大内義隆西日本随一の実力者
大内義隆
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- 名前
- 大内義隆(1507年〜1551年)
- 出生地
- 山口県
東西に分かれて争った応仁の乱。この時、西軍の主力となったのが周防の守護大名大内家でした。更に応仁の乱の後、都を事実上統べていた細川政元。その政元が暗殺されると大内家は一時的に京を牛耳ります。そんな力のある家に生まれたのが大内義隆でした。義隆は中国地方から北九州を勢力下に収め、西日本随一の実力者となりました。今回は西日本の実力者、大内義隆について見ていきます。
周防大内氏とは
大内義隆が生まれた周防大内氏。大内氏の興りは他の大名や武家と出自が異なります。日本の武家はおよそ「源平藤橘」やその他の中央の貴族の末裔であったり、それを自称していたりします。
例えば織田信長。信長は祖を平家としています。
例えば徳川家康。家康は祖を源氏としています。
ところが大内氏は「源平藤橘」ではなく百済の聖明王の子を祖としていました。周防国(現在の山口県)多々良浜に着岸した事から「多々良」姓を名乗り、その名が歴史に出てくるのは平安時代後期です。更に周防国大内村に居住した事から多々良姓から大内姓へと変わりました。平安時代には周防国の役人をしていましたが、鎌倉、南北朝、室町と時代が移るに従い周防国の守護大名へとなります。
さて、大内義隆の祖父大内政弘は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)を迎えた事から応仁の乱では山名宗全の西軍主力として戦います。戦い途中、東軍の大将細川勝元、西軍の大将山名宗全の両名が亡くなり和睦しましたが、その後も大内政弘は京にあって戦い続け、将軍足利義政の斡旋で京を退去した事で応仁の乱は終了しました。
その大内正弘の子、大内義隆の父である大内義興です。義興は、細川政元が殺害された永世の錯乱の後に上洛。一時は京を牛耳り「天下人」とまで呼ばれる権勢を誇りました。そして大内義興の子、大内義隆の時代が来ます。
大内義隆の誕生
大内義隆は永正4年(1507)、周防、長門、石見、豊前国の4ヶ国守護である大内義興の嫡男として生まれました。幼名は亀童丸(きどうまる)。この亀童丸は父や祖父など歴代当主の名乗ったものでした。父は義隆にこの名をつける事で生まれた時には次期当主として明確に示す必要がありました。というのも大内家は家督相続の際に内紛が度々起こったので、それを未然に防ぐ必要から付けました。
永正17年(1520)の前後に10代将軍足利義稙から偏諱を受けて元服し、義隆と名乗っています。
家督相続
元服を済ませた大内義隆は、大永4年(1524)には父に従って安芸国(現在の広島県)に出陣します。重臣の陶興房と供に安芸国守護武田家が治めていた佐東銀山城を攻めています。この大内家の進出に山陰の尼子家が刺激され交戦しました。同じ時期に義隆は京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えます。
そして享禄元年(1528)父の大内義興が死去した事で、義隆は22歳で家督を相続します。重臣の陶興房に補佐され大過なく相続を行いました。ここまでは大内義隆の順風な人生が続きます。
九州遠征
享禄3年(1530)大内義隆は、北九州に向け侵出する。豊後国(現在の大分県)の大友氏や筑前国(現在の福岡県)の少弐氏などと争います。肥前国(現在の佐賀、長崎県)の松浦氏を従属させ、北九州沿岸を確保し大陸貿易の手段を確保しました。ところが少弐氏の家臣龍造寺家兼の反攻にあって大敗も経験し一進一退を繰り返します。
天文3年(1534)、その龍造寺家兼を調略し少弐氏から離反させると少弐氏の弱体化を図ります。一方で北肥前の九州探題・渋川義長を攻め、渋川氏を滅亡に追い込んだりしました。
天文5年(1536)、大宰府の最高責任者である大宰大弐に叙任されると、大内義隆は北九州攻略の大義名分を得ます。龍造寺家とともに肥前多久城での戦いで少弐家を亡ぼし北九州地方の平定をほぼ完成させました。
吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い
天文8年(1539)、父の代から大内義隆を補佐していた陶興房が病没します。陶氏は大内氏の傍流右田氏の一族であり、大内氏の祖である多々良姓を元とする譜代の重臣でした。陶興房の亡き後、陶氏は興房の子である陶晴賢が跡を継ぎます。
さて天文9年(1540)の事です。山陰地方で飛躍した尼子家が安芸国に侵攻します。大内家の配下に属していた毛利元就の居城吉田郡山城を攻めました。義隆は陶晴賢を総大将とした援軍を送り撃退します。(吉田郡山城の戦い)
