赤穂事件『忠臣蔵』の元になった赤穂四十七士の仇討ち事件
赤穂事件
年末年始恒例のテレビドラマといえば『忠臣蔵』。主君の無念を晴らすため、仇討ちに立ち上がった大石内蔵助ら四十七士のストーリーはテレビのみならず映画や小説、歌舞伎や演劇などにもなっています。そんな『忠臣蔵』のもとになったのが、元禄14年(1701年)3月14日の江戸城・松の廊下での刃傷沙汰から元禄15年12月14日(1703年1月30日)の47人の浪士たちによる吉良上野介討ち入りまでを指す「赤穂事件」です。今回はそんな赤穂事件について分かりやすく解説します。
赤穂事件①江戸城・松の廊下で刃傷沙汰!
赤穂事件の発端となったのが、元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭こと浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介こと吉良義央に斬りかかった「松之廊下刃傷事件」です。時は江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の時代。この日は京からやってきた勅使・院使に対して綱吉が挨拶する日で、勅使をもてなす準備がされていました。
この勅使に対する御馳走役が浅野内匠頭、当時35歳。赤穂藩(現兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)の藩主を務めていました。一方吉良上野介は「高家」と呼ばれる幕府で儀式・典礼関係をつかさどる役職についており、そのなかでも筆頭格の「高家肝煎」の一人で61歳。上野介は内匠頭の上司で、饗応の指導役を務めていました。
事件の概要は以下の通り。松の廊下で上野介が梶川与惣兵衛と話していたところ、内匠頭がうしろから「この間の遺恨おぼえたるか」と声をかけて(または何かしらの声をかけて)小さな刀で斬りかかります。上野介の肩先を斬りつけてさらに斬りかかったところ、上野介が振り返ったために刀は眉の上にあたります。上野介は驚いて逃げますが、内匠頭はさらに2回斬りつけました。
その後、内匠頭は梶川与惣兵衛に組みつかれ、加えて異変を察知した周囲の人々に取り押さえられました。「殿中でござる!」のセリフはドラマや映画で有名ですよね。
赤穂事件②浅野内匠頭はなぜ吉良上野介に切りかかったのか
松之廊下刃傷事件はなぜ起きたのでしょうか?目付・多門伝八郎の『多門伝八郎覚書』(※信ぴょう性に欠ける、という説もあり)によれば、取り調べに対し吉良上野介は「心当たりはない、浅野内匠頭の乱心ではないか」と答えています。一方の浅野内匠頭は取り調べの際に「乱心ではない」としたうえで原因は「私の遺恨」と説明。「討ち損じたのはとても残念だ」と話していたそうです。
取り調べの際、内匠頭は事件を起こした理由を「遺恨」以外語っていません。それどころか当時の度の史料を見てもはっきりとした理由は語られていないのです。そこで事件の原因についてさまざまな説がささやかれることになりました。ここでは主な説を紹介します。
吉良上野介は嫌われていた?
まずは吉良上野介側に原因があったという説。吉良上野介が、饗応の教えを乞いにきた浅野内匠頭から賄賂を貰えなかった(または量は少なかった)ため、腹を立てて内匠頭にきつく当たった、饗応に際し十分に指示を与えなかった、というもの。ただし、当時は教えを乞う際に当たり前のように賄賂を渡す慣習があったので、内匠頭が賄賂を贈らなかったのだとしたら内匠頭サイドの失策と言えるかもしれません。
賄賂に関係なく、ケチで性格が悪かった上野介が内匠頭に対しパワハラをしたという説もあります。上野介については事件発生の数日後に書かれた武士の日記などに「横柄で欲深い人物」と記述があり、人間的に問題があったようです。もっとも領地では名君として慕われていたようなので、こうした記述に「何にもない人間がいきなり襲われるはずがない」というバイアスがかかっていた可能性は否めません。
ちなみに四十七士の一人が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』では「武士道立たざる様に至極悪口致され候」が要因だったとされています。
浅野内匠頭は病気だった?
