有岡城の戦い荒木村重、信長を裏切る
有岡城の戦い
天正6年(1578年)10月、織田信長の元に突然の知らせが届きます。「荒木村重が謀反!」信じられなかった信長は使者を差し向けますが、謀反は事実でした。こうして織田軍VS荒木軍による「有岡城の戦い」が起こります。織田軍による総攻撃の失敗により、戦いは約1年にも及ぶ長期戦になり、村重が有岡城から脱出したことで妻子たちは悲惨な最期を遂げることになります。今回はそんな有岡城の戦いについて分かりやすく解説します。
荒木村重とはどんな武将?
荒木村重はもとは摂津国(現在の大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)の三守護と呼ばれる有力者の一人、池田勝正に仕える武将でした。池田氏から嫁を迎えますが、後に池田氏を裏切って三好氏に寝返るとともに、主君だった池田勝正を追放して池田氏の実権を掌握。元亀2年(1571年)には白井河原の戦い(大阪府茨木市・茨木川畔)で足利義昭についていた摂津三守護の一人・和田惟政を破ります。そして義昭と対立していた織田信長に接近し、信長に気に入られて仕えることになります。
18世紀に成立した軍記物語『陰徳太平記』によれば、村重と信長の初会見の際、信長はいきなり刀を抜いて饅頭を数個突き刺しました。一同が驚く中、村重は信長に近寄り、大きな口をあけて饅頭をかじろうとします。これを見た信長は村重を「日本一の器量」と賞賛し、脇差を授けたそうです。史実かどうかはともかく、村重の豪胆さがわかるエピソードですね。
村重はその後、織田軍としてさまざまな戦で活躍しました。天正元年(1573年)には信長が三好義継を破り三好宗家を滅ぼした「若江城の戦い」で武功を挙げます。1574年(天正2年)11月には摂津三守護の伊丹忠親を攻めて伊丹城を落とし、それまでいた池田城から伊丹城に移り、大改修を行うとともに有岡城に改名。有岡城を拠点に摂津国を支配することになるのです。
戦いの舞台になった「有岡城」
有岡城は史料の少なさから詳細不明の「謎の城」として知られています。わかっているのは荒木村重の大改修により「惣構(そうがまえ)」ができたこと。これは城に加えて町屋敷や町屋まで堀や土塁で取り囲み城郭全体を防御する城郭構造で、有岡城の惣構は現存する遺跡のなかで最古級のものだと言われています。
有岡城の惣構は現在のJR伊丹駅にあった主郭部を中心に南北1.7km、東西0.8km。主郭部をかこむ形で幅16m~20m、深さ7mにも及ぶ堀があったことが発掘調査などからわかっています。北・西・南にはそれぞれ砦を設け、東側は伊丹段丘の段丘崖を利用して守っていました。このほか町屋を取り囲む形で溝や堀を巡らせていたようです。
このように堅固な城を整えた荒木村重は信長配下の中でも存在感を強め、越前一向一揆の討伐や、10年にもわたる浄土真宗本願寺派との戦い・石山合戦でも活躍していきます。
天正6年(1578年)7月には羽柴秀吉率いる織田軍と、毛利氏に寝返った別所軍が戦った「三木城の戦い」に参戦しています。この戦いのさなか、天正6年10月に起きた大事件が、秀吉の後方支援をしていた村重の裏切りです。村重は突然戦線を離脱し、有岡城に戻ってしまったのです。これは織田信長に対する裏切りでした。
有岡城の戦い①荒木村重はなぜ謀反を起こしたのか?