翌年の天文10年(1541)には安芸国の守護安芸武田家を亡ぼし安芸国を制圧下に置きます。
そして同じ年、尼子家を飛躍させた尼子経久が死去します。大内義隆はこれを尼子家攻略の好機と見て、天文11年(1542)自ら出雲国に遠征して尼子氏の居城月山富田城を攻囲しました。ところが配下の国人衆の寝返りにあって大敗します。(月山富田城の戦い)
文治体制
大内義隆が主宰した月山富田城の戦いは大敗に終わりました。しかもこの戦いでは寵愛していた養嗣子の大内晴持(土佐国一条氏に嫁いでいた大内義隆の姉の子)を失い、やる気を失ってしまいます。義隆は対外遠征に興味を失い次第に内政や文化振興に力を入れるようになりました。内政専念派の相良武任らを重用し国内政治を優先させます。ところがこの義隆の態度に武断派の陶隆房や内藤興盛らが不満を募らせました。兎も角も文化振興と国内政治を優先させた義隆。
天文16年(1547)、大内義隆は最後の遣明船を派遣しています。天文19年(1550)、山口に来たフランシスコ・ザビエルに引見しています。この時ザビエルは義隆の仏教保護などを非難した事で布教を許可しませんでした。ザビエルは畿内へ旅立ちます。
同じ年、陶や内藤らが謀反を起こすという噂が流れます。義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もりました。このときの反乱は風評に終わっていますが既にこの時、陶晴賢は大内義隆を廃し新たな当主を建てる事を模索した節もあります。
天文20年(1551年)、義隆はザビエルを再び引見しています。この時ザビエルは前回の反省から献上品を送るなどしたため、布教の許可を与え拠点として大道寺を与えました。
大寧寺の変と義隆の死
天文20年(1551)、大内義隆と関係の悪化した陶晴賢ら武断派は朝廷の上意を受けたとして謀反を起こします。重臣の内藤興盛もこれを黙認し、義隆を助ける事はしませんでした。
兵をあげられた義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしましたが雨のために進むことが出来なくなり、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこで抵抗を試みます。
しかし奮戦虚しく大内義隆はこの時、討ち取られました。義隆の実子の大内義尊も捕らえられ殺害されたので周防大内氏はこの時、事実上滅亡しました。
陶晴賢が主導する事になった大内家。陶晴賢は義隆の養子であった大内義長(義隆の父大内義興の娘が大友氏に輿入れし出来た男子で大友宗麟の異母弟、大内義隆の甥)を大内家の新当主につけ傀儡します。しかし厳島の戦いで陶晴賢が亡くなると大内義長も毛利家に追い込まれ自刃してしまいました。
周防国の守護大名であった大内家。応仁の乱では大内義隆の祖父大内政弘が西軍の主力として戦い奮戦します。大内義隆の父義興の時には京に上洛し一時は京を牛耳り「天下人」とまで呼ばれました。
そして大内義隆。北九州から中国地方までを勢力下とし、貿易と文化に力をいれます。しかし重臣であった陶晴賢の裏切りにあい、栄華を誇った大内家はこうして滅びたのでした。
大内文化
室町時代を通して、大内氏によって統治された山口は大きく栄えました。特に町の発展と文化事業に力を入れ山口は「西の京」と呼ばれます。歴代の当主の中でも力を入れた当主が次の三人。
- 第9代当主大内弘世(1325年-1380年)
- 第14代大内政弘(1446年- 1495年)
- 第16代大内義隆(1507年-1551年)
大内弘世は時の将軍2代足利義詮に謁見する為に京へ上ります。この時、京を見た弘世は山口の町に大路小路を作り京風の市街地を整備します。大内政弘の頃になると海外との交流で得た利益で経済基盤が安定し、文化興隆に力を入れます。
大内義隆は京にいた貴族や文化人を保護する事で文治政治を推し進め、山口を訪れたルイス・フロイスはその繁栄ぶりに関して多くの記述を残しています。また義隆はフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許し、日本で初めての南蛮寺(大道寺)においてクリスマス行事が行われるなど西洋文化も流入しました。
残念ながら戦国時代の戦禍で残っていないものもありますが、代表的な建築物として以下があります。
- 瑠璃光寺五重塔(国宝。日本三名塔)
- 山口市香山町にある曹洞宗の寺院で「西の京、山口」を代表する五重塔です。嘉吉2年(1442)頃に建立され大内文化の最高傑作ともいわれています。京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもあります。
