四国艦隊下関砲撃事件英仏米蘭が長州藩を攻撃
四国艦隊下関砲撃事件
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- 事件名
- 四国艦隊下関砲撃事件(1864年)
- 場所
- 山口県
文久3年5月(1863年6月25日)、長州藩は幕府の攘夷を実行する形で、下関で外国船を砲撃します(下関事件)。その報復として、元治元年(1864年)8月、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊が下関を砲撃しました(四国艦隊下関砲撃事件)。2つの事件を合わせて「下関戦争」とすることもあります。四国艦隊下関砲撃事件で大敗した長州藩は、攘夷から開国、そして倒幕へと転じていくことになります。今回はそんな四国艦隊下関砲撃事件について、詳しく解説します。
下関事件で長州藩が攘夷を実行
安政5年(1858年)、日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国条約」で日本が開国して以降、天皇・公家を頂点にした政治体制を主張し、外国人排斥を訴える「尊王攘夷派」と、朝廷と幕府、雄藩が一体的に協力して政治を担う「公武合体派」が激しく争っていました。このうち、四国艦隊下関砲撃事件の主役である長州藩は尊王攘夷派に属していました。
長州藩士は朝廷に入り込み、急進的な尊王攘夷派の公家などと組んで天皇、ひいては幕府に攘夷の圧力をかけました。こうした働きかけの結果、幕府は攘夷の決行日を文久3年5月10日(1863年6月25日)に決定します。
ただし、幕府は積極的に攘夷を実現しようとは考えていませんでした。このため諸藩に対しては、「外国から攻撃があった場合応戦する程度にとどめるように」と通達しています。
しかし、攘夷の決行日に唯一攘夷を実行した藩がありました。それが長州藩で、壇之浦や前田(現山口県下関市)などに十数か所の台場(砲台)を築き、藩兵たちと浪士隊を配置しました。さらに帆走軍艦(丙辰丸・庚申丸)や蒸気軍艦(壬戌丸・癸亥丸)で関門海峡封鎖の態勢を整えます。
5月10日に日付が変わったばかりの深夜、長州藩は下関に仮停泊していたアメリカの商船・ペンブローク号を庚申丸と癸亥丸で攻撃。下関の台場からも砲撃を加えました。ペンブローク号は周防灘へ上手く逃れたため人的損害は免れました。
続いて5月23日にはフランス軍艦「キャンシャン号」、26日にはオランダ軍艦「メデューサ号」を砲撃しています。メデューサ号は長崎奉行の許可証を得ており、幕府の水先案内人が同乗するなかで砲撃されました。
米仏の報復も、長州藩は攘夷を継続 朝陽丸事件へ
「攘夷実行」は当然のことながら諸外国の怒りを買いました。アメリカとフランスは幕府を非難し、長州藩への報復に出ます。6月1日にはアメリカの蒸気船、軍艦ワイオミング号が下関を砲撃して庚申丸は撃沈、癸亥丸は大破します。さらに6月5日にはフランスの軍艦セミラミス号とタンクレード号が下関の台場を砲撃し、上陸して台場を無効化しました。
報復により長州藩は大きな損害を受けましたが、攘夷を止めようとはせず、むしろ「外国を屈服させるにはさらに武備を強化せねば」と考えました。このため即座に台場を再建し、関門海峡封鎖を続行します。加えて下関の防衛を任された高杉晋作は、下級武士や農民、町人等幅広い人材からなる奇兵隊を結成して防備を増強しました。
加えて長州藩は関門海峡を挟んで隣り合う小倉藩に使者を送り、ともに攘夷を実行しなかったことを激しく非難し、領内に勝手に台場を築きました。幕府に従って攘夷を静観していた小倉藩は幕府に助けを求め、郡代の河野四郎、勘定奉行の大八木三郎右衛門らを使者として送りました。
これを受けた幕府は長州藩に対し、「幕府が外国と交渉中であるから、勝手に攻撃しないように。結果が出ないうちは砲撃を中止せよ」という詰問書を用意。使者に旗本の中根市之丞を任命し、小倉藩の使者達とともに軍艦「朝陽丸」に乗せて長州に送りました。
ところが文久3年(1863年)7月24日、朝陽丸が関門海峡に差しかかると、下関の前田台場が朝陽丸を砲撃します。翌25日には下関南部町に着船した朝陽丸に奇兵隊が乗り込み、小倉藩の使者2名を引き渡すように要求したため、2名は長州藩士に討たれるよりは、と切腹しました。さらに上陸した幕府の使者は山口に向かう途中、小郡で暗殺されてしまいます。
