尾張藩江戸時代を通して尾張を治めた尾張徳川家

尾張藩

松平家の家紋「三つ葵」

記事カテゴリ
藩史
藩名
尾張藩(1610年〜1871年)
所属
愛知県
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名古屋城

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尾張藩は、徳川義直を祖とした尾張徳川家が治めた藩です。尾張徳川家は将軍家に後継ぎが絶えた際に後継者を出す御三家の筆頭家でした。また、将軍家との関わりも深く、将軍と親密になったり反発したりした藩主もいます。ここでは、尾張藩の歴史を歴代の藩主を軸にひもといて行きましょう。

徳川義直が名古屋城に移り住んだ時から、尾張藩の歴史は始まりました。諸大名の多くが「国替」といって定期的に領地変更を命じられる中、尾張徳川家は江戸時代を通して尾張藩から動かず、この地を治めました。初代藩主徳川義直の頃、尾張藩の石高は47万1300石でしたが、その後美濃国各務群などをはじめとする木曽川流域の地域、木曽地域・飛騨地域など領地を拡大していきます。最終的に、尾張藩は木曽川・飛騨川流域、長良川・揖斐川(いびがわ)流域といった東海地方の軍事・経済の要所を藩領に取り込みました。その結果、石高は61万9500石となります。同じ御三家の紀州藩が55万石、水戸藩が35万石ですから、御三家筆頭と呼ばれた尾張徳川家の経済力がよく分かります。なお、一説によると尾張藩は新田開発によって得られた米を売却した収入に加え、木曽山中で採れる材木を売却した収入などもあり、実際の石高は90万〜100万石に近かったと伝えられています。

経済的な豊かさで安定した治世を敷く

表石高と実際の石高に30万石近い差があった尾張藩は、経済的に比較的余裕がありました。そのため、領民の年貢は4公6民と低く抑えられたと伝えられています。領民が余裕のある暮らしができていたためか、尾張藩は廃藩になるまで一揆が一度も起こりませんでした。また、勝海舟は明治31年(1898年)に著した氷川清話の中で、尾張藩のことを『民政が行き届いた国』『織田信長の遺徳が未だ人民に慕われている国』『善良法政が歴々と残っている』と褒め称えています。
初代藩主徳川義直は尾張藩藩主の座に着いたときはまだ幼少でありましたが、成人してからは、用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めました。
2代藩主となった徳川光友は社寺政策に力を入れすぎたせいで藩の財政を悪化させますが、防火制度を調えたり軍備増強をしたりするなど、一定の功績を残しました。

将軍家と尾張藩の関わり

尾張藩の藩主である尾張徳川家は、御三家の一つで最も格が高い家とされています。御三家とは、徳川家康の血を継ぐ男系男子を始祖とする親藩の最高位です。将軍家に後継ぎが絶えたときは、御三家から養子を迎えるのが定めでした。尾張徳川家は3代藩主の徳川綱誠の実母が3代将軍徳川家光の長女、千代姫であることから、将軍家に最も近い家とみなされていました。4代藩主徳川吉通は実父徳川綱誠の急死により、11才で藩主となりましたが、その人格と治世に関する能力の高さを6代将軍徳川家宣により高く評価されます。
家宣は、実子鍋松(後の七代将軍、徳川家継)が病弱であることを心配し、徳川吉通に7代将軍になるように懇願したと伝わっています。
しかし、この願いは実現しませんでした。吉通が「尾張は将軍位を争わず」と述べたからとも、家宣に変わって国政を担っていた御側御用の新井白石が反対したからともいわれていますが、真相は定かではありません。
徳川吉通は、6代将軍家宣が薨去して僅か1年後の正徳3年(1713年)に不審な死を遂げます。実母、本寿院と夕食を共にした後、急に吐血してそのまま死亡したのです。享年25才(満23才)という若さでした。この死に関して、尾張藩士朝日重章は自身の日記、「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」の中で、紀州藩の間者が尾張藩邸のことを伺っているという噂があったことを記しています。
吉通の後継は、幼い長男徳川五郎太が数え年3才で継ぎますが、彼も父の死から二か月後、になくなりました。