- 古熊神社本殿(国の重要文化財)
- 山口県山口市にある天満宮で「山口の天神様」とも称されています。
- 八坂神社本殿(国の重要文化財)
- 応安3年(1370)大内弘世が京都の祇園神社から勧請した神社です。本殿は永正17年(1520)に大内義興によって再建され、現在では国の重要文化財として指定されています。
- 花岡八幡宮閼伽井坊多宝塔(国の重要文化財)
- 花岡八幡宮閼伽井坊多宝塔は、藤原鎌足が創設したと伝わる八幡宮日本十六塔のひとつです。高さは13m、柿葺屋根が特徴の閼伽井坊多宝塔となっています。また、閼伽井坊は、花岡八幡宮の社坊九か寺の1つにもなっており、真言宗御室派の寺院となっています。山号の「華岳山」ですが、「閼伽」とは仏に供える清浄な水。閼伽井とはこれを汲む井戸のことで、こうした深い意味を持った山号を掲げています。
大内氏と勘合貿易
大内家は度々大規模な軍事行動を起こしています。また山口では文化興隆も行っていました。ところが大内家の領地は広大ですが、さほど生産性の高い地域ではありません。
しかし石見銀山を押さえていた事での運上利益、また九州商業の中心地である博多や港町門司を支配していたことでの貿易利益があったことで経済力は他の大名より突出していました。特に海外貿易には力を入れていました。
日本と中国明王朝との交易(日明貿易)を開始したのは3代将軍足利義満でした。この室町時代前期、大内家は倭寇(海賊)の取り締まりを行う傍ら私貿易を行います。大内氏が百済の王の末裔を称していたことから、特に朝鮮王朝と関係を築いていました。
応仁元年(1467)に応仁の乱が起こると堺を窓口とした貿易を行う細川吉兆家と博多門司を窓口とした大内家とが正式な日明貿易の担い手を巡り対立します。応仁の乱の東軍大将であった細川勝元の子、細川政元が暗殺されると(永世の錯乱)大内義隆の父大内義興が京へ上洛。細川政元の養子たちの一人細川高国と結び京を牛耳ります。大内義興は軍事的な力を背景に、日明貿易の権利を独占しました。
ところが山陰の尼子家や九州の状況が悪くなると大内義興は山口へと引き上げます。再び日明貿易は大内家、細川家が行っていきましたが大永3年(1523)、明の貿易港寧波で大内家と細川家とが争い大内家は排除されてしまいました寧波の乱(にんぽーのらん)。
こうして一端、貿易から排除された大内家でしたが再開させたのが大内義隆でした。天文5年(1536)義隆は日明貿易を再開し、博多商人たちを中心とした貿易で莫大な利益を生み資金を手に入れる事になります。
大内家による貿易の品目は以下のようなものになります。
- 輸出品・・・ 硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯
- 輸入品・・・ 明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器
大内家は主力輸出品を領内で確保しようと模索します。鉱物は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有し、灰吹法が出来た事から石見銀山の銀産出量は飛躍的に増大させその量は世界の三分の一を占めたと言われています。
大内氏館と高嶺城(こうのみねじょう)
大内氏館は山口市大殿大路に建てられた城館で、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館(守護館)でもありました。建築時期は1400年代半ば第13代大内教弘の頃に建てられたと推測され西の京として賑わった事と思います。
高嶺城は大内氏館のすぐ裏手の山に詰め城として防御の際の山城として建てられました。大内家最後の当主大内義長は、天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢の敗北、自害という結果に憂慮します。戦いに勝った毛利元就の侵攻に備えるべく、高嶺城は弘治2年(1556年)より築城が開始された。ところが毛利家の侵攻は予想よりも早く、大内義長は抵抗しましたが最期は自害してしまいました。翌年、同地に元就の嫡男毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立しています。
現在では「大内氏遺跡 附(つけたり)凌雲寺跡」として国の史跡に指定され、平成9年(1997年)から始まった復元事業で土塁・西門・庭園などが復元整備されています。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。