そのうえ、奇兵隊は「朝陽丸は長州藩が借り受ける」と主張しました。奇兵隊の暴走ともいえるおこないに、長州藩の上層部は慌てて朝陽丸を返還するよう説得、奇兵隊はこれを受け入れました。
八月十八日の政変から禁門の変へ
朝陽丸事件が起きた直後、京都では孝明天皇の許可のもと、薩摩藩や会津藩などが八月十八日の政変を起こし、長州藩や三条実美ら急進的尊王攘夷派の公卿たちを排除しました。長州藩主・毛利敬親と息子の元徳は国元で謹慎を命じられ、長州藩のなかでは武力で京を攻めて無実を訴えることを主張する急進派と慎重論をとる保守派が対立します。
元治元年(1864年)6月5日、新選組による池田屋事件で尊王攘夷派の志士たちが捕縛・虐殺されると、長州藩では急進派が主体となり、大規模な武力行使の準備が進められました。そして7月19日、京都御所の蛤御門付近で長州軍VS会津・薩摩・幕府連合軍が争う「禁門の変(蛤御門の変)」が起こります。禁門の変は長州藩の敗北に終わり、長州藩は朝敵となってしまいました。
四国艦隊下関砲撃事件①関門海峡閉鎖でイギリスが動く
長州藩が国内でさまざまな動きを見せるなか、諸外国は下関事件の時点で幕府にさまざまな圧力を加えていました。下関事件から一ヶ月後の文久3年(1863年)6月10日、アメリカとフランス、オランダ、イギリスの4ヶ国代表が、関門海峡を自由に航行するためには武力行使も辞さない、という共同決議を出し、19日には四ヶ国の代表が署名した覚書を幕府に通告しました。
長州藩に直接攻撃されていないイギリスが入っているのは、関門海峡が日本海と瀬戸内海をつなぐ重要な航路で、イギリスにとって外交・交易上重要な場所だったからです。関門海峡の封鎖はイギリスの貿易に大きなダメージを与えました。
四ヶ国による交渉は、実はイギリス駐日公使のラザフォード・オールコックが主体となったものでした。オールコックは長崎貿易が中断されたことを不満に思っていました。さらに、長州藩の行動が幕府の開国の動きを阻害しているのではと危惧していました、
実際、幕府は諸外国からの抗議に対し、長州藩に罰則を加えることなく、逆に横浜鎖港を再び提案しました。文久3年12月(1864年2月)には横浜鎖港を各国に談判するための使節団をフランスに派遣しています(横浜鎖港談判使節団)。幕府にとって横浜鎖港は攘夷派のガス抜きの意味もありました。こ
弱腰の幕府に対し、オールコックは長州藩への武力行使を決意します。元治元年(1864年)6月19日、四ヶ国は幕府に最終通達を出しました。内容としては、通商条約のなかで長州藩が関門海峡を閉鎖するのは権利の侵害だという非難でした。そもそも当時、国際的な航行の自由は列強諸国にとって常識でした。これを長州藩が破ったと主張したのです。
そのうえで、長州藩を止めない幕府に対し、もし20日以内に「実質的な変化や将来の安全のために満足できる保証がない」場合は、四ヶ国が武力行使によって海峡封鎖を解くと宣言しました。また、合わせて幕府の横浜鎖港策を批判しています。
四国艦隊下関砲撃事件②伊藤博文と井上馨が止めに入る
通告が出される数日前、オールコックは長州藩士の伊藤俊輔と井上聞多(後の伊藤博文、井上馨)と面会していました。実は2人はイギリスに留学していましたが、状況を知り急遽帰国したのです。留学していた2人は欧米諸国の力をよく理解していました。
2人はオールコックに対し、長州藩を説得して開国方針に転換させるよう尽力すると話しました。オールコックはこれを受け入れ、2人を外交官のアーネスト・サトウとともに豊後国(大分県)姫島まで送り届けます。2人は長州藩主の毛利敬親や藩の首脳部を説得しようとしましたが、結局叶いませんでした。
四国艦隊下関砲撃事件③パリ約定を幕府が否定
武力行使待ったなしの中、7月22日に横浜鎖港談判使節団が横浜に帰港します。一行はフランスを訪問し、皇帝ナポレオン3世と謁見するも、横浜鎖港を認めてもらうという目的は失敗に終わりました。正使を務めた池田長発は日本と諸外国との差を目の当たりにし、予定を途中で打ち切ってフランスとパリ約定を締結。早々に帰国したのです。
パリ約定では、長州藩がフランス船砲撃事件の賠償金を支払うこと、関門海峡を通過するフランス船の安全確保のため、幕府もやむを得ない場合はフランスとともに武力行使することで合意。このほか、フランスからの輸入品の関税引き下げなどが含まれました。
