田辺城の戦い教養は身を助く?細川幽斎の才覚
田辺城の戦い
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慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの前哨戦として丹後田辺城(京都府舞鶴市)で戦いが起こりました。「田辺城の戦い」と呼ばれるこの戦いでは西軍1万5000に対し、東軍方の細川幽斎(細川藤孝)が500名と共に籠城。細川方に圧倒的不利な戦いでしたが、当代一の文化人として知られた幽斎の才覚が天皇を動かし、西軍には敗れたものの幽斎は無事に脱出。1万5000の兵を田辺城に留めたことは関ヶ原での本戦に大きな影響を与えました。今回はそんな田辺城の戦いについて分かりやすく解説します。
関ヶ原の戦いとは?
田辺城の戦いの説明に入る前に、関ヶ原の戦いについて簡単に解説しておきます。織田信長の次に政権の担い手となった豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に没した後、跡を継いだのは6歳の豊臣秀頼。このため実際の政権の運営は豊臣家の家臣と有力大名たちの合議制で、「五大老・五奉行」によりおこなわれていました。
このうち重要な政務を決定する「五大老」は徳川家康、毛利輝元、前田利家(利家の死後は息子の利長)、宇喜多秀家、上杉景勝の5名。一方で実務を担当する「五奉行」は石田三成、浅野長政、長束正家、前田玄以、増田長盛の5名で、行政、司法、財政、宗教、土木をそれぞれ担当していました。
豊臣政権では加藤清正や福島正則といった軍事関係を担当する武断派と、石田三成をはじめとした政務を担当する文治派が対立していましたが、それをうまく利用したのが五大老の筆頭・徳川家康で、禁止されていた大名同士の結婚を勝手におこない、武断派と次々と縁戚関係になり勢力を増していきます。それに対抗していたのが石田三成。両派閥の仲裁役を担っていた前田利家が没した後、家康が実権を握ってからは両派閥の対立はさらに激化していきます。
さらに家康は秀吉の遺言に逆らい、大阪の西の丸に勝手に転居。独断で大名に加増や転封をおこないはじめます。さらに会津120万石の上杉景勝に謀反の疑いをかけて上杉征伐(会津征伐)を実施します。
一方の三成はといえば、家康を倒して豊臣氏の政権を守ろうと挙兵。家康と対立する五大老の毛利輝元を旗印に反家康連合を組んで西軍を組織し、7月19日に大坂城から出陣して伏見城を攻撃します(伏見城の戦い)。さらに美濃国(岐阜県)・伊勢国(三重県)に侵攻しました。
これを受けた家康は上杉征伐から取って返し、江戸城にしばらくとどまった後に西に向かいます。そして9月15日に東軍と西軍は関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で激突。6時間の戦いの結果、東軍が勝利するのです。
田辺城の戦い①キーパーソン・細川幽斎とは?
関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる田辺城の戦いが起こったのは慶長5年7月19日から9月13日まででした。田辺城を守るのは細川幽斎。足利義輝・義昭の両将軍に仕えた後、織田信長のもとで丹後11万石の大名として活躍。明智光秀の盟友としても知られており、嫡男・忠興は光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚しています。
そんな幽斎ですが本能寺の変の後は光秀に味方せず、玉を幽閉し、光秀からの使者も追い返し、信長を弔うためとして剃髪・出家した上で田辺城に隠居しています。このとき息子の忠興に家督を譲るとともに「幽斎」という雅号を名乗りました。この対応が功を奏し、本能寺の変後も処罰されることなく豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍方につくという、時代の流れにうまく乗り続けました。
また、幽斎は当代一の文化人としても知られており、和歌や連歌、茶道、蹴鞠を極め、能楽や囲碁についても造詣が深かったようです。しかも剣聖・塚原卜伝に剣を習い、弓術は日置流の印可に加え、弓術・馬術・礼法を組み合わせた「武田流」の印可も得ている、文武両道の人物でした。
