり、2万2千石をもって亀山城に封じられました。岡山良勝は亀山城の天守・本丸・二の丸・三の丸などを増築し、現在の形に近いものにしました。また、検地をおこない城下町を発展させています。そのため、岡本良勝を初代藩主と考える人もいます。岡本良勝は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことを理由に改易され、59歳で自害しています。

岡本良勝の後に伊勢亀山藩の藩主になったのは、関一政です。関一政は、豊臣秀吉から岡本良勝より以前に伊勢亀山藩の藩主に命じられた関盛信の息子でありましたが、豊臣秀吉の命で美濃多良に移封されていました。しかし、関ヶ原の戦いで東軍についた功績により、3万石で伊勢亀山藩の藩主に封じられます。関一政は、亀山宿の整備や城郭の整備などを手がけましたが、慶長15年(1610年)7月19日、伯耆黒坂藩へ移封されます。

一度は廃藩となった伊勢亀山藩

関一政が移封された後、三河国作手藩より松平忠明が5万石で伊勢亀山藩の藩主になりました。松平忠明は、徳川家の重臣奥平信昌の四男であり、母親は徳川家康の娘、亀姫です。しかし、松平忠明も慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が起きて豊臣家が滅ぶと、摂津大坂藩に移封されました。5年ごとに藩主が家ごと変わった伊勢亀山藩は、その後一時期廃藩となり幕府の天領(直轄地)になります。その間、伊勢亀山藩を治めたのは、四日市の代官であった水谷光勝や津藩の城主でした。

三宅家が伊勢亀山藩に入る

元和5年(1619年)になると、三河挙母藩より三宅康信が1万石で伊勢亀山藩に入ります。三宅康信は徳川家康とともに小田原征伐など数々の戦に同行し武勲を上げた武将です。関ヶ原の戦いでは横須賀城番を務め、戦後は伊勢亀山城の城番(城代補佐)を務めました。元和6年(1620年)、三宅康信は徳川秀忠の娘和子が入内するさいに警備役を務めています。三宅康信は寛永9年(1632年)で死去するまで藩主を務めました。康信が死去した後、三宅康盛が第二代藩主となりますが、寛永13年(1636年)に三河挙母藩に再度戻され三宅家は伊勢亀山から去ります。

次々に代わる藩主

三宅家が去ったあと代わりに伊勢亀山藩の城主になったのは、三河西尾藩より移封された本多俊次です。三宅家で2万石まで増えた伊勢亀山藩の石高は本多俊次が封入するさい、5万石まで増えました。
本田俊次は寛永14年(1637年)に大規模な地検、翌年の寛永15年(1638年)には代官・大庄屋制度の確立、さらに伊勢亀山城の改築と藩政を積極的に行います。しかし、14年後の慶安4年(1651年)には近江膳所藩へ移封、代わって石川憲之が同じ5万石で封入されますが、7年後の寛文9年(1669年)には山城淀藩へ移封されました。石川憲之は、明暦の大火で積極的に被災者救助を行った大名として知られています。

石川憲之が移封された後、同年寛文9年(1669年)に伊勢亀山藩に封入されたのが、板倉重常です。彼は、亀山城の改増築をはじめとし、寺社政策を徹底したり新田開発をしたりするなど、精力的に藩政に取り組みます。賦役の軽減・減税など領民思いの善政を敷いたと伝えられていますが、凶作が続いて藩財政は窮乏しました。その結果、多額の負債を抱えた伊勢亀山藩の財政は大きく傾いてしまいます。板倉重常が隠居をした後、板倉重冬・板倉重治が後を継ぎますが、目立った活躍をすることなく板倉重治は宝永7年(1710年)に志摩鳥羽藩へ移封されました。

板倉重治が志摩鳥羽藩へ移封された後、松平乗邑が変わって封入されます。松平乗邑はその後幕府の老中まで上り詰めた人物ですが、このころ山城国や大坂城代など複数の藩の藩主を務めました。松平乗邑は、享保2年(1717年)に山城淀藩に移封になります。そのあと、再び板倉重治が呼び戻されて藩主の座につきました。

しかし、板倉重治は28歳という若さで死去します。その跡を継いだのは長男の板倉勝澄です。しかし、延享元年(1744年)に石川総慶と入れ替わる形で備中松山藩へ移封となりました。
このように、伊勢亀山藩は藩主が頻繁に移封されています。このため、なかなか国政が安定せず、藩の財政も苦しくなりました。

石川家の移封によりようやく国政が安定する

石川総慶は伊勢亀山藩に移封された後、守山宿での朝鮮通信使饗応役を務めるなど藩政をこなします。しかし、前藩主までが作り上げた借金が5万両近くまでに膨らみ、藩の財政を圧迫していました。「鈴鹿郡野史」には、板倉家が残した借金について「武士の威信を失墜すること甚だしき」と記されています。石川総慶は倹約令などを発したようですが効果はありませんでした。石川総慶は財政の立て直しを図る一方で藩教学を奨励し、前田平治・池上藤吉・福島助三などの学者を藩に招聘しています。
このような学問を重要視する藩政はその後幕末までつづきました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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