八代将軍を巡る紀州徳川家との争い

5代藩主徳川五郎太が幼くしてなくなったことで、6代藩主の座についたのは吉通の弟に当たる徳川継友です。継友は本来なら藩主になれる立場でなかったため、藩主の座についたときは徳川五郎太の死の翌日にも関わらず盛大に藩主就任祝いの祝宴を開き、家臣達かたしなめられた、という話しも伝わっています。
徳川継友は、八代将軍の座を紀州徳川家の徳川吉宗と争った人物として有名です。小説・ドラマ・漫画などでもよく取り上げられるエピ-ソードのため、ご存じの方も多いことでしょう。尾張徳川家の方が紀州徳川家よりも家格が上であり、血筋でも徳川継友の方が将軍家に近かったのに将軍に就任できなかった理由は、諸説あります。中でも、尾張徳川家の附家老である成瀬正幸と竹腰正武などが4代藩主徳川吉通の宣言、「尾張は将軍位を争わず」を守って積極的な将軍就任活動をしてこなかったため、という説は有名です。このほか、幕府の重鎮であった真鍋詮房や新井白石の反対もありました。
かくして、徳川継友は将軍になることなく享保15年(1731年)に死去するまで、藩主を務めます。継友は幼少より蓄財に熱心で、節約家だったと伝えられています。そのため、質素倹約を推し進める政治を行い、領民からの評判は「性質短慮でけち」といまひとつでした。継友が領民に付けられたあだ名の中には、官職の「尾張大納言」と「尾張大根」をかけた、
『切り干し大根』というのもあったそうですが、史実では継友は大納言には任命されていません。しかし、彼が行った政策により、尾張藩は享保13年(1729年)には、金1万3千両以上、米2万7千石以上という黒字を出しています。また、徳川継友は商業の発展にも熱心であり、彼が藩主の座に着いているとき、江戸の豪商三井家の越後屋が名古屋に再び出展をしています。名古屋城下の人口も17万人を超え、7代藩主徳川宗春が躍進する土台を築きました。

幕府との対立

歴代尾張藩藩主の中で、最も有名なのが7代藩主徳川宗春です。宗春は徳川継友の弟にあたり、4代藩主徳川吉通が大変かわいがられてもいました。徳川宗春は、幕府の命にことごとく逆らい、正反対の政策を行った藩主と伝えられています。彼の治世については「ゆめのあと」や「享元絵巻」などに記録として残されています。享元絵巻は名古屋市博物館に所蔵されているので、名古屋城を見学ついでに鑑賞してみるのもおすすめです。

徳川宗治は、8代将軍徳川吉宗が出した倹約令を無視し、名古屋の城下町に芝居小屋を誘致し、領内に新しい遊郭の設置許可を出しました。このため、江戸で活動できなくなった役者や絵師など、町人文化を担っていた者たちが名古屋に集まり、名古屋は江戸を凌ぐ賑やかとなりました。その様子を描いたのが、先に紹介した享元絵巻です。
徳川宗春自身も派手好きで目立ちたがり屋の一面があったようで、領内では能や歌舞伎の装束で歩き回ったり、白い牛に乗ったりしたという逸話が残っています。

また、江戸の吉原で評判の遊女を身請けし、江戸藩邸を多くの人に公開するなど型破りなことも行い、庶民からの人気は高かったようです。実際、宗春の治世の最中、名古屋では死罪になった罪人はおらず、経済は発展しました。
しかし、藩の財政は急速に赤字となり、尾張藩はインフラが進んで行きます。その結果、尾張藩の内部は少なからず混乱し、享保20年(1735年)に一転してく遊興徘徊を禁じる令を出しました。この政策の急展開にますます幕府は尾張藩への警戒を強めます。そして、同じ頃、「大日本史」の強行出版を巡って朝廷と幕府の間でも緊張が高まっていました。