なかでも注目したいのが、三条西家に大体伝わる古今伝授(「古今和歌集」の解釈などを秘伝として口伝で伝えたもの)を三条西公枝から受けていたこと。本来なら三条西家内で引き継ぐべきものですが、公枝の息子がまだ幼かったことから「絶対に他人に伝えず、三条西家が断絶した場合は責任をもって伝え返す」ことを条件に伝授されています。これが田辺城の戦いで大きく響くことになります。
田辺城の戦い②東軍についた細川氏
細川幽斎の隠居後、後を継いだ細川忠興は豊臣秀吉の傘下で小牧長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍しています。そんな忠興に訪れたピンチが、文禄4年(1595年)に起きた豊臣秀次の切腹事件。秀次は秀吉の後を継いで天正19年(1591)に関白に就任していましたが、突然謀反の疑いがかけられたのです。しかもその後秀次は高野山で出家した後切腹し、側室や子供たちは連座により斬首されています。
実は忠興は秀次に黄金200枚の借金をしており、さらに娘を秀次に仕えていた前野景定に嫁がせていました。このため、切腹事件に際し秀吉やその意をくんだ石田三成から疑われるはめに。
その時忠興を助けてうまくとりなしたのが徳川家康で、金子を用立てたのも家康だと言われています。このため忠興は家康と親交を深めていくとともに、三成と対立していくことになります。慶長4年(1599)閏3月、前田利家が没したことで起きた石田三成襲撃事件にも忠興は参加しています。こうした背景もあり、細川氏は家康の上杉討伐に参加し、関ヶ原の戦いの際もいち早く家康の東軍方についたのです。
このとき幽斎は宮津城(京都府宮津城)におり、妻の玉は大阪にいました。三成の勢力範囲内に父と妻がいたわけですから、忠興がどうするのかは豊臣恩顧の大名たちから注視されており、忠興が家康についたことは他の大名に影響を与えたと言われています。
ちなみに妻の玉はこの時壮絶な最期を遂げています。三成の挙兵前夜、玉は大阪の細川屋敷にいましたが三成が人質にとろうと攻めてきたことで、自ら命を放棄することを決意しました。キリスト教に改宗し「ガラシャ」の洗礼名を持っていた玉は、キリスト教により自殺を禁じられていたため、家老の小笠原秀清の介錯により死亡。秀清は屋敷に火をかけて自害しています。
田辺城の戦い③籠城戦の開始
反徳川家康を掲げて挙兵した石田三成は、まずは近畿にいる家康方についた武将たちを討伐するため城攻めをおこないます。そのひとつが細川幽斎の守る田辺城で、西軍方についた福知山城主・小野木重次や五奉行の前田玄以の息子で亀岡城主の前田茂勝をはじめとした1万5000の兵が城を包囲しました。一方の幽斎は7月17日まで宮津城にいましたが、三刀谷孝和が三成の手先となって130名を引き連れて城下町の屋敷に入ったことを知らされると、即座に宮津城を焼き払って舟で田辺城に戻り、武具や弾薬を田辺城に集めて籠城の準備を進めます。
そうこうしているうちに三刀谷孝和が田辺城に合流。実は孝和は亡き父の「家康に従え」との遺言や幽斎との関係を重視し、三成でなく幽斎につくことを決めていたのです!こうして孝和が加わり、幽斎は息子の細川幸隆・甥の三淵光行ら500名とともに田辺城に籠城します。この500人のなかには寺関係者や農民や町民なども混じっていました。さらに幽斎の正室・沼田麝香も具足をつけて夫と共に戦ったと伝わっており、細川一族・領民で総力戦に臨んでいたようです。
そして7月19日、いよいよ西軍が田辺城へと攻撃を開始。同じタイミングで伏見城の戦いが行われています。東軍の本軍は江戸で、このとき細川忠興は宇都宮付近にいました。田辺城への援軍は見込めません。
ところが西軍はなかなか田辺城を攻め切れませんでした。理由としては、文化人だった幽斎のもとで学んだ武将たちが西軍におり、師匠を攻めることに消極的だったからと言われています。銃撃戦が繰り広げられましたが、一説によれば弾を込めずに空砲を鳴らし、攻撃している体をとった武将もいたようです。
田辺城の戦い④「古今伝授」を守るために天皇が勅命!
