バテレン追放令秀吉が出したキリスト教制限令

バテレン追放令

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事件簿
事件名
バテレン追放令(1587年)
場所
長崎県
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平戸城

平戸城

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天文18年(1549年)にキリスト教が伝来して以来、日本のキリスト教徒、いわゆるキリシタンたちは数々の弾圧に苦しめられてきました。日本で最初にキリスト教に対し大きな制限をかけたのが、天正15年(1587年)に九州で豊臣秀吉が出した「バテレン(伴天連)追放令」です。それまでは織田信長と同じくキリスト教を容認していた秀吉が、なぜキリスト教の布教を禁止し宣教師たちを追放しようとしたのか。その内容とともにわかりやすく解説します。

バテレン追放令とは

「バテレン追放令」は1587年(天正15年)6月19日、時の天下人・豊臣秀吉が筑前国箱崎(現福岡県福岡市東区)で発令した、キリスト教を規制する文書です。なお、「バテレン」というのはポルトガルのpadre(宣教師・神父)が由来の言葉で、日本におけるキリスト教宣教師たちのことを指します。

バテレン追放令を書いたとされるのは、秀吉の側近中の側近である医師の施薬院全宗。内容は5か条からなる文書で、原本は当時平戸を治めていた、松浦氏の史料を集めた松浦資料博物館(長崎県平戸市)が所蔵する『松浦家文書』内に残されています。加えて、昭和8年(1933年)に伊勢神宮の神宮書庫で見つかった『御朱印師職古格』のなかにある、6月18日に記された『伴天連門徒の儀、その者の心次第』とする「覚(おぼえ)」の11か条(6月18日の覚書)も含まれる場合もあります。この2つの資料は異なる部分があり、現在までさまざまな議論が続けられています。

バテレン追放令はなぜ出されたのか?

そもそも日本におけるキリスト教は、織田信長の時代は容認されていました。信長はキリスト教の布教を認めており、キリスト教徒は九州や畿内などでどんどん増えていきます。これはキリスト教を布教したイエズス会が、キリスト教と南蛮貿易をセットにしてアピールしていたため。信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉も当初はキリスト教を容認しましたが、その背景には南蛮貿易がありました。

そんな秀吉の考えを変えるきっかけとなったのが、天正14年(1586年)7月から翌4月までに秀吉がおこなった、九州平定です。日本全国統一のために、九州統一を目指して秀吉と敵対していた薩摩国(鹿児島県)の島津義久を討つための戦いでしたが、九州を訪れた秀吉はキリスト教に侵食されつつある九州の現状を知り愕然とします。キリスト教徒が急増するばかりか、なんと九州のキリシタン大名達がイエズス会に土地を寄進していたのです。肥前国(佐賀・長崎県)大村領の領主だった大村純忠は長崎などをイエズス会に寄進。肥前国日野江藩(長崎県島原市)の有馬晴信も浦上を寄進しています。日本の土地がイエズス会のものになるということは、いわばキリスト教国による日本の植民地化のようなものでした。

さらにキリスト教徒たちは寺社仏閣などを破壊するなど他宗教を弾圧。キリシタン大名が領民を強制的に改宗させるケースもあったほか、キリスト教徒が日本人を奴隷として海外に輸出しているケースもあったようです。一説によれば5万人の日本人が奴隷として輸出されたとのこと。こうした現状を知り、秀吉は驚くとともに憤ったに違いありません。

バテレン追放令のきっかけ?ガスパール・コエリョ

バテレン追放令のキーマンというべき人物が、ポルトガル出身のイエズス会宣教師・ガスパール・コエリョです。コエリョは日本におけるイエズス会の代表(準管区長)として豊臣秀吉に謁見し、秀吉から布教の許可を得ていた人物で、積極的に政治に介入していました。九州征伐の際も秀吉に軍事的援助を申し出ています。

さらにコエリョは筑前国箱崎に到着した秀吉を、大砲を積み込んだフスタ船に案内。博多湾を巡るとともに「自分ならいつでもスペイン艦隊を動かせるぞ」とスペインの軍事力を誇示しました(※秀吉が勝手に船に乗り込んだ、という説もあり)。これに秀吉は「南蛮が日本を蹂躙するのでは」と警戒を深めました。ちなみに、こうしたコエリョの行動は同時代の宣教師からは日本での布教を妨げるものとして批判されています。