浅野内匠頭側に原因があったという説では、ストレス説がささやかれています。勅使の御馳走役は藩をあげての総力戦で、接待費は藩から持ち出し。典礼の詳細は上野介が細かく指図してくる。しかももともとかんしゃく持ちだった内匠頭は、体と心のストレスが限界になり突如爆発。朝廷の使者を饗応する重要な日にも関わらず、乱心して突然斬りかかってしまったという説です。
もともと内匠頭は胸部などに強い圧迫感を覚える「痞(つかえ)」という持病があり、事件の3日前に侍医が薬を調合しています。現代の精神科医の分析によれば内匠頭は統合失調症や強迫性障害だったのでは、という説も出されています。一方で痞は肝臓や消化器に関する病気であり、精神疾患とみるのは無理がある、という反論もあり、現在は反論が優勢です。このほか浅野内匠頭の叔父が芝増上寺で乱心による刃傷事件を起こしているのでそういう「血筋」なのではという説もあります。
赤穂事件③浅野内匠頭は切腹、赤穂藩は改易
さて、松之廊下刃傷事件を受けた幕府はどう動いたかというと、浅野内匠頭は饗応役を首になり、即日切腹を申しつけられ、事件が起きた夕方頃には預けられていた陸奥一関藩主の田村建顕の庭先で切腹しました。その日のうちに大名が切腹するというのは異例のことです。
当時綱吉は母の桂昌院に官位を貰おうと朝廷との関係を強化しており、事件の日にはそのために勅使を接待していました。綱吉としては自分ばかりか敬愛する母の顔にまで泥を塗られた気分になり、内匠頭への怒りを抑えきれなかったのかもしれません。
切腹を告げられた内匠頭は、屈辱的な「打ち首」ではなかったことに謝意を表し切腹に臨みました。遺体は浅野家の家臣たちが引き取り、菩提寺の泉岳寺(東京都港区)にひっそりと埋葬されました。
さらに幕府は赤穂藩を改易。浅野家に仕えていた武士たちは路頭に迷うことになってしまったのです。江戸藩邸から藩士たちは引き上げ、播州赤穂の赤穂城(兵庫県赤穂市)にも早駕籠が出され、3月19日には内匠頭の切腹と改易が赤穂城の家臣たちに伝わっています。
筆頭家老の大石内蔵助(大石良雄)は残務整理をしながらも城の引き渡しをどうするのか家中で議論します。開城するか、抗議の意を表すために籠城するか、むしろ城の前で切腹して内匠頭に殉ずるか。激論の結果、主君の弟である浅野大学(浅野長広)が存命であること、お家再興の可能性があることから4月19日、穏便に城を明け渡しました。
赤穂事件④吉良上野介は「おとがめなし」も引っ越し
一方の吉良上野介といえば、特におとがめなしでした。そればかりか事件の当日に徳川綱吉からお見舞いの言葉をかけられています。これに納得しなかったのが浅野内匠頭サイド。「喧嘩両成敗なら上野介に何らかの罰則があってしかるべきではないのか」というわけです。
ところが、この「喧嘩両成敗」というのは互いが抜刀して刃傷沙汰になった際双方を罰するというもの。幕府は上野介が刀を抜かず、内匠頭に抵抗せずに逃げたことから完全に被害者としてみなしたわけです。
ところが世論はそう簡単には納得しません。「重要な儀式の最中に斬りかかられるほど悪いことをしたのでは」とささやかれ、上野介は肩身を狭い思いをします。しかも喧嘩を売られて戦わずに逃げたわけですから「武士の恥さらし」と批判する人もいたでしょう。仇討ちを期待する声も上がっていたようです。
このため上野介は高家肝煎を退職。幕府から本所(東京都墨田区)の屋敷に屋敷替え、つまり引っ越しを命じられました。理由は定かではありませんが、江戸では「幕府が仇討ちさせるために上野介を郊外に引っ越させた」という噂が流れたそうです。
また、上野介は12月には隠居して養嗣子の吉良左兵衛(義周)に家督を相続させています。隠居すれば江戸に居なくても問題ないですし、隠れることも可能です。上野介としても仇討ちを警戒していたのでしょう。
赤穂事件⑤討ち入りするか否か?大石内蔵助の苦悩
一方で浅野家はといえば、江戸急進派と上方漸進派に真っ二つに割れていました。仇討ちを主張した急進派は江戸屋敷にいた堀部安兵衛たちで、喧嘩両成敗の原則があるのに主君は死んだが相手が生きている、これを放置したら武士の恥、という考えがあったようです。
この急進派を止め続けたのが大石内蔵助ら上方漸進派でした。その理由は浅野大学による浅野家再興の可能性があったから。幕府は大学を「閉門」処分、つまり門や窓をふさいで外出を禁じはしたものの、旗本の身分はそのままにしていました。このため閉門がとければお家再興の可能性があったのです。
転機が訪れたのは元禄15年(1702年)7月18日。浅野大学は本家の広島藩浅野家預かりになり、事実上お家再興は不可能になりました。ここで内蔵助は討ち入り積極派に転身。本心では討ち入りに賛同していたものの、家を守る可能性を最後まで探し続けていたのでしょうか。
その後、内蔵助は仇討ちに賛成したものから取った神文(誓約書)を「仇討ちをやめる」といって本人に返し、抵抗したものを討ち入りのメンバーにする「神文返し」を実施。強い志のあるものを選別した結果、120人余りいたメンバーは50人余りまで減少。さらに討ち入りの三日前までに3人が姿を消し、同志は47名となりました。
事件から1年以上もたち、生活資金も底をつき始める中、赤穂浪士達には一刻の猶予もありませんでした。討ち入り日を早く決めなければ…そんななか12月14日に吉良上野介が茶会を開くとの情報が入ります。茶会のために確実に家にいる日、それが仇討の日に決まりました。
赤穂事件⑥吉良邸へいざ討ち入り!
