清洲同盟織田信長と徳川家康、約20年続いた同盟

清洲同盟

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事件簿
事件名
清洲同盟(1562年)
場所
愛知県
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清洲城

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織田信長と徳川家康は乱世の戦国時代にもかかわらず、長きにわたって良好な関係を築いていたことで知られています。その象徴ともいえるのが、永禄5年(1562年)に両者の間で締結された「清洲同盟」です。織徳同盟ともよばれるこの同盟は、戦国時代には珍しいことに、信長が本能寺の変で死ぬまで20年にわたって続きました。そんな清洲同盟とはいったいどんなものだったのか。そもそもどうして信長と家康は同盟を結んだのか。詳しくみていきます。

信長と家康の関係は「幼馴染」

戦国時代の代表的な人物である織田信長と徳川家康。そんな二人は子供の頃からの知り合い、いわば幼馴染のような関係だったと言われています。家康は天文11年(1543年)12月26日、岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれました。松平氏は三河国(現愛知県中・東部)の土豪で、当時は今川義元の家臣だったので織田家とは敵対していました。天文14年(1545年)、信長の父・織田信秀が三河国に侵攻してきたため今川氏に助力を願い出ますが、この際、今川氏から人質を出すように要請されます。このため家康(当時は竹千代)は人質として駿府(静岡県中部)に送られることになりました。ところが途中に立ち寄った田原城(愛知県田原市)で家臣の裏切りにあい、その結果家康は敵の信秀の元に送られてしまいます。

息子を人質に取られた松平広忠でしたが、織田氏に下ることなく今川氏に仕え続けました。また、近年では実は広忠は織田氏に降伏しており、人質として家康を差し出したという説も出てきています。家康は約2年に渡り、尾張国・熱田(愛知県名古屋市熱田区)にある加藤順盛の屋敷で生活。この時、家康は少年時代の織田信長と出会い、幼馴染として過ごしたという話が伝わっています。まだ若い二人ですから、当時の史料などによるはっきりとした証拠は残されていませんが、順盛と信秀の間に交流があったことは明らかですし、二人が顔を合わせる機会はあったことでしょう。

その後、家康は天文18年(1549年)、三河国の安祥城(愛知県安城市)を守護していた織田信長の異母兄・織田信広が今川軍に敗れて捕虜となったことをうけ、信広と人質交換という形で駿府に移動。天文24年(1555年)に駿府で元服し、今川義元の姪にあたる瀬名(後の築山殿)を娶ります。こうして家康(当時は元康)は義元の配下として暮らしていくことになります。

桶狭間の戦いを契機に家康が独立

天文21年(1552年)(天文20年説など諸説あり)、今川義元と三河を争っていた織田信秀が死亡し、跡目争いを制した織田信長が跡を継ぎました。その直後から信長と義元との小競り合いが勃発。そして永禄3年(1560年)5月、信長と義元が激突する桶狭間の戦いが起こります。

ちなみにこの際、徳川家康は今川軍の先発隊として戦に参加し、今川軍の一大拠点・大高城(愛知県名古屋市緑区)に兵糧を運び込むという大役を果たしています。ただし家康は5月19日の決戦には参加しておらず、大高城の守りについていました。義元が討たれたことを夕方に知った家康は急いで三河に逃げ延びます。途中、菩提寺である大樹寺に到着した際は自害も考えたようですが、部下に諫められて取りやめました。そして、今川軍が岡崎城から撤退したことを受け、5月23日、約10年半ぶりに本拠地であり、生誕の地でもある岡崎城(愛知県岡崎市)に入城します。

その後、家康は岡崎城を拠点に西三河制圧に動き出します。さらには東三河にも手を伸ばし、義元の後を継いだ今川氏真と敵対していきます。こうしたなか、家康は東の遠江国(静岡県西部)・駿河国を治める今川氏と戦って三河を得るために、西の隣国・尾張国の信長と手を結ぶことを決意します。一方、信長としても美濃(岐阜県)方面への進出を考えており、斎藤氏と交戦中だったため、家康とは敵対したくないところ。こうして以前は敵対していた両者は同盟を締結することになったのです。

「清洲同盟」の名称は誤り?同盟が結ばれたのはいつ?