荒木村重はなぜ突然織田信長を裏切ったのでしょうか。信長自身も「一体何の不足があったのか…」と謀反には困惑していたほど。実は村重が謀反した理由については諸説あり、真偽のほどはわかっていません。主な説については以下の通り。
- 部下の中川清秀が石山本願寺に兵糧を流していたため、信長に疑われるのを恐れて処罰される前に謀反に踏み切った
- 織田家中での地位の危うさから毛利氏についた。特に中国方面が羽柴秀吉に任された一方、自分には大きな役目は与えられず秀吉の下につかされたことが、信長を見限り毛利氏の調略を受け入れる結果となった
- 摂津の国衆や百姓が反信長の意向を示したこと、特に一部の百姓は本願寺と結びついており、一揆が懸念される中、信長ではなく本願寺や百姓たちと連携することを決めた
村重謀反の知らせを受けた信長は、真相を究明するために明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣しています。こうした使者を通して信長は「母親を人質に差し出して安土城まで弁明に来るように」と村重に求めました。また、キリシタン大名の高山右近も信長に弁明するよう村重を説得しています。
一説によれば、この際村重は謀反について、直接信長にあって弁明しようとしました。ところが家臣の中川清秀が「信長は一度裏切ったら許さないから、謀反するしかない」と諫言したことで、安土城に向かうことなく引き返したそうです(『立入左京亮入道隆佐記』)。ただ中川清秀が村重を止めようとしたという話もあり、このあたりははっきりしていません。
村重は信長と争うにあたり、本願寺や毛利氏と手を結びます。さらに長男・荒木村次に嫁いでいた明智光秀の娘を光秀のもとに返しました。
信長は再度使者を送りましたが村重は謀反をやめませんでした。ここまで信長が村重を引き戻そうとしたのは、本願寺、毛利氏、足利義昭らと争っている最中だったため。三木城の戦いのさなかでもあり、摂津国は押さえておきたかったのです。しかし、村重の裏切りを止められなかった信長は、村重討伐を決定。有岡城の戦いが始まります。
ちなみに、この時に荒木村重を説得しようと単身で有岡城を訪れたのが、黒田孝高(官兵衛)。村重により捕えられ、有岡城が落城するまでの1年超監禁されます。信長は孝高が裏切ったと考え、人質の嫡男・松寿丸(黒田長政)の殺害を羽柴秀吉に命じましたが、竹中重治(半兵衛)がこれに反対して松寿丸をかくまい、信長のもとには偽の首を差し出しました。その後重治は病で命を落としますが松寿丸は無事のまま。有岡城の落城後に助け出された孝高と無事に再会しています。
有岡城の戦い②高山右近・中川清秀の裏切り
織田信長は荒木村重討伐に向け、5万の兵とともに出陣します。『信長公記』によると、織田軍は滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆、氏家直通などを茨木城(大阪府茨木市)に向かわせるとともに、織田信忠・信雄・信孝ら織田家と不破直光、前田利家、佐々成政、金森長近らを高槻城(大阪府高槻市)に向かわせました。
これを迎え撃つ荒木軍は、荒木村重が本城である有岡城に入り、約1万5000の兵を場内に配置。茨木城には中川清秀が3500、高槻城には高山右近が3000の兵とともに入りました。このほか村重の息子・荒木村次は尼崎城(兵庫県尼崎市)に入っていました。
信長がしたことはまず、中川清秀と高山右近の調略でした。まずは高山右近対策。右近は熱心なキリスト教徒だったため、京都地区の布教責任者だったイタリア人宣教師・オルガンティノィーノに、右近が信長につくよう説得するよう命じました。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、この際信長は右近が信長に従うならキリスト教を擁護し、のぞむだけの黄金と領土を与えることを約束したそうです。また、『信長公記』によればこの際信長は説得に失敗した場合は「宗門を断絶する」、つまりキリスト教徒たちを滅ぼすと脅しています。
右近が村重についた理由は、妹や息子が人質にとられていたためでした。このため人質が戻れば信長につくと約束した右近でしたが、人質はなかなか取り返せません。このため右近は人質とキリスト教徒たちを守るため、「どちらもつかない」ことを決意。領地や家族を捨て、剃髪して出家したうえで紙でできた衣のみを身に着け、オルガンティーノ達とともに信長のもとを訪れました。
右近は、「城は信長に差し出し、領地も部下もない状況になるため信長とともに村重を攻めることはできない、このため人質は処刑されないだろう」と考えたのです。この行動が功を奏し、信長は着ていた小袖や馬、摂津・芥川郡を右近に与えます。また、村重は人質を殺さず右近に返しました。