秀吉がバテレン追放令を発令した理由としては、他にもキリシタン大名の団結を恐れたため、キリスト教徒たちが一向一揆衆のように反乱を起こすことを恐れたため、好色な秀吉が女性を得ようとしたところキリスト教徒であることを理由に拒否されたため、など、さまざまな説がありますが、大きな要因の1つは、秀吉がポルトガルやスペインのようなキリスト教国の侵略を恐れたからだといえるでしょう。

なお、バテレン追放令が発令される前、秀吉はコエリョに対し使者を派遣して現状の釈明を求めています。秀吉は3つの問いかけをコエリョにおこないました。イエズス会側の史料などによれば、秀吉は(1)日本人を強制的にキリスト教徒にする理由(2)宣教師が労働力である馬や牛を食べる理由(3)日本人を買ってポルトガルに連れていく理由、について詰問したようです。

ただし、秀吉は3点について詰問するだけでなく、イエズス会側に提案もしています。(1)については、神道や仏教のような穏やかな布教をしない場合は日本から追放する、ただし帰国費用を出すとしており、(2)については野生の豚や鹿の食用を代案として提案。馬や牛の食用禁止を守れない場合は出ていくようとしています。(3)については売られて海外に行った日本人の返還と、現在買い取っている日本人の解放を求め、解放する場合は銀を支払うとしています。

これに対し、コエリョは提案を無視して言い訳じみた回答を行います。(2)については宣教師たちは積極的に食さないし、ポルトガル商人には注意喚起すると許諾しましたが、(1)の布教については強制的な改宗を否定し、各地への布教活動を継続することを強調。(3)については「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が人を売るからだ。我々は人身売買と領民の奴隷への転落を防いでおり、そのおかげで被害は九州だけで収まっている。そちらの各大名による厳重な監視と禁止体制が必要では」と、日本側にも原因があると示唆しつつ他人事のような回答をしました。これに対し、秀吉は怒りを覚えたのか、再度使者を送りだめ押しの質問をしましたが、同じような回答が返ってきました。それを受け、秀吉はバテレン追放令を出したのです。

バテレン追放令の内容とは?

では、実際にバテレン追放令とはどのような内容だったのでしょうか?先にも述べた通り、追放令に関する資料は2種類あります。まずは前日の6月18日に記された『御朱印師職古格』内の覚書について、現代語訳をもとに見ていきたいと思います。

<6月18日の覚>
  • キリスト教徒であることはそのものの心次第であるべきこと。
  • 領地を大名に治めさせているが、彼らが領地内の寺や百姓などに対し、キリスト教を押し付けるのは理不尽なでけしからんこと。
  • 大名に領地を治めさせているのは一時的なことであり、大名が交代しても百姓は変わらない。理不尽なことはあることで、大名がけしからんことを言えば、百姓を意のままにできてしまう。
  • (知行地が)200町、2、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になる場合は公儀(=秀吉)の許可が必要。
  • 知行地がそれ以下のものは仏教の各宗派と同じように、その本人の心次第でよい。
  • キリスト教徒については、一向宗以上に申し合わせていると聞いているが、一向宗はその国郡に寺内町を置き、大名への年貢を納めず、さらに加賀一国については領民を一向宗の門徒にして、国主の富樫氏を追い出し、一向宗の僧侶に加賀を治めさせ、その上に越前国までも取ろうとし、(秀吉が)天下を治める障害になっていることは、隠しようのないことだ。
  • 本願寺門徒の僧侶には、天満の地に寺を置くことを許しているが、一向宗のことは以前から許していない。
  • 国郡や領地をもつ大名が、家臣達にキリスト教を押し付けることは、本願寺の門徒が寺領を置くことよりもありえないこと。天下を治める障害となるので、そういう分別のない者は処罰できるようにする。
  • 下々の者がキリスト教徒になるのは志次第であり、仏教の宗派と同じで問題にならない。
  • 大唐(中国)、南蛮、高麗(朝鮮)に日本人を売ることはけしからんこと。日本において人の売買を禁止する。
  • 牛や馬を売買して食べることはけしからんこと。

キリスト教徒の信仰は容認しており、南蛮貿易については言及がありません。キリスト教徒への改宗については、大名は知行地の広さで制限があるものの、庶民については一向宗を例に挙げつつ、無理やりでなければ心次第、つまり思い通りにしても良いとしています。特筆すべきは最後の日本人の売買禁止で、秀吉が日本人の奴隷化を気にかけていたことが分かります。

