シャクシャインの戦い(2/2)松前藩vsアイヌの戦い

シャクシャインの戦い

シャクシャインの戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
シャクシャインの戦い(1669年)
場所
北海道
関連する城
松前城

松前城

寛文9年(1669年)6月下旬からスタートした襲撃は、アイヌの漁場・狩猟場に入り込んだ和人に加え、渡航してきた交易商船も対象でした。襲撃場所は東の太平洋岸はホロベツ(北海道登別市幌別町)からシランカ(北海道白糠郡白糠町)周辺まで、北の日本海岸はマシケ(北海道増毛郡増毛町)からウタスツ(北海道寿都郡寿都町)周辺まで計15拠点に及び、あわせて300人以上の死者が出たと記録されています。

シャクシャインが率いるアイヌ軍は7月25日にはエトモ(北海道室蘭市絵鞆町)に到着。一方松前藩軍はクンヌイ(国縫、北海道山越郡長万部町)をアイヌ軍を迎え撃つための防衛ラインと位置づけ、兵をおいて備えます。

そして7月末から8月上旬にかけて「クンヌイ川の戦い」が起こります。松前藩軍は700〜800名で土塁を築いてアイヌを待ち構え、他藩から借り受けた大量の鉄砲を投入。対するシャクシャイン軍は2000だったと言われていますが、松前藩軍の鉄砲に対し、アイヌ軍の武器は狩猟用の毒矢や火矢、太刀。鉄砲にはかなわず、アイヌ軍はシベチャリ方面に押し戻されました。

9月には松前藩軍に弘前藩の軍勢700名も加わり、大人数となった松前藩軍は鉄砲の威力を活用しつつアイヌの部族を個別に脅しにかかります。アイヌ軍は異なる部族たちの混合軍だったので、シャクシャインのメナシクル以外の部族たちに働きかけて降伏させることでアイヌの分断トメナシクルの孤立化をねらったのです。

シャクシャインの戦い③シャクシャインの謀殺

10月、松前藩軍はピポク(北海道新冠郡新冠町)に着陣します。ピポクはシベチャリとは静内川・新冠川を挟んで向かい側。松前藩軍はシャクシャインの本拠地のすぐそばまで迫っていたのです。危機感を覚えるシャクシャインに対し、松前藩軍の指揮官・佐藤権左衛門は和議を提案します。

松前藩としては交易相手であるアイヌをせん滅すると藩の財政が成り立たなくなってしまうので、うまく支配したいところです。さらに戦いが長引くと江戸幕府から藩を取り潰される可能性もあります。北海道の冬が間もなく始まり、兵糧不足に陥る可能性がありました。

シャクシャインは当初は和議を拒否。これまでも松前藩軍は和議を提案してだまし討ちにしていた過去があったからです。しかしアイヌとしても交易がストップした状態で冬を迎えると食糧不足に陥る可能性もあります。他のアイヌたちの薦めもあり、シャクシャインは最終的に和議を承諾します。

和議の場に到着したシャクシャインは和議を受け入れた証として宝物としていた刀類などを松前藩軍に提出。これで和議は成立しましたが、松前藩側は祝宴を開くからとシャクシャインを引き止めます。そして松前藩は祝宴で酒を飲んで酔ったシャクシャインたちに襲いかかりました。慌てるシャクシャインですが、なすすべもなく誅殺されてしまったのです。このときシャクシャインは64歳でした。なお、シャクシャインの最期は自陣で和議を祝って宴会を開いていたときに殺された、など異なる説もあり、殺害場所も数ヶ所が推定されています。

さらに松前藩軍は翌日、シャクシャインの砦(チャシ)を攻め落とし焼き払います。こうしてシャクシャインの戦いは松前藩の勝利で終了したのです。なお、その後も寛文12年(1672年)まで戦後処理のための出兵が続いています。

シャクシャインの戦い後のアイヌ

シャクシャインの戦いの後、アイヌの力は徐々に弱まっていきます。松前藩はシャクシャインを破った後、各地のアイヌ勢に「和人に服従し、交易を松前藩以外とはおこなわないようにすること」などを記した7か条からなる起請文を持参して服従するよう求めました。起請文には交易比率も記されており、米1俵につき皮5枚、干し鮭5束(100本)と規定されています。

また、シャクシャインの戦いは和人側にアイヌとのかかわりを制限することにも繋がりました。和人の蝦夷地隊入りは厳禁され、アイヌの生活圏に和人が傍若無人に入り込んでくることもなくなっていったのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03