右近の調略に成功した信長。次は茨木城にこもる中川清秀を調略します。清秀の妹が古田重然(織部)に嫁いでいた縁を信長は利用し、織部を派遣して清秀と交渉したのです。信長は摂津国での12万石の領地と、信長の娘を清秀の嫡男に嫁がせることを条件に清秀に寝返りを求めます。これに乗った清秀は信長につくことを決意し茨木城を開城しました。
一説によれば、清秀はあらかじめ村重に「信長からこのような申し出を受けたのだが」と報告し、信長に帰属するよう説得。しかし、村重は「自分の志は定まっている」としたうえで、「多くのものが離反した。貴君も信長につかれるとよい」と清秀が信長に降ることを容認したそうです。清秀は村重の片腕的存在の猛将で、村重にとっては大きな痛手でしたが、これに信長は大喜びし、清秀にさまざまな品を下賜しています。
有岡城の戦い③荒木村重が少人数で尼崎城へ「脱出」
着々と荒木村重を追い詰める織田信長軍。次々と荒木方の武将を調略し、12月8日には有岡城への攻撃を本格的に開始しました。鉄砲隊や弓隊を活用しつつ総攻撃をおこない、火矢で町を放火しましたが、惣構の有岡城は堅固で落ちません。この戦いで織田軍は万見重元や2000の兵士を失う痛手を追いました。このため信長は兵糧攻めに切り替え、周囲に付城を構築させて城を取り囲みます。
一方の荒木軍は、尼崎城を拠点とした毛利氏や雑賀衆からの援助により何とか籠城を続けていました。4月には小競り合いもありましたが、基本的には籠城を続ける荒木軍。毛利氏の援軍を待っていたのですが、なかなか動かない状況に耐えかねたのか、戦闘開始から約10ヶ月後の天正7年(1579年)9月2日、村重が動きます。なんと宵闇に紛れて家臣5、6人とともに有岡城を脱出し、嫡男の荒木村次のいる尼崎城(尼崎市)へと移動したのです。
この村重の尼崎城への移動については、以前は「茶器のみをもって『逃げた』」と批判されていましたが、近年の研究によれば補給拠点かつ陸上・海上交通の要衝でもある尼崎城に移動することで、毛利氏や雑賀衆の援軍を得て劣勢な状況を立て直すことを狙ったのではと言われています。事実、村重は尼崎城についてから毛利氏に対し援軍を求める書状を送っています。これに対し織田方の動きは早く、9月12日には村重の脱出を知った織田信忠が伊丹にいた兵の半分を率いて尼崎に攻め、砦を2ヶ所築いて尼崎城に圧力をかけています。
有岡城の戦い④有岡城が落城、関係者は全員処刑
一方で荒木村重が脱出したのちの尼崎城といえば、兵たちの士気が大きく低下していました。そんなチャンスを逃さず、滝川一益が調略を仕掛けます。その結果、有岡城の西側の防衛拠点だった上臈塚砦の守将・中西新八郎が足軽大将数名とともに信長方につきました。10月15日には織田軍は総攻撃を開始し、上臈塚砦経由で城内への進入に成功。城内は焼き討ちされ、荒木軍は本丸に後退しました。
そして11月19日、織田信長は城を守っていた荒木久左衛門(池田知正)などの村重の配下達と「尼崎城と支城の花隈城を明け渡せば、それぞれの妻子を助命する」という約束を交わします。このため久左衛門達は自らの妻子を残して尼崎城に向かって出発するのですが、村重は説得を受け入れることはありませんでした。加えて説得に向かった久左衛門達も妻子や兄弟を見捨てて逃げてしまいます。
このため12月13日、織田方は尼崎近くの七松で有岡城に残っていた122名を磔にし、512名を家に押し込めて焼き殺しました。さらに村重の妻「たし」をはじめとした村重の近親者など36名を、京都の六条河原で斬首しています。こうして有岡城の戦いはかなり後味の悪い形で戦後処理を終えることになるのでした。
一連の対応について『信長公記』は、信長は哀れに思ったが、悪人を懲らしめるために有岡城の妻子や家臣たちを成敗することを決定した旨と、関係者の妻子や子どもたちの悲しい最期を記しています。そのうえで「荒木方がこの期に及んで城を明け渡さず、人質となっている妻子や肉親を見捨てて自分たちだけが助かろうとするのは前代未聞の成り行き」「気丈な武士といえども涙を流さずにはいられなかった」「これほど多数の成敗は史上初めて」と残された人々への同情たっぷりの記述が多々あります。当時の武士たちから考えると、相当あり得ないことだったでしょう。このため、後々まで荒木村重は「一族を見殺しにし妻子を見捨てた男」と非難され続けることになります。
なお、その後村重は尼崎城からも逃げて花隈城(兵庫県神戸市中央区)に入り、信長への抵抗を続けます。1580年(天正8年)の「花隈城の戦い」で織田方の池田恒興に敗れたのちは毛利氏を頼って亡命。その後隠遁生活を送り、茶人「道薫」として羽柴秀吉に仕えながら堺ですごしたのち、天正14年(1586年)に病死したと言われています。謀反の結果、自分だけが生き残る羽目になった村重。晩年の心中はいかほどのものだったのでしょうか…。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。