尾張藩(2/2)江戸時代を通して尾張を治めた尾張徳川家

尾張藩

記事カテゴリ
藩史
藩名
尾張藩(1610年〜1871年)
所属
愛知県

また、江戸の吉原で評判の遊女を身請けし、江戸藩邸を多くの人に公開するなど型破りなことも行い、庶民からの人気は高かったようです。実際、宗春の治世の最中、名古屋では死罪になった罪人はおらず、経済は発展しました。
しかし、藩の財政は急速に赤字となり、尾張藩はインフラが進んで行きます。その結果、尾張藩の内部は少なからず混乱し、享保20年(1735年)に一転してく遊興徘徊を禁じる令を出しました。この政策の急展開にますます幕府は尾張藩への警戒を強めます。そして、同じ頃、「大日本史」の強行出版を巡って朝廷と幕府の間でも緊張が高まっていました。

徳川宗春は朝廷と親密な関係を築いており、時の関白・太政大臣一条兼香とも近しい間柄でした。そのため、徳川宗春は幕府と朝廷の板挟みになってしまい、隠居謹慎にまで追い込まれます。天文4年(1739年)、徳川宗春は江戸の中屋敷麹町邸、後に名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられました。

この隠居謹慎は屋敷から一歩も出ることができず、父母の墓参りさえ許されないものと伝えられていましたが、実際は度々外出もでき、屋敷内で宗春はさまざまな趣味を楽しんでいたそうです。また、徳川吉宗も度々徳川宗春に「不自由はないか?」と尋ねる手紙を送っていたことが分かっています。明和元年(1764年)徳川吉宗は満67才で没します。彼には8人の子どもがいましたが、そのうち7名が存命中に江戸屋敷でなくなり、後を継ぐ男児はいませんでした。そのため、尾張藩は一旦幕府の天領となったうえで、美濃高須藩主の松平義淳が8代目藩主の徳川宗勝となります。

学問を奨励し、天災と戦う

8代藩主徳川宗勝と、その子ども9代藩主徳川宗睦は7代藩主の徳川宗春と正反対の政策をとり、藩の財政を立て直し、学問を奨励しました。徳川宗勝は緊縮財政政策を行う一方、布施蟹養斎を登用して藩校・明倫堂の前身となる学問所を創設しています。宗春に比べると影が薄い印象がある徳川宗勝ですが、さまざまな文化的書物を編纂し、刑法を再整備しました。宝暦11年(1761年)に逝去した後は、次男である徳川宗睦が9代目藩主となります。

徳川宗睦は、山村良由や樋口好古を登用し、新田開発・殖産興業政策・治水工事などに力を入れます。また、父の事業を受け継ぎ藩校、明倫堂を創立し、藩の教育普及にも努めました。
そのため、徳川宗睦は尾張藩中興の祖と称えられています。しかし、庄内川の氾濫などの天災も続き、尾張藩の財政は急速に悪化していきます。さらに、徳川宗睦は軍制改革も行い、幕府の「海軍防備令」をうけて知多半島の防備を再編成しました。その結果、さらに藩の財政は悪化し、幕府や藩内の豪商に借金をしたり藩札を発行したりせざるを得なくなります。そして藩内の物価は高騰、経済の混乱を招きました。

徳川宗睦は、寛政11年(1799年)に満67才で薨去しますが、彼の実子である長男、次男は早世、美濃高須藩から養子に迎えた甥2名と、その子も宗睦存命のうちに亡くなってしまいます。そのため、寛政10年(1798年)に一橋徳川家から一橋治国の長男斉朝を養嗣に迎え、宗睦の死後に10代目藩主となりました。これで、徳川義直から続いた尾張徳川家の男系の血筋は絶えることになります。しかし、徳川斉朝は4代藩主徳川吉通の長女、三千君の子ども、二条宗基の曾孫にあたるため、女系で尾張徳川家の血を引いていることになります。