7月22日に横浜に戻った一行は、幕府から早く帰国したことを咎められて隠居や逼塞などの処分を受け、江戸城への登城すら許されませんでした。池田長発は開国と富国強兵の重要性を幕府に訴えますが、幕府は7月24日、パリ約定を批准せずに破棄してしまいます。
実はパリ約定で日本とフランスが和解したことから、四ヶ国連合艦隊による武力行使はひとまず見送られていました。しかし、パリ約定が破棄されたことで四ヶ国連合艦隊は武力行使を決定します。
四国艦隊下関砲撃事件④下関を攻撃開始
四ヶ国連合艦隊は元治元年7月27日から28日かけて、横浜を順次出港しました。イギリスは旗艦のユーリアラス号をはじめとした軍艦9隻で、さらにフランス3隻、オランダ4隻、アメリカ1隻、計17隻からなる連合艦隊は、8月4日に下関に到着、翌8月5日から一斉攻撃を開始しました。
長州藩は2000の兵力・120門の大砲出迎え討ちましたが、主力部隊は禁門の変のためにまだ京におり、圧倒的な兵力不足でした。このため連合艦隊は圧倒的な兵力差・技術差で次々と砲台を破壊し、一日たたないうちに上陸、前田台場を占拠しました。
8月6日には壇ノ浦を守っていた奇兵隊がイギリスやフランスの船を砲撃して混乱させます。陸上では長州軍が連合艦隊軍を迎撃するなど活躍を見せますが、連合艦隊軍は前田台場などを占領。8月7日には彦島を攻撃して上陸し、ことごとく長州藩側の砲台を破壊しました。
開戦から4日たった8月8日、長州藩はユーリアラス号に使節を派遣して休戦を申し入れました。長州藩側の代表は脱藩御罪で牢に入っていた高杉晋作でした。
四国艦隊下関砲撃事件⑤「魔王」高杉晋作の交渉
高杉晋作は長州藩家老・宍戸備前の養子の「宍戸刑馬」と身分と名を変え、イギリスのユーライアラス号に乗り込み、総司令官のオーガスタス・レオポルド・キューパー中将と会談します。その際にイギリス側の通訳として同席したアーネスト・サトウは、このときの晋作を「まるでルシファー(魔王、悪魔)のよう」と評しました。ちなみに日本側の通訳は伊藤博文が務めています。
交渉については、関門海峡の航行の自由については双方がすんなりと同意しました。艦船は石炭や食料などの必需品の購入ができ、悪天候の場合は上陸も可能でした。また、砲台の修築や新築はしないことで合意しました。
両者の争点となったのは賠償金です。連合艦隊側は賠償金として300万ドルを長州藩に支払うよう求めました。晋作も賠償金の支払いについては同意しますが、なんと「支払うのは長州藩ではなく幕府である」と主張したのです。晋作は攘夷を実行するよう命じたのは幕府であり、支払う義務がある、と堂々と言い放ち、粘り強く交渉しました。
結局、連合艦隊側は賠償金を長州藩ではなく幕府に請求することで同意し、講和条約が締結されました。長州藩は300万ドルの負債を背負わずに済んだのです。
このほか、伊藤博文によれば交渉の際、連合艦隊側から彦島の租借の希望があったそうですが、晋作と博文の反対により立ち消えた、という話も残っています。
ちなみに、最終的には江戸幕府も賠償金の支払いを承諾。150ドルは幕府が払い、明治維新後に残額を明治政府が分割払いしました。
四国艦隊下関砲撃事件後の長州
四国艦隊下関砲撃事件で欧米列強の強さを目の当たりにした長州藩は、攘夷が不可能であることを認識します。
事件の直後、幕府への恭順をかかげる保守派が長州藩の政権を掌握します。このため幕府の第一次長州征の際は、戦をせず、禁門の変の責任を取る形で3家老が切腹し、長州藩に身を寄せていた五卿が別々の藩に遷されることで手打ちとなりました。
これに反発した、幕府への武力抵抗も辞さない急進派の高杉晋作は功山寺で挙兵し「元治の内乱」に続いていきます。内乱後、保守派は処分され急進派が政権を握りました。しかし、攘夷が不可能であることを肌で感じた急進派は富国強兵の必要性を強く感じ、イギリスと接近。海外の最新の知識や技術を得るとともに、武器を輸入しました。この「攘夷から開国へ」の転換は、後の倒幕運動の原動力となりました。四国艦隊下関砲撃事件は、長州藩を近代国家への第一歩に踏み出させる契機となったのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。