清洲同盟がいつ結ばれたのかについてはさまざまな説があります。これまでの通説によれば、桶狭間の戦い後、徳川家康は織田信長としばらく戦った後、今川氏真と共に織田氏と敵対するも、氏康が動かないことに失望。信長側の申し出を受けて和睦を決め、永禄5年(1562年)に信長と家康が清洲城(愛知県清須市)で会見し、両者の領土協定を含む攻守同盟が締結します。結んだ場所にちなみ、同盟は「清洲同盟」と呼ばれています。

ところが現在では、この通説を否定する説が有力視されています。それが「清洲城での会見はなかった」「攻守同盟はなかった」という説です。理由としては、清洲城での会見や同盟について、『信長公記』『三河物語』『松平記』といった信ぴょう性が高いとされる史料に記述がないためです。さらに、永禄5年といえば、家康が東三河で今川氏と戦っている最中。そんな時期にわざわざ信長のいる清洲城まで行く暇はないはずです。こうした論拠から清洲城での会見は江戸時代に入ってからの軍記物などによる架空のストーリーであるとみなされています。

また、攻守同盟については、家康が信長に援軍を送ったのが約7年後の永禄11年(1568年)9月の信長上洛の時までないこと、それまでは信長も家康もそれぞれの利益に基づき別々の動きをしていることなどから、攻守同盟はなかったという説が有力。領土の境界線を決定し、相互不可侵にする内容のものだったのではと推察されています。そもそも同盟自体が江戸時代に入ってから徳川幕府が創作したものだった、という説まであります。

また、清洲同盟が結ばれた時期についても通説以外に諸説あります。

(1)永禄4年(1561年)2月に家康の伯父・水野信元が仲介し、締結される
→同年4月から西三河で徳川氏と今川氏との戦が始まっており、家康としては信長と和睦しない状態ではこうした戦いができないことから
(2)桶狭間の戦い直後、永禄3年(1560年)中に締結
→桶狭間の戦いの後に家康が織田氏と争っていたという説は誤りであり、すぐに今川氏と敵対していた、という説に基づくもの

家康がいつ今川氏から独立・敵対していたのかにより、大きく2つの説に分かれているようです。

その後、永禄6年(1563年)3月には家康の嫡男・竹千代(松平信康)と信長の娘・五徳(徳姫)が婚約を結び、両者の結びつきをさらに強めています。ちなみにこの2人は永禄10年(1567年)に結婚。当初は夫婦仲が良かったようですが、果たして…?

対等な同盟から信長有利の同盟へ

清洲同盟を結んだ当初、織田信長と徳川家康は対等な立場にありました。ところがこの対等な関係は徐々に崩れていきます。時代が下るにつれ、信長の勢力は大きく拡大。一方の家康といえば、三河国は統一しましたが、元亀3年12月(1573年1月)の「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に惨敗して大打撃を受けています。そんな中、元亀4年(1573年)7月に信長は足利義昭を京から追放し、室町幕府は事実上滅亡します。この追放劇により信長の権力はさらに拡大していきます。

信長と家康の関係を当時の書状のやり取りから考察すると、両者の関係が崩れたのは天正2年(1574年)前後だったようで、そのころには家康は信長の配下になっています。『信長公記』によれば天正3年(1575年)5月の「長篠の戦い(信長・家康VS武田)」では、信長は家康に援軍を派遣していますが、その際、家康が「国衆」すなわち信長の領国内の領主としてみなされていたとの記述があります。信長が部下を助けたということで、この時点では信長と家康との間に主従関係が生まれていたことがわかります。

同盟破棄の危機?信康事件

家康が信長の元に下ったとはいえ比較的穏便に続いていた清洲同盟ですが、大きな危機が訪れます。それが天正7年(1579年)に起きた「信康事件」と呼ばれる、徳川家康の妻・築山殿の処罰と嫡男・松平信康の切腹事件です。『三河物語』などによれば、当時信康と徳姫の仲はあまりよいものではありませんでした。原因としては徳姫が生んだ子供が2人続けて女児だったことで信康がそれを非難したからとも、信康の性格が荒々しく残虐で徳姫が嫌ったからとも言われています。また、築山殿が息子と嫁の仲を裂こうとしていたことも一因だったとか。二人の関係を危惧した家康が、仲を改善しようと岡崎城を訪問したことが当時の史料(日記)からも分かっています。