短命の藩主が続き尾張藩は危機を迎える

10代藩主徳川斉朝・11代藩主徳川斉温・12代藩主徳川斉荘・13代藩主徳川慶臧は、それぞれ将軍家や御三卿から養子に来た藩主達です。11代藩主徳川斉温は病弱で、21才で没するまで尾張藩の江戸屋敷に暮らしついに尾張の地に足を踏み入れることがありませんでした。12代徳川斉荘は藩の財政を顧みずに遊興にふけり、藩の財政はますます悪化します。そして、13代藩主徳川慶臧は田安徳川家から養子にやってきた人物で、幕末に活躍した大名の1人、福井藩主・松平春嶽の実弟でもあります。徳川慶臧自身も聡明な人物であったようですが、在位4年目に疱瘡(天然痘)にかかり、あっけなく薨去したために何の功績も残すことができませんでした。

このように、幕府から押しつけられるような形で養子の藩主が続いたのは、尾張藩の財政悪化も一因です。9代藩主、徳川宗睦の時代に藩札が発行されるまで苦しくなった尾張藩の財政は、もはや幕府の助けなしでは回復が難しくなっていました。
そのため、尾張藩の家臣団は幕府に追従することで財政を立て直そうとする江戸派と、幕府の藩政介入に反対する金鉄党の間で争いが起き、金鉄党は藩主擁立運動を起こします。
その結果、13代藩主を最後に将軍家御三卿系の養子は阻止され、14代藩主には美濃高須藩主・松平義建の次男である徳川慶勝が任ぜられました。

安政の大獄と尾張藩

徳川慶勝が尾張藩藩主に任ぜられた頃、日本には外国船来航が盛んになっていました。徳川慶勝は、徳川斉昭・薩摩藩主島津斉彬、宇和島藩主伊達宗城に感化され、幕府に対して対外強硬論を主張します。その一方で、藩では質素倹約政策を実施し、財政の立て直しを図りました。

安政5年(1858年)日米修好通商条約が調印されると徳川慶勝は、徳川斉昭、その子慶篤、福井藩主松平春嶽と共に江戸城へ不時登場し、大老井伊直弼に抗議します。この行為を咎められ、徳川慶勝は隠居謹慎を命じられました。これも、安政の大獄の一部とされています。こうして、徳川慶勝は志半ばで藩主の座を弟の徳川茂徳に譲りました。隠居後の徳川慶勝は写真を趣味とし、1,000点近くの写真を残していますが、その中には明治時代に壊された名古屋城二の丸御殿や江戸にあった尾張藩下屋敷など歴史的資料として貴重なものもたくさんあります。

幕末と尾張藩

15代藩主となった徳川茂徳は桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、徳川慶勝の子ども、徳川義宜に16代藩主の座を譲り渡します。元治元年(1864年)のことで、徳川義宜はまだ6才になったばかりでした。そのため、尾張藩の藩主は事実上再び徳川慶勝となります。同年、徳川慶勝は第一次長州征伐の総督になりました。
慶応3年(1867年)の大政奉還の後、徳川慶勝は新政府の議定に任じられ、15代将軍徳川慶喜に小御所会議で決定された辞官納地を求める使者にもなっています。

このような新政府よりの藩主に、藩内の佐幕派は激しく反発しました。そこで、徳川慶勝は慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて藩内の佐幕派を粛清します(青松葉事件)。これは、慶勝が新政府から「姦徒誅戮」の勅命を帯びて藩に帰国した直後に行われたもので、重臣から一般藩士まで斬首14名、処罰20名という過酷なものでした。
なお、青松葉事件の直前、慶応4年(1868年)1月3日に戊辰戦争が勃発し、新政府軍は薩摩・長州連合軍に勝利しています。戊辰戦争の際徳川慶勝は弟茂徳と共に幕府軍の先鋒を務めました。しかし、名古屋以降東の藩では幕府よりの大名が多く、尾張藩内でも16代藩主徳川義宜を擁立し、薩摩・長州連合軍に味方しようとする動きがあったといわれています。
青松葉事件はこの動きを徳川慶勝が知り、解決のために強硬手段を執ったという説が有力です。

その後、尾張藩は明治3年(1870年)に財政難に陥った支藩の高須藩を吸収合併し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県によって藩の歴史は幕を閉じました。なお、16代藩主徳川義宜は明治8年(1875年)に18才で短い生涯を閉じ、父親の徳川慶勝が17代当主に再びつき、侯爵となっています。尾張徳川家は、その後明倫中学校や、徳川美術館・蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設し、徳川家の文化財保護や愛知県の発展に尽力しました。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。