大内義隆(2/2)西日本随一の実力者

大内義隆

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人物記
名前
大内義隆(1507年〜1551年)
出生地
山口県
関連する城

兵をあげられた義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしましたが雨のために進むことが出来なくなり、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこで抵抗を試みます。

しかし奮戦虚しく大内義隆はこの時、討ち取られました。義隆の実子の大内義尊も捕らえられ殺害されたので周防大内氏はこの時、事実上滅亡しました。

陶晴賢が主導する事になった大内家。陶晴賢は義隆の養子であった大内義長(義隆の父大内義興の娘が大友氏に輿入れし出来た男子で大友宗麟の異母弟、大内義隆の甥)を大内家の新当主につけ傀儡します。しかし厳島の戦いで陶晴賢が亡くなると大内義長も毛利家に追い込まれ自刃してしまいました。

周防国の守護大名であった大内家。応仁の乱では大内義隆の祖父大内政弘が西軍の主力として戦い奮戦します。大内義隆の父義興の時には京に上洛し一時は京を牛耳り「天下人」とまで呼ばれました。

そして大内義隆。北九州から中国地方までを勢力下とし、貿易と文化に力をいれます。しかし重臣であった陶晴賢の裏切りにあい、栄華を誇った大内家はこうして滅びたのでした。

大内文化

室町時代を通して、大内氏によって統治された山口は大きく栄えました。特に町の発展と文化事業に力を入れ山口は「西の京」と呼ばれます。歴代の当主の中でも力を入れた当主が次の三人。

  • 第9代当主大内弘世(1325年-1380年)
  • 第14代大内政弘(1446年- 1495年)
  • 第16代大内義隆(1507年-1551年)

大内弘世は時の将軍2代足利義詮に謁見する為に京へ上ります。この時、京を見た弘世は山口の町に大路小路を作り京風の市街地を整備します。大内政弘の頃になると海外との交流で得た利益で経済基盤が安定し、文化興隆に力を入れます。

大内義隆は京にいた貴族や文化人を保護する事で文治政治を推し進め、山口を訪れたルイス・フロイスはその繁栄ぶりに関して多くの記述を残しています。また義隆はフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許し、日本で初めての南蛮寺(大道寺)においてクリスマス行事が行われるなど西洋文化も流入しました。

残念ながら戦国時代の戦禍で残っていないものもありますが、代表的な建築物として以下があります。

瑠璃光寺五重塔(国宝。日本三名塔)
山口市香山町にある曹洞宗の寺院で「西の京、山口」を代表する五重塔です。嘉吉2年(1442)頃に建立され大内文化の最高傑作ともいわれています。京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもあります。
古熊神社本殿(国の重要文化財)
山口県山口市にある天満宮で「山口の天神様」とも称されています。
八坂神社本殿(国の重要文化財)
応安3年(1370)大内弘世が京都の祇園神社から勧請した神社です。本殿は永正17年(1520)に大内義興によって再建され、現在では国の重要文化財として指定されています。
花岡八幡宮閼伽井坊多宝塔(国の重要文化財)
花岡八幡宮閼伽井坊多宝塔は、藤原鎌足が創設したと伝わる八幡宮日本十六塔のひとつです。高さは13m、柿葺屋根が特徴の閼伽井坊多宝塔となっています。また、閼伽井坊は、花岡八幡宮の社坊九か寺の1つにもなっており、真言宗御室派の寺院となっています。山号の「華岳山」ですが、「閼伽」とは仏に供える清浄な水。閼伽井とはこれを汲む井戸のことで、こうした深い意味を持った山号を掲げています。

大内氏と勘合貿易

大内家は度々大規模な軍事行動を起こしています。また山口では文化興隆も行っていました。ところが大内家の領地は広大ですが、さほど生産性の高い地域ではありません。

しかし石見銀山を押さえていた事での運上利益、また九州商業の中心地である博多や港町門司を支配していたことでの貿易利益があったことで経済力は他の大名より突出していました。特に海外貿易には力を入れていました。

日本と中国明王朝との交易(日明貿易)を開始したのは3代将軍足利義満でした。この室町時代前期、大内家は倭寇(海賊)の取り締まりを行う傍ら私貿易を行います。大内氏が百済の王の末裔を称していたことから、特に朝鮮王朝と関係を築いていました。

応仁元年(1467)に応仁の乱が起こると堺を窓口とした貿易を行う細川吉兆家と博多門司を窓口とした大内家とが正式な日明貿易の担い手を巡り対立します。応仁の乱の東軍大将であった細川勝元の子、細川政元が暗殺されると(永世の錯乱)大内義隆の父大内義興が京へ上洛。細川政元の養子たちの一人細川高国と結び京を牛耳ります。大内義興は軍事的な力を背景に、日明貿易の権利を独占しました。

ところが山陰の尼子家や九州の状況が悪くなると大内義興は山口へと引き上げます。再び日明貿易は大内家、細川家が行っていきましたが大永3年(1523)、明の貿易港寧波で大内家と細川家とが争い大内家は排除されてしまいました寧波の乱(にんぽーのらん)。

こうして一端、貿易から排除された大内家でしたが再開させたのが大内義隆でした。天文5年(1536)義隆は日明貿易を再開し、博多商人たちを中心とした貿易で莫大な利益を生み資金を手に入れる事になります。

大内家による貿易の品目は以下のようなものになります。

  • 輸出品・・・ 硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯
  • 輸入品・・・ 明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器

大内家は主力輸出品を領内で確保しようと模索します。鉱物は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有し、灰吹法が出来た事から石見銀山の銀産出量は飛躍的に増大させその量は世界の三分の一を占めたと言われています。

大内氏館と高嶺城(こうのみねじょう)

大内氏館は山口市大殿大路に建てられた城館で、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館(守護館)でもありました。建築時期は1400年代半ば第13代大内教弘の頃に建てられたと推測され西の京として賑わった事と思います。

高嶺城は大内氏館のすぐ裏手の山に詰め城として防御の際の山城として建てられました。大内家最後の当主大内義長は、天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢の敗北、自害という結果に憂慮します。戦いに勝った毛利元就の侵攻に備えるべく、高嶺城は弘治2年(1556年)より築城が開始された。ところが毛利家の侵攻は予想よりも早く、大内義長は抵抗しましたが最期は自害してしまいました。翌年、同地に元就の嫡男毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立しています。

現在では「大内氏遺跡 附(つけたり)凌雲寺跡」として国の史跡に指定され、平成9年(1997年)から始まった復元事業で土塁・西門・庭園などが復元整備されています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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