摺上原の戦いと黒川城会津の名門・芦名氏が残した「敗者の美学」を辿る旅

日本の旅侍編集部
[執筆者] (メディア)

天正十七年(1589年)、会津の地で歴史を大きく動かす戦いが起きた。
それが「摺上原の戦い」である。

伊達政宗の会津制覇を決定づけた摺上原の戦い。なぜ名門・芦名氏は敗れたのか?そして、その敗北が今の若松城にどのような記憶を残しているのか紐解きます。

勝者は、奥州の若き覇者 伊達政宗。
敗者は、会津の名門 芦名義広。

この一戦により、会津の支配権は芦名氏から伊達氏へと移った。
そしてその象徴となった城が、会津の中心に構える黒川城、すなわち現在の 若松城 である。

しかし、ここで語りたいのは勝者の栄光だけではない。
歴史を動かしたのは「勝利」ではなく、「敗北」だったという視点である。

会津を制する者が奥州を制す

戦国期の会津は、東北南部の交通と経済を押さえる要衝だった。
日本海側と太平洋側を結び、関東へも通じる。
豊かな米どころでもあり、軍事拠点としても申し分ない。

この地を治めていたのが芦名氏である。
代々、会津を治めてきた名門であり、その居城が黒川城だった。

一方の伊達政宗は、父・輝宗の死後、急速に勢力を拡大していた。
米沢を本拠とする伊達氏にとって、会津は次に狙うべき要地だった。

両者の緊張は、やがて摺上原で爆発する。

摺上原 ― 若き覇者の決断

摺上原は、現在の福島県猪苗代町周辺にあたる高原地帯である。
視界が開け、騎馬戦にも適した地形だった。

1589年6月、伊達軍約2万、芦名軍約1万6千ともいわれる兵が対峙する。

政宗は当時23歳。
若き当主は、正面突破ではなく、機動力を生かした戦術を選んだ。

芦名軍は内部対立も抱えていた。
重臣の裏切り、統率の乱れ。
戦はわずか数時間で決着する。

芦名軍は総崩れとなり、義広は会津を追われた。
名門は、この一戦で実質的に滅亡する。

ここに、会津の歴史は大きく転換した。

黒川城 ― 支配権が移った瞬間

摺上原で勝利した政宗は、黒川城へ入城する。

黒川城は会津盆地を一望する要害であり、周囲を湿地と川に守られていた。
堅牢な城であったが、戦いは城ではなく野戦で決した。

城とは、単なる建物ではない。
「誰がそこに座るか」がすべてを決める。

芦名の居城だった黒川城に、伊達政宗が入った瞬間。
それは、会津の支配権が移った瞬間だった。

城郭そのものは変わらない。
石も土も、昨日と同じ場所にある。
だが、その象徴する意味は一夜にして変わる。

城は、勝者の器であり、敗者の記憶を内包する存在なのである。

現在、摺上原古戦場には『三忠碑』などの石碑が点在しています。猪苗代湖からの風を感じながら歩くと、当時の兵たちの咆哮が聞こえてくるようです。かつての激戦地に立ち、それから若松城の石垣を眺めると、歴史の重みがより一層深く胸に迫ります。

敗者の美学 ― 芦名氏が残したもの

敗北は、単なる終わりではない。

芦名氏は名門として会津を長く治め、文化と統治の基盤を築いた。
その蓄積があったからこそ、政宗は会津を即座に掌握できた。

敗者は歴史の表舞台から消える。
だが、彼らが築いた土台は消えない。

摺上原の敗北は、芦名氏の終焉であると同時に、会津という地域が新たな時代へ移る通過点だった。

「敗北」は歴史を動かす触媒なのである。

しかし、勝者もまた永遠ではない

興味深いのは、その後の展開である。

摺上原の勝利からわずか一年後、政宗は 豊臣秀吉 の小田原征伐に参陣する。

天下統一を進める秀吉の前で、独立大名としての伊達氏の自由は制限される。
会津は最終的に 蒲生氏郷 に与えられ、政宗は会津を去ることになる。

つまり、黒川城を奪った政宗もまた、会津の主ではあり続けなかった。

城はさらに改修され、のちに若松城と呼ばれ、江戸時代には会津藩の中心となる。
そして幕末には 戊辰戦争 の激戦地となる。

城は何度も主を変え、そのたびに「敗北」と「再生」を繰り返してきた。

若松城を歩くということ

現在の若松城は、赤瓦の天守が美しく復元されている。
観光地として整備され、桜の名所としても知られる。

だが、石垣を見上げるとき、そこに刻まれた時間の層を感じてほしい。

芦名の終焉。
政宗の入城。
蒲生氏郷の近世城郭化。
そして幕末の砲撃。

一つの城が、幾度も敗北と再出発を経験してきた。

摺上原の戦いは、単なる戦国の一戦ではない。
「支配者が入れ替わる瞬間」を体現した出来事である。

かつてここを黒川城と呼び、芦名氏が400年治めた

歴史を動かすのは勝利か、敗北か

勝者は歴史書に名を残す。
だが、時代を動かすのは、敗北によって生じる「空白」である。

芦名氏の敗北があったからこそ、伊達政宗は会津へ進出した。
そしてその変化が、奥州全体の勢力図を塗り替えた。

敗者の物語を辿るとき、城は静かに語りかけてくる。

「ここで、歴史が動いた」と。

若松城を訪れるとき、ただ天守を眺めるのではなく、
かつてこの城に入れなかった者、追われた者の視点を重ねてみたい。

城は勝者の象徴であると同時に、敗者の記憶装置でもある。

摺上原の風は、今も会津の空に吹いている。
その風は、勝利の歓声よりも、敗北の静けさを伝えているように感じられる。

参考文献・参考資料
記事カテゴリ
敗者の美学と城
場所
福島県
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