徳川宗春は朝廷と親密な関係を築いており、時の関白・太政大臣一条兼香とも近しい間柄でした。そのため、徳川宗春は幕府と朝廷の板挟みになってしまい、隠居謹慎にまで追い込まれます。天文4年(1739年)、徳川宗春は江戸の中屋敷麹町邸、後に名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられました。

この隠居謹慎は屋敷から一歩も出ることができず、父母の墓参りさえ許されないものと伝えられていましたが、実際は度々外出もでき、屋敷内で宗春はさまざまな趣味を楽しんでいたそうです。また、徳川吉宗も度々徳川宗春に「不自由はないか?」と尋ねる手紙を送っていたことが分かっています。明和元年(1764年)徳川吉宗は満67才で没します。彼には8人の子どもがいましたが、そのうち7名が存命中に江戸屋敷でなくなり、後を継ぐ男児はいませんでした。そのため、尾張藩は一旦幕府の天領となったうえで、美濃高須藩主の松平義淳が8代目藩主の徳川宗勝となります。

学問を奨励し、天災と戦う

8代藩主徳川宗勝と、その子ども9代藩主徳川宗睦は7代藩主の徳川宗春と正反対の政策をとり、藩の財政を立て直し、学問を奨励しました。徳川宗勝は緊縮財政政策を行う一方、布施蟹養斎を登用して藩校・明倫堂の前身となる学問所を創設しています。宗春に比べると影が薄い印象がある徳川宗勝ですが、さまざまな文化的書物を編纂し、刑法を再整備しました。宝暦11年(1761年)に逝去した後は、次男である徳川宗睦が9代目藩主となります。

徳川宗睦は、山村良由や樋口好古を登用し、新田開発・殖産興業政策・治水工事などに力を入れます。また、父の事業を受け継ぎ藩校、明倫堂を創立し、藩の教育普及にも努めました。
そのため、徳川宗睦は尾張藩中興の祖と称えられています。しかし、庄内川の氾濫などの天災も続き、尾張藩の財政は急速に悪化していきます。さらに、徳川宗睦は軍制改革も行い、幕府の「海軍防備令」をうけて知多半島の防備を再編成しました。その結果、さらに藩の財政は悪化し、幕府や藩内の豪商に借金をしたり藩札を発行したりせざるを得なくなります。そして藩内の物価は高騰、経済の混乱を招きました。

徳川宗睦は、寛政11年(1799年)に満67才で薨去しますが、彼の実子である長男、次男は早世、美濃高須藩から養子に迎えた甥2名と、その子も宗睦存命のうちに亡くなってしまいます。そのため、寛政10年(1798年)に一橋徳川家から一橋治国の長男斉朝を養嗣に迎え、宗睦の死後に10代目藩主となりました。これで、徳川義直から続いた尾張徳川家の男系の血筋は絶えることになります。しかし、徳川斉朝は4代藩主徳川吉通の長女、三千君の子ども、二条宗基の曾孫にあたるため、女系で尾張徳川家の血を引いていることになります。

短命の藩主が続き尾張藩は危機を迎える

10代藩主徳川斉朝・11代藩主徳川斉温・12代藩主徳川斉荘・13代藩主徳川慶臧は、それぞれ将軍家や御三卿から養子に来た藩主達です。11代藩主徳川斉温は病弱で、21才で没するまで尾張藩の江戸屋敷に暮らしついに尾張の地に足を踏み入れることがありませんでした。12代徳川斉荘は藩の財政を顧みずに遊興にふけり、藩の財政はますます悪化します。そして、13代藩主徳川慶臧は田安徳川家から養子にやってきた人物で、幕末に活躍した大名の1人、福井藩主・松平春嶽の実弟でもあります。徳川慶臧自身も聡明な人物であったようですが、在位4年目に疱瘡(天然痘)にかかり、あっけなく薨去したために何の功績も残すことができませんでした。

