禁門の変(蛤御門の変)幕末の京都を舞台にした決戦

禁門の変(蛤御門の変)
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- 禁門の変(蛤御門の変)(1864年)
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元治元年7月19日(1864年8月20日)、京都御所の西側にある蛤御門付近で大規模な武力衝突が起こりました。「禁門の変」(蛤御門の変)と呼ばれるこの事件は、長州藩の尊王攘夷派が勢力を回復しようと挙兵したものですが、朝廷・幕府方に大敗。その後、長州藩は「朝敵」として討伐対象になります。今回は「第一次長州征討」の原因となった禁門の変について、分かりやすく解説します。
長州藩で尊王攘夷派が台頭
幕末、天皇や公家を頂点にした政治体制を主張する「尊王」論と、外国人排斥を訴える「攘夷」論が結びついた「尊王攘夷」運動が活発化するなか、長州藩はその担い手として朝廷で勢力を拡大していました。
その尊王攘夷派と対峙していたのが、薩摩藩を中心とした「公武合体」派でした。公武合体派が幕府と協調して幕政を主導する一方、尊王攘夷派は朝廷で勢力を伸ばしました。長州藩は急進的尊王攘夷派の公卿たちとともに幕府に攘夷を実行するようにと圧力をかけ続けます。その結果、徳川家茂は文久3年5月10日(1863年6月25日)に攘夷を決行すると宣言しました。
ただし、幕府の攘夷は軍事行動ではなく横浜港の閉鎖などで、諸藩には「外国側からの武力行使があった場合は応戦せよ」という消極的な指示を出しています。
そんななかで藩として唯一、5月10日に武力行使としての攘夷を実行したのが長州藩でした。下関に砲台を築き軍艦を配置し、馬関海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃したのです(下関事件)。6月には激怒したアメリカとフランスが報復措置として下関の軍艦や砲台を砲撃しました。長州藩は大損害を受けつつも、攘夷の意思を失いませんでした。
「八月十八日の政変」で長州藩が京を追われる
こうした急進的尊王攘夷派の武力行使に対し、孝明天皇は苦々しい思いを抱いていました。実は当時、朝廷内の急進的な尊王攘夷派が孝明天皇の勅令を勝手に出し、幕府に攘夷を迫っていたのです。ついに彼らは孝明天皇による攘夷親征(大和行幸)まで計画します。
しかし、孝明天皇の考えは「攘夷は幕府が実施するべき」というものでした。8月13日に出された大和行幸の詔は孝明天皇の意思を無視した内容でした。このため孝明天皇は急進的な尊王攘夷派の排除を決意し、薩摩藩や京都守護職を務めていた会津藩の松平容保を中心とした公武合体派とともに動き出します。
こうして文久3年8月18日(1863年9月30日)、公武合体派によるクーデター「八月十八日の政変」が起こり、長州藩や急進的尊王攘夷派の公卿たちは京から追放されました。
長州藩は堺町御門の警備を罷免され、藩主の毛利敬親と子の毛利元徳は国元での謹慎を命じられました。加えて三条実美ら急進的尊王攘夷派の公卿7人は禁足・他人との面会禁止が命じられました。これを受けて公卿たちは禁足を破り、長州藩とともに長州に落ちのびました(七卿落ち)。
京から締め出された長州藩と三条実美ら七卿は何とか政権に復帰しようとします。このとき長州藩のなかでは、「武力をもって京に侵攻し長州の無実を訴える」と主張する来島又兵衛、真木和泉ら進発論者と、「慎重に動くべき」と主張する桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ら慎重論者が対立し、藩を二分しての大論争が起こっていました。
参与会議の成立と瓦解
一方、尊王攘夷派の公家を追い出した朝廷はといえば、政権を運営するための人材不足に陥っていました。その結果、公武合体派と協力しての合議制が立ち上がります。1863年(文久3年)末から翌文久4年(1864年)の正月にかけて、将軍後見職の徳川慶喜、会津藩主で京都守護職の松平容保、越前藩前藩主の松平春嶽、土佐藩前藩主の山内容堂、宇和島藩前藩主の伊達宗城、薩摩藩主の父・島津久光が朝議参与(参預)に任命されます。1月15日には徳川家茂が再上洛。天皇は家茂に参与諸侯と協力を求める勅書を下しました。これにより「参与会議」と呼ばれる合議制が成立したのです。