そうした状況下で徳姫は信長に対し、信康の不行跡を記した十二か条からなる手紙を送ります。手紙には信康が鷹狩の際に僧侶を縊り殺したり、踊りの下手な踊り子を弓矢で殺したりといった、目に余る乱暴なふるまいをしていることが記されていました。

信長は築山殿に激怒するとともに、手紙を託された使者の酒井忠次に信康の行状について質問。忠次は信康をかばわず十か条まで肯定したことから、信長は「そういう状態では先が思いやられる」と家康に息子の切腹を命じたというものです。

これを受けた家康は天正7年8月3日に岡崎城を訪問します。その際信康と激しい口論があったようですが、翌日信康は大浜城(愛知県碧海市)に移されます。8月9日には堀江城(静岡県西区)に、その後は二俣城(静岡県浜松市天竜区)に移動。9月15日、家康はついに信康に切腹を命じます。こうして信康は21歳の若さでこの世を去るのでした。なお、築山殿は8月29日時点で家康の家臣に殺害されています。

以上が通説として広く知られている内容です。なぜ築山殿が出てくるの?と思う方もいらっしゃるかと思いますが、築山殿は今川義元の重臣の娘で義元の姪にあたります。家康は今川氏と決別していたことから、築山殿は家康の正室とは言え家中での扱いは良くなかったようです。そもそも正室にもかかかわらず、家康のいる本拠地の浜松城でなく、信康とともに岡崎城に残されていましたし、家康は次々に側室を迎えています。こうした家康の行動を築山殿は不満に思っていました。その不満が信康と徳姫に向いたとも言われています。

さて、信康事件については、なぜ信康が切腹する羽目になったのかはっきりとわかっていません。その要因としては、以下の3つの説があげられています。

(1)謀反説:築山殿が信康を引き込み、武田側について家康に反逆しようとした、というもの。また、家臣団の対立の結果、岡崎の家臣たちが家康への対抗馬として信康を担ぎ上げ、争った結果敗れたという説もあります。なお、家康は8月10日に岡崎城に家臣たちを集めて、今後信康と関わらないよう誓わせるとともに、岡崎城に直属の兵を置いて謀反を防止しており、この家康の行動が謀反説の論拠の1つとなっています。

(2)謀略説:武田氏が「信康が裏切った」という説を流し、家康と信康の仲を壊そうとしたというもの。徳川氏に対して武田氏が仕組んだ計略だったというわけです。

(3)冤罪説:酒井忠次の讒言、または信長が息子の織田信忠と信康を比較し、信康の台頭を恐れて今のうちに排除しておこうと思ったというもの。

近年では嫡子の切腹という結果まで発展したことも踏まえ、謀反説が有力視されています。

清洲同盟の終焉~本能寺の変

その後、徳川家康は織田信長に家臣として仕え続けます。1582年(天正10年)、信長は甲州征伐を実施し、ついに武田氏を滅ぼしました。この際徳川家康は穴山信君を調略し、駿河制圧に成功しています。この恩賞として、家康は駿河一国を手に入れました。

そして同年5月15日、家康は駿河国を得たお礼を述べるため、信長のいる安土城を訪ねます。そして明智光秀の饗応を受けた後、少人数のお供を連れて堺(大阪府)を遊覧していました。そんななか、6月2日に京で本能寺の変が発生し、信長が討たれます。こうして清洲同盟は信長の死によって終焉を迎えるのです。

なお、信長の死を知った家康は、わずかな兵しかない状態で光秀に攻められないようにするため、伊賀を通過して急ぎ自国の三河国(静岡県)に戻ります。伊賀の忍者たちの助力による成功した「神君伊賀越え」として知られるこの行動により、家康は生き延びました。その後、豊臣秀吉が光秀を討ちますが、信長が治めていた旧武田領を巡って徳川・上杉・北条の三つ巴の戦「天正壬午の乱」が発生。その結果、家康は甲斐国と信濃国を手にし、既存の領地である三河・遠江、駿河を加えると計5ヶ国を支配するまで勢力を伸ばしました。

その後、秀吉が「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を下して台頭。家康は「小牧・長久手の戦い」で秀吉と対峙します。その後、秀吉が着々と勢力を広げたことなどを受け、天正14年(1586年)、家康は秀吉に臣従を誓いました。その後、家康が天下人になるには、秀吉の死後の慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いまで待つことになります。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。