徳川家慶天保の改革と黒船来航、内憂外患に揺れた12代将軍

徳川家慶

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徳川家慶(1793年〜1853年)
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東京都
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江戸城

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江戸幕府の将軍の中でもやや影が薄めなのが、第12代将軍・徳川家慶。しかし、家慶の時代には天保の飢饉に父・徳川家斉の大御所政治、天保の改革にペリー来航と、時代の転換点となるさまざまな出来事が起こりました。今回は「人材登用力に優れていた」とも評価されている家慶について、分かりやすく解説していきます。

50年間統治した徳川家斉の次男として誕生

徳川家慶は寛政5年(1793年)5月、第11代将軍の徳川家斉の次男として生まれました。父・家斉は在職50年に及ぶ長期政権を築き、側室の子を含め55人の子どもをもうけた「オットセイ将軍」として知られます。

次男の家慶は本来であれば将軍にはならないはずでしたが、長兄の竹千代が家慶が生まれて1か月後に夭逝したことで、将軍の跡継ぎとなりました。

家斉は約50年にわたり政治の実権を握り続け、幕府内では賄賂が横行し、政治的な腐敗が続きます。さらに家斉は贅沢な生活を好みました。加えて多くの側室と子どもを残したことで大奥の費用もかさみ、幕府の財政は破綻寸前でした。一方で、贅沢を好む将軍の気風は華やかな町人文化「化政文化」を生み出します。

そんななか、天保4年(1833年)から天保8年(1837年)にかけては大規模な「天保の大飢饉」が起こり、百姓一揆や打ちこわしが頻発します。

第12代将軍に就任、「そうせい様」と揶揄される

社会情勢が不安定となるなか、天保8年(1837年)4月、家慶は家斉の隠居により将軍職を継承します。もっとも、家斉はその後も大御所として政治の実権を握り続けました。以降、家斉が亡くなるまでの時代は「大御所政治」と呼ばれています。

父が実権を握るなか、家慶は政治に対し無気力になっていきます。家慶は家臣や大御所の意見(というより、決定)に対し「そうせい」と言うのみだったことから「そうせい様」と揶揄されました。

大御所時代には、天保8年(1837年)7月に米国商船「モリソン号」を砲撃により追い払った「モリソン号事件」が、天保10年(1839年)にはモリソン号事件を批判した渡辺崋山や高野長英らが弾圧される「蛮社の獄」が起こっています。

幕府の権威が失墜するなか、天保11年(1840年)には庄内藩、長岡藩、川越藩の三方領地替えが実施されます。川越藩主の松平斉典が財政難のなかで豊かな庄内藩への国替えを望んだことから起こった領地替えで、斉典は家斉の子である斉省を養子に迎えることで国替えを訴えました。これは当時の老中・水野忠邦の画策でした。

ところがこれに庄内藩の領民たちが大反発。庄内藩は長らく酒井家が治めており、領民との関係も良好でした。このため、領民は江戸城に登城する幕閣に直接訴状を渡す命がけの「駕籠訴」を実施します。さらに、領国内でも反対運動が起こり、隣の仙台藩に愁訴する領民もいたのだとか。この一連の騒動は「天保義民事件」と呼ばれ、幕府の腐敗を表す一例として知られています。

家斉の死後、水野忠邦と進めた「天保の改革」

天保12年(1841年)閏1月7日、家斉は享年69歳(満67歳)でこの世を去ります。家斉が亡くなると、徳川家慶は老中首座についていた水野忠邦とともに、家斉の寵臣たちをすぐさま罷免、左遷しました。そして、「遠山の金さん」としても知られる遠山景元や鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門などを登用し、改革に着手します。

5月15日、家慶は誕生日に幕臣を一堂に集め、これまでの享保の改革や寛政の改革にそった新たな改革の実施を宣言しました。これが「天保の改革」のスタートです。

「天保の改革」①倹約令と経済政策

水野忠邦が主導した「天保の改革」は、贅沢を取り締まり、倹約を徹底するとともに幕府の財政難の立て直しをはかるものでした。

忠邦は武士、町人を問わず倹約を呼びかけ、衣食住や娯楽に至るまで細かく制限しました。化政文化