参与会議の最初の議題は長州藩の処分と横浜鎖港をどうするかでした。長州藩への処罰については長州征伐を行うか否かでもめた結果、長州藩の家老を呼び、七卿の引き渡しを命じたうえで従わなかった場合は征伐するという方針を固めました。
一方の横浜鎖港問題については、孝明天皇が鎖港に賛成するのに対し、参与会議を主導していた島津久光をはじめ、メンバーのほとんどが反対でした。しかし、徳川慶喜は唯一天皇に賛成しました。
徳川慶喜は開国派、なおかつ将軍後見職。幕府も攘夷には反対していましたから、本来であれば横浜鎖港には反対のはずでした。しかし、慶喜はあえて反対に回りました。その理由は諸説あり、島津久光ら薩摩藩の台頭を警戒していた、天皇が望む攘夷を実現させてあげることで朝廷と幕府の結びつきを強固にしたかった、自分の権力を高めたかった、などの説があります。
その後、島津久光と徳川慶喜の対立は続き、会議は紛糾しました。しかも慶喜は酒席で久光、春嶽、宗城に対し暴言を吐く始末で参与間の仲は悪化。久光は参与会議を見限り、諸侯は次々に参与を辞して帰国し、参与会議は僅か数か月で瓦解しました。
その後、慶喜は将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督に任じられます。そして京都守護職の会津藩主・松平容保、京都所司代の桑名藩主・松平定敬とともに幕府よりの「一会桑政権」として朝廷での政治を主導していくのです。
池田屋事件で進発論者が優勢に
参与会議が瓦解し、京にいた雄藩がいなくなると、長州藩をはじめとした尊王攘夷派の志士たちは京都での復権運動を活発化させます。参与会議の瓦解により、京の人々からは長州藩への同情などによるいわゆる「長州びいき」のような風潮がありました。このため京に潜伏していた長州藩士たちからは、「幕府に直訴するために上洛すべし」という声が上がります。
こうして元治元年(1864年)6月4日、毛利元徳が兵を率いて上洛することを決意しました。ところが翌日の6月5日に新選組による池田屋事件が起こります。
池田屋事件は6月5日(1864年7月8日)夜、新選組が池田屋に集まっていた長州藩をはじめとした藩士や浪士たちを捕縛・惨殺した事件です。新選組は「尊王攘夷派の浪士たちが御所の放火や要人暗殺、天皇拉致等を計画している」とし、集まった人々を捕縛、または吟味することなく惨殺しました。命を落としたもののなかには吉田稔麿をはじめとした多くの長州藩士がいました。
仲間が何の詮議もなく捕縛・殺害されたことで、長州藩内では幕府への怒りや恨みがさらに強まります。この結果、進発論のメンバーの声がますます大きくなり、上洛メンバーは増員。最終的には毛利定広に福原元僴(越後)、益田親施、国司親相(信濃)の三人の家老が長州藩兵を率いて上洛することになりました。
禁門の変①長州藩兵が出陣、一路京へ
元治元年(1864年)6月15日、長州藩の軍勢は京に向けて出発しました。6月21日には久坂玄瑞や真木和泉、入江久一ら、22日には福原元僴や木島又兵衛らが大坂藩邸に到着。24日、久坂玄瑞達は山崎周辺に、福原元僴達は伏見の長州藩邸に着陣しました。26日には木島又兵衛が嵯峨天龍寺を抑え、27日には別動隊が石清水八幡宮を占拠。7月に入ると国司親相が山崎に、益田親施が石清水八幡宮に到着しました。
長州側は6月に着陣したのち、再三再四に渡り、朝廷側に藩主親子や七卿の赦免と入京の許可、攘夷の実行を訴えますが、朝廷側はこれを拒絶します。とはいえ、幕府や朝廷側にも長州藩に同情する藩主や廷臣がいたため、長州側はそうした伝手を使いながら、武力行使をちらつかせつつ何度も要求を続けました。