そうこうしているなか、朝廷が細川幽斎を助けようと動きだします。幽斎の死により古今伝授が断絶することを恐れたためです。実は関ヶ原の戦いの前の慶長5年(1600年)3月から、幽斎は弟子の一人であり、後陽成天皇の兄弟にあたる八条宮智仁親王に対して古今伝授の継承をスタートさせていました。ところが関ヶ原の戦いの直前、5月29日に戦を準備するためという名目で、古今伝授を途中でストップさせて丹後(舞鶴市)に帰国してしまったのです。
田辺城で幽斎が討ち死にすると古今伝授は失われてしまう…!後陽成天皇も智仁親王もさぞかし焦ったことでしょう。7月27日、幽斎に使者を送って西軍と和睦・開城を勧めます。ところが幽斎はこれを拒絶し、7月29日付で古今伝授の箱と相伝証明状を親王宛に送るとともに、『源氏抄』を献上しました。また、この時朝廷に対し『二十一代和歌集』も進上しています。その際に詠まれた歌が、幽斎の代表作として知られる「古へ(いにしへ)も今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉」です。
この歌の解釈については諸説ありますが、そのまま訳すと「昔も今も変わらない世の中に、和歌は人の心の中のさまざまな思い(心の種)を残す素晴らしいものです」。一説によれば、古今伝授により和歌の道を残しておきたいので古今伝授の箱をお送りいたします、どうか後々までお伝えください、という意味を含んでいると言われています。
そして幽斎は断固として籠城を続けることを宣言。こうした幽斎の動きに対し、親王や天皇は何としても幽斎を救わねば、と和睦のために動き始めます。このあたり、信長の死後うまく立ち回り豊臣秀吉・徳川家康と権力の主流とともにあり続けた幽斎の知略が見えます。ここで朝廷が「古今伝授の資料を得たからもういい」と幽斎を見捨てたらアウトでしょう。幽斎は自らの価値を踏まえ、巧みなパフォーマンスで天皇家を動かしたのです。
天皇は三条西実条中院通勝、烏丸光広を「勅使」として田辺城に派遣します(※諸説あり)。そして西軍に対し「もし幽斎がここで死んでしまえば古今伝授は永遠に途絶えてしまう。城の囲みをとくように」と勅命を出して講和を命じます。こうして西軍は城の囲みをとかざるを得ませんでした。さらに勅使は城に入って幽斎に降伏するよう説得します。この時、西軍の前田茂勝も使者として参加しました。
田辺城の戦い⑤ただでは負けない!幽斎の策略
度重なる天皇の要請により、細川幽斎は降伏・開城を決意します。が、ただ降伏するのではなく、ここで西軍に条件を付けました。田辺城を明け渡した後、城を軍事利用しないように誓約させるとともに、自分は西軍に拘束されるのではなく、前田茂勝に個人的に預けられ、茂勝の丹波亀山城(京都府亀岡市)に移動するというものでした。こうして9月13日に田辺城は開城(※諸説あり)します。
さて、9月13日といえば徳川家康ら東軍本隊が岐阜城に到着した日。その後、東軍・西軍共に決戦の地・関ヶ原に布陣し、9月15日午前中には関ヶ原の戦いが始まり、およそ6時間で決着を迎えています。この戦いに田辺城を包囲していた西軍1万5000人は間に合いませんでした。田辺城に西軍の勢力を釘付けにした幽斎は、結果として東軍の勝利に貢献したことになります。
ちなみに息子の細川忠興は、関ヶ原の合戦で2000の兵を率い、黒田長政とともに石田三成隊と戦って首級を挙げる活躍を見せています。
田辺城の戦い後の細川氏
関ヶ原の戦いの後、細川忠興は田辺城を落とされた復讐とばかりに、家康に亀山城と福知山城を攻める許可を得た上で進軍。愛妻家だった忠興はガラシャが自害させられた怒りを西軍残党にぶつけていたのでしょうか。
とはいえ、亀山城の前田茂勝については客人扱いされていた細川幽斎のとりなしもあり、攻め滅ぼしませんでした。茂勝は積極的に西軍に参加したわけではないこと、田辺城開城の際の働きなどが評価され、後に丹波亀山5万石を安堵されています。
さて、忠興と幽斎ですが、実はこの時点で関係が悪化しています。忠興は勅命とはいえ田辺城を明け渡したことに怒りを感じていたようです。もう少し耐えれば関ヶ原の戦いで東軍が勝ち、田辺城も西軍方に落ちることがなかったのですから、幽斎に怒りを感じたのかもしれません。幽斎も2ヶ月頑張ったんですけどね…。
一方、忠興は福知山城に撤退していた小野木重勝については徹底的に攻めました。このとき先鋒を務めたのは亀山城からつき従った茂勝でした。福知山城の戦いは約2ヶ月続き、結局他の武将による仲裁で小野木重勝の出家を条件に城は開城。ところが忠興は重勝を許せず捕まえて最終的に切腹させた(※異説あり)そうです。
その後、忠興は徳川家康による関ヶ原の戦いの論功行賞により、丹後国11万石・豊後杵築(大分県杵築市)5万石の16万石から、豊前(福岡・大分県)33.9万石を加増されて39.9万石の大名に出世。小倉藩の初代藩主になりました。一方幽斎は京に残り、文化人として悠々自適な生活を送りました。なお、八条宮智仁親王に対しては古今伝授の残りを実施しています。そして慶長15年(1610年)8月20日、京都の自邸で77年の生涯を閉じるのでした。
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- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。