その後、コエリョとの問答を経て6月19日に出したものが「松浦家文書」です。

<松浦家文書>
  • 日本は神国であり、キリスト教国が「邪法」を授けることはけしからんことだ。
  • 土地の人間をキリスト教徒にして寺社仏閣を壊させるなどは前代未聞。領地が大名や武士に与えられているのは一時的なことであり、天下(秀吉)からの法律を守るべきなのにそうしないのはけしからん。
  • キリスト教宣教師はその知恵の法をもって信者の自発的な改宗を得ていると秀吉は考えていたが、右のように日本の仏法を実力で破壊しているとは不届きなことだ。宣教師たちを日本に置いておくことはできないので、今日から20日間のうちに支度して帰国せよ。その間に宣教師たちに理不尽なことをしたものについては処罰する。
  • 黒船(南蛮船)は商売で訪れるので別扱いし、今後も商売を続けること。
  • 以後仏法を妨げないものであれば、商人でなくても、キリスト教国との往来は許可する。

まとめると、キリスト教の布教を禁止するとともに、キリスト教宣教師たちに対し、20日以内に国外退去するよう命じています。南蛮貿易は継続し、仏法を妨げない限りは往来もOK。ただし6月18日のものと異なり、キリスト教=「邪法」とかなり強い言い方をしており、さらに宣教師たちには20日間のうちに国外退去するよう命じています。なお、なぜか日本人の売買禁止については言及がありません。

わずか1日で秀吉がキリスト教に対する態度を硬化させたかのように見えますが、そもそも6月18日の覚書は国内向け、松浦家文書はイエズス会向けと出される対象が違っていたという説が定説になっています。この説に従えば、イエズス会向けに出された文書の内容が厳しいものとなったのは、直前のコエリョとのとの問答が要因の一つになったのかもしれません。

バテレン追放令の効果はあったのか

以上の経緯で豊臣秀吉が出したバテレン追放令ですが、結局効果はあまりありませんでした。なぜなら、秀吉は南蛮貿易を禁止しなかったからです。日本から退去すべきとされた宣教師たちは、貿易商人でもありました。このため宣教師たちは居直ることができたのです。

とはいえ、出された当初はさすがの宣教師たちも驚き焦りました。コエリョは船の来航の関係上、わずか20日間での国外退去は難しいことを秀吉に訴え、秀吉は宣教師たちの平戸での滞在を許します。宣教師たちは平戸に集結して今後の対応を検討。結局秘密裏に布教を続けることを決定しました。ちなみに、コエリョはキリシタン大名達に秀吉と敵対するよう働きかけたり、フィリピンに軍事的な援助を求めるなど、アグレッシブな動きを見せますが結局失敗しています。

一方、秀吉は京都の南蛮寺、つまり教会や関連施設を破却し、長崎を没収して直轄地化。しかし、南蛮貿易を重視していた秀吉はキリスト教を禁止するところまではいかず、結局なあなあな黙認状態が続いていくのでした。文禄2年(1593年)にはフィリピンからフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが秀吉と謁見して布教の許可を得ています。

その後、文禄5年(1596年)のサン=フェリペ号事件をきっかけに秀吉はキリスト教への態度を硬化。この事件は、嵐で漂着したスペインのガレオン船に対し、スペインと派を争っていたポルトガル人が「スペインは海賊であり、日本を征服しようと考えて、測量のためにやってきた」という讒言と、疑いをかけられた乗組員が「スペインはキリスト教を布教しながら各地を征服しており、日本も支配下にはいるぞ」と大言壮語を吐いたというものです。これを受けて秀吉はキリスト教禁教令を発令し、慶長元年12月(1597年2月)にはフランシスコ会の宣教師と日本のキリスト教徒、計26人を長崎で処刑しています(日本二十六聖人殉教)。

江戸時代に入ってからは、徳川家康は当初キリスト教を黙認していましたが、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて起きた、キリスト教徒が関わった詐欺事件「岡本大八事件」を契機にキリスト教禁止令を発布。布教を禁じるとともに宣教師を追い出そうとします。続く徳川秀忠もキリスト教禁止の姿勢を示し、キリスト教徒たちは厳しい弾圧と迫害を受けることになり、寛永14年(1637年)に島原と天草で発生した「島原の乱」につながっていくのです。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。