このように、幕府から押しつけられるような形で養子の藩主が続いたのは、尾張藩の財政悪化も一因です。9代藩主、徳川宗睦の時代に藩札が発行されるまで苦しくなった尾張藩の財政は、もはや幕府の助けなしでは回復が難しくなっていました。
そのため、尾張藩の家臣団は幕府に追従することで財政を立て直そうとする江戸派と、幕府の藩政介入に反対する金鉄党の間で争いが起き、金鉄党は藩主擁立運動を起こします。
その結果、13代藩主を最後に将軍家御三卿系の養子は阻止され、14代藩主には美濃高須藩主・松平義建の次男である徳川慶勝が任ぜられました。

安政の大獄と尾張藩

徳川慶勝が尾張藩藩主に任ぜられた頃、日本には外国船来航が盛んになっていました。徳川慶勝は、徳川斉昭・薩摩藩主島津斉彬、宇和島藩主伊達宗城に感化され、幕府に対して対外強硬論を主張します。その一方で、藩では質素倹約政策を実施し、財政の立て直しを図りました。

安政5年(1858年)日米修好通商条約が調印されると徳川慶勝は、徳川斉昭、その子慶篤、福井藩主松平春嶽と共に江戸城へ不時登場し、大老井伊直弼に抗議します。この行為を咎められ、徳川慶勝は隠居謹慎を命じられました。これも、安政の大獄の一部とされています。こうして、徳川慶勝は志半ばで藩主の座を弟の徳川茂徳に譲りました。隠居後の徳川慶勝は写真を趣味とし、1,000点近くの写真を残していますが、その中には明治時代に壊された名古屋城二の丸御殿や江戸にあった尾張藩下屋敷など歴史的資料として貴重なものもたくさんあります。

幕末と尾張藩

15代藩主となった徳川茂徳は桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、徳川慶勝の子ども、徳川義宜に16代藩主の座を譲り渡します。元治元年(1864年)のことで、徳川義宜はまだ6才になったばかりでした。そのため、尾張藩の藩主は事実上再び徳川慶勝となります。同年、徳川慶勝は第一次長州征伐の総督になりました。
慶応3年(1867年)の大政奉還の後、徳川慶勝は新政府の議定に任じられ、15代将軍徳川慶喜に小御所会議で決定された辞官納地を求める使者にもなっています。

このような新政府よりの藩主に、藩内の佐幕派は激しく反発しました。そこで、徳川慶勝は慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて藩内の佐幕派を粛清します(青松葉事件)。これは、慶勝が新政府から「姦徒誅戮」の勅命を帯びて藩に帰国した直後に行われたもので、重臣から一般藩士まで斬首14名、処罰20名という過酷なものでした。
なお、青松葉事件の直前、慶応4年(1868年)1月3日に戊辰戦争が勃発し、新政府軍は薩摩・長州連合軍に勝利しています。戊辰戦争の際徳川慶勝は弟茂徳と共に幕府軍の先鋒を務めました。しかし、名古屋以降東の藩では幕府よりの大名が多く、尾張藩内でも16代藩主徳川義宜を擁立し、薩摩・長州連合軍に味方しようとする動きがあったといわれています。
青松葉事件はこの動きを徳川慶勝が知り、解決のために強硬手段を執ったという説が有力です。

その後、尾張藩は明治3年(1870年)に財政難に陥った支藩の高須藩を吸収合併し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県によって藩の歴史は幕を閉じました。なお、16代藩主徳川義宜は明治8年(1875年)に18才で短い生涯を閉じ、父親の徳川慶勝が17代当主に再びつき、侯爵となっています。尾張徳川家は、その後明倫中学校や、徳川美術館・蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設し、徳川家の文化財保護や愛知県の発展に尽力しました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。