宇都宮藩江戸100藩の一つに数えられた

宇都宮藩

本多家の家紋「丸に立ち葵」

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藩史
藩名
宇都宮藩(1601年〜1871年)
所属
栃木県
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宇都宮城

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宇都宮藩は、下野国宇都宮(現:栃木県宇都宮市)に存在した藩です。この地は北関東の交通の要所であるばかりでなく、日光東照宮へ将軍が詣でる際の中継地でもありました。藩庁である宇都宮城には日光東照宮に将軍が参拝する際の宿泊所となっており、城主は譜代大名から選ばれました。そんな宇都宮藩の歴史を紐解いていきましょう。

江戸時代以前の宇都宮

宇都宮は、平安後期から藤原氏の流れを汲む下野宇都宮氏の支配下にありました。下野宇都宮氏の支配は実に550年にも及び、戦国時代後期になると北条氏を牽制し、天下統一を果たした豊臣秀吉とも一時は良好な関係を築いていました。

しかし、慶長2年(1597年)、宇都宮国綱の代に改易となって領地を没収されます。その理由ははっきりとしていませんが、検知をおこなった際に石高を過少申告したからとも、浅野長政の三男を養子にする話しがこじれたからとも言われています。

没収された宇都宮の地は後に陸奥会津藩の藩主となる蒲生秀行に与えられました。蒲生秀行は、城下町を整備して蒲生家の故地である近江日野からやって来た商人を御用商人として、城下町に住まわせ、商業の発展を促しました。

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、蒲生秀行は元の領地である陸奥会津藩の藩主に60万石で復帰します。

宇都宮藩の成立から江戸中期まで

蒲生秀行が陸奥会津藩に移封された後、奥平家昌が10万石で宇都宮に入り、宇都宮藩が成立します。奥平家昌は、徳川家康の長女、亀姫の息子で徳川家康の孫に当たる人物です。彼は城下町で市を定期的に開催するなど商業の発展に努めましたが、慶長19年(1614年)に10月に38歳の若さで病死します。嫡子として奥平忠昌がいましたが、家昌が亡くなったときにまだ7歳だったため、宇都宮藩を任せるのは荷が重いとされ、下総古河藩へ移封されました。

奥平家が去った後に宇都宮藩を任されたのが、本多正純です。本多正純は徳川家康がまだ織田信長の家臣だった時代から仕えていた本多正信の嫡子です。父と共に家康の側近として重用されましたが、本多正純は目立った武勲がなかったため、武功派の家臣達から妬まれていたという説があります。

特に、奥平家に嫁いだ亀姫は本多正純に宇都宮を与えることをよしとせず、弟にあたる二代目将軍徳川秀忠に厳重な抗議を行なったと伝わっています。

本多正純は、中世城郭であった宇都宮城を大改修して、近世城郭に生まれ変わらせました。現在、再建されている宇都宮城の清見櫓などは、このときに建てられたものです。
また、本多正純は奥州街道と日光街道を整備し、城下町の宿屋を調え、将軍が日光東照宮に詣でる際の中継地としての体裁を整えます。

宇都宮藩の藩主となった後も、本多正純は老中として幕府の中枢にとどまり続けました。しかし、徳川家康が亡くなり、徳川秀忠が実権を握って時間が経つほど、彼は土井利勝や酒井忠世などの若い世代と対立し、孤立していきます。

元和8年(1622年)、出羽山形藩の最上義俊が改易されたため、本多正純は城受け渡しの支社として山形におもむきます。そして彼は山形の地で自身の改易を告げられたのです。改易の理由は、宇都宮城を幕府へ無届けで改修したこと、城下で鉄砲を密造したことなどがありましたが、よく知られている「宇都宮城につり天井を作った」という史実はありません。

徳川秀忠は、本多正純が徳川家にとって忠臣であったことから、11万石から5万5千石への減封で済まそうとしましたが、正純がこれを断ったことから激怒し、出羽大沢千石にまで減らされました。
本多正純は粛々とこれを受け入れ、80代で没するまで半出羽大沢で幽閉同然の生活を送りました。

その後、一度は下総古河藩に移った奥平忠昌が11万石で再封され、46年間宇都宮を治めます。その間、将軍家より日光東照宮への参拝が13回も行なわれ、奥平家はその対応に追われた結果、早々に財政難に陥りました。
そして、奥平忠昌が亡くなった後で家臣が殉死したのですが、それが幕府の定めた殉死禁止の法に触れてしまいます。さらに、忠昌の法要が行なわれた際に家臣同士の刃傷沙汰(宇都宮興禅寺刃傷事件)が発生します。数々の不祥事の責任を取り、奥平家は9万石に減封のうえ、出羽に国替えとなりました。

奥平家が去った後、宇都宮藩は奥平松平家・本多忠平が短期間ずつ治めます。本多忠平は年貢を減税するなど良政を敷きましたが、わずか4年で転移、その後再び奥平家が呼び戻されますが、藩主となった奥平昌章は28歳で病死、後継の昌成はわずか2歳だったため、再度移封され、阿部正邦が城主となりますが、13年で移封となりました。

江戸時代中期からの宇都宮藩

第7代将軍徳川家継から8代将軍徳川吉宗の時代にかけて、宇都宮藩は戸田家が3代にわたって治めた後、深溝松平家が藩主となります。この時代、宇都宮藩では洪水や火事などの天災が相次ぎ、百姓一揆なども勃発しました。宇都宮藩は農業の他、石切などの産業があったため、庶民は他藩にくらべて豊かだったという記録が残されています。しかし、年貢は重く、農民は暮らしにくかったため、田畑を捨てて逃げ出したり、石切を本業としたりするなどして、農業が衰退するという珍しい現象も起こりました。そのため、藩の財政は決して豊かではなく、特に、深溝松平家は移封の費用にも苦労して幕府に借金もしています。

深溝松平家が2代で移封された後、再び戸田家が藩主となり、明治維新まで藩を治めました。
戸田家6代目藩主戸田忠恕の時代、戊辰戦争が勃発します。

戸田忠恕は戊辰戦争の折は新政府軍に与しました。大鳥圭介・土方歳三など旧幕府軍に一度は宇都宮城を奪われますが、後から奪還するなど武勲を建てます。しかし、その後病で22歳の若さで亡くなりました。

最後の藩主であった戸田忠友は佐幕派であり、15代将軍徳川慶喜の助命嘆願を行なうために上洛を試みます。しかし、道中で足止めをくらったまま時間が過ぎ、宇都宮での戦いに参加できませんでした。ちなみに、戊辰戦争中に起こった宇都宮の戦いでは宇都宮の城下町が戦場となり、宇都宮城と城下町の建物の8割以上が焼失するという被害を受けました。

明治になると、戸田忠友は子爵に任ぜられ、神職についたり故郷に学校を設立する資金をだしたりするなどして、78年の障害を全うしました。

宇都宮藩まとめ

宇都宮藩は複数の家が8代将軍吉宗の頃まで短期間ずつ治めたため、城主ごとに目立ったエピソードはほとんどありません。その代わり、仇討ちなどの事件が複数回起きており、つり天井の話しはイギリスにまで伝わっています。農業は発展しませんでしたが石切などの産業があったため、早くから貨幣経済が浸透していたとも言われています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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