朝廷・幕府側は長州側に対し、追討を検討。孝明天皇も強硬策を是認しますが、徳川慶喜は長州側が何とか穏便に国に戻るよう説得を試みます。幕府としては、長州藩を追討するための兵力が不足していました。実は薩摩藩に兵を出すよう訴えていますが、薩摩藩側は戦いを「会津藩と長州藩の私戦」と位置付けてこれを拒否したのです。
そうしているうちに、6月29日に孝明天皇が「長州藩の入京は許さない」という勅諚を出します。これを受け、薩摩藩は「長州藩が攻めてくるのは避けられない」と判断。薩摩藩士で京に詰めていた小松帯刀は、八月十八日の政変などで薩摩藩に恨みを持つ長州藩は最初に薩摩藩兵を攻撃するだろうと予測し、長州藩征伐への派兵を薩摩藩本国に求めています。
禁門の変②長州藩が「朝敵」に
長州側は7月17日に石清水八幡宮において軍議を開き、今後の方針を話し合いました。武力行使への反対意見や、毛利元徳の率いる3000の兵を待つべしという意見もあったようですが、木島又兵衛らは武力行使を強硬に主張。結果、長州軍は武力行使を7月19日に決行します。禁門の変の始まりです。
7月18日の夜、長州軍は挙兵して御所を目指します。伏見の長州藩邸にいた福原元僴率いる約700の兵は御所を目指して出陣しますが、19日早朝、藤森付近で幕府方の大垣藩兵と戦闘になり、撃退されます。このときの戦いで元僴は顔面を撃たれて負傷しています。その後、別ルートで御所をめざしますが、彦根藩や会津藩の兵士たちに発見され失敗し、伏見の藩邸を燃やして撤退しました。
なお、こうした長州藩の動きを知った孝明天皇は7月19日の早朝、在京の初藩主に対し、長州藩士達の征討に尽力するよう勅命を下しています。こうして長州藩は「朝敵」になりました。
禁門の変③蛤御門での激戦
嵯峨天龍寺にいた国司親相率いる約800の兵は途中で国司親相隊と来島又兵衛隊に分かれ、蛤御門を目指して進みました。7月19日、御所周辺にたどり着いた国司隊は中売立御門を守っていた福岡藩の兵を破り、蛤御門へと進みます。
一方の来島隊は蛤御門で待ち構えていた会津藩・桑名藩兵たちと激突。一時は優勢でしたが、乾門から駆けつけてきた西郷隆盛率いる薩摩藩兵により状況は逆転しました。来島又兵衛は蛤御門周辺で弾丸を受けて戦死(自決とも)、国司は何とか逃げ延びました。
山崎にいた久坂玄瑞・真木和泉が率いる500の兵は堺町御門を目指しましたが、すでに他隊は敗れた後でした。会津藩・桑名藩・越前藩の兵と戦闘になりますが堺町御門は破ることができません。久坂玄瑞は足を撃たれて負傷しながらも公家の鷹司邸に侵入。宮中に参内しようとしたが失敗し、鷹司邸も会津藩兵に包囲されました。鷹司邸は戦のなか、大砲などにより炎上し、玄瑞は荒れ狂う炎の中で自刃。入江九一は館から脱出しようとしたものの、脱出の際に越前藩士に発見されて討たれました。
残る真木和泉は益田親施との合流地点である天王山まで撤退したものの、益田親施はすでに逃げた後でした。泉は長州に戻ることを断り、戦の責任を取るために自害を決意します。追いかけてきた会津藩兵や新選組と戦ったのち、小屋に立てこもって火薬で自爆しました。
こうして禁門の変は長州勢の大敗で終了しました。なお、毛利元徳は京に向かう最中の讃岐で長州の大敗を聞き、長州に戻っています。
禁門の変④京の大火「どんどん焼け」
禁門の変で火を放たれた鷹司邸でしたが、火は北風にあおられて南へと広がり、京の街を火の海に変えました。火はなんと3日間燃え続け、この火事で堀川と鴨川の間、一条通から七条通の間の3分の2が焼き尽くされました。2万8000軒の家が焼失したこの火事を、人々は「どんどん焼け」と呼びました。
7月20日には六角通の六角牢獄に火が迫り、火災で脱獄を恐れた役人が収容されていた尊攘派志士33人を斬首するという悲劇が起こりました。このときの犠牲者には池田屋事件の際に捕らえられた古高俊太郎もいました。
禁門の変から長州征討へ
禁門の変はわずか一日で終了しましたが、この戦いにより長州藩は「朝敵」となりました。7月23日には長州藩追討の勅命が下り、翌日には西国への出兵命令が発令。こうして第一次長州征討が始まることとなるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。