元禄15年12月14日、いよいよ討ち入りです。午前3、4時頃に拠点を出発した一行は2つの部隊に分かれて吉良邸に討ち入ります。ちなみに現在の暦上はすでに12月15日ですが、当時は日の出で日付が変わるためまだ14日です。
大石内蔵助率いる表門部隊と内蔵助の息子・大石主税(良金)率いる裏門部隊が一斉に吉良邸に攻め入ります。吉良邸には討ち入りを恐れて100名程度の家来が警戒していた(無警戒だったという説も)ものの、浪士たちは「火事だ」と叫んで現場を混乱させる陽動作戦を展開。家来のいる長屋を閉鎖して戦力を低下させ、宿敵・吉良上野介の姿を探します。
寝室の布団がまだ温かかったことから付近にいる。そう考えて浪士たちが邸宅内を探し回った結果、台所の裏の部屋に潜んでいた白小袖の老人を発見。間十次郎が槍で突き、武林唯七が刀で斬りかかり絶命させました。この老人こそ吉良上野介本人でした。こうして討ち入りは約2~3時間ほどで終結。四十七士たちは仇討ちを無事に終えたのでした。
討ち入りを終えた浪士たちは午後6時ころに浅野内匠頭の墓がある泉岳寺まで移動。主君の墓前に吉良の首を備えて仇討ちを報告します。首は後に泉岳寺経由で吉良家に戻されています。
なお、四十七人は全員が泉岳寺に向かったわけではありません。吉田忠左衛門と富森助右衛門は途中で一行を離れて幕府の大目付に仇討ちの報告をしにいきました。また、寺坂吉右衛門もいつのまにか姿が消えていました。いなくなった理由は定かではなく、広島浅野本家に報告に行くという密命を受けていたとも、討ち入り直前に逃げたとも言われています。
赤穂事件⑦討ち入り後の浪士たちはどうなる?
大目付から討ち入りの連絡をうけた幕府は、処分が決定するまで浪士を熊本藩細川家・三河岡崎藩水野家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家の四大名家に分けて預けました。大名家により志士たちの待遇はかなり異なり、大石内蔵助ら17人が預けられた細川家は志士たちをもてなし、助命嘆願までしています。一方他の3家は罪人として扱ったため、江戸の庶民からは非難されたようです。
その後、幕府は赤穂浪士たちの扱いを慎重に検討していました。江戸市民たちは仇討ちを歓迎し、武士たちからも称賛の声があがるなか、無罪にすべきか、忠義と法律違反は厳密に区別して対処すべきか…。
2ヶ月余りの審議の結果、徳川綱吉は浪士たちの処罰を決定。法で決まった処分内容に対して計画的に軍事行動を起こしたわけですから、「文治主義」の綱吉としては法律違反で処罰するべきと考えたようです。
結局幕府は「主人の仇討ちをするのだと申し立てて徒党を組んで吉良邸に押し込み、吉良上野介を討ったことは幕府を恐れない非常に不届き千万なこと」として、赤穂浪士らに切腹を申しつけました。そして2月4日、浪士達はそれぞれが預けられていた大名屋敷で切腹。遺体は主君と同じ泉岳寺に埋葬されました。
赤穂事件のその後
赤穂事件でとばっちりをくらったのが吉良上野介の跡を継いだ吉良左兵衛。討ち入りの際に奮戦して重傷を負ったにもかかわらず、後に幕府からは「仕方不届」、つまり討ち入りの際の対応が駄目だったというよくわからない理由で領地を没収され、信州高島藩主の諏訪忠虎にお預けとされました。
そして諏訪高島城に幽閉されたあげく、宝永3年(1706年)に21歳の若さで亡くなっています。世論に押された幕府が「喧嘩両成敗」対応をいまさらして、スケープゴートとして左兵衛を祀り上げたということなのでしょうか、あまりにも不憫です。
一方、浅野大学はといえば宝永6年(1709年)8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、翌年9月には安房国(千葉県南部)に2郡500石の所領を与えられて旗本に復帰。こうして赤穂浅野家はお家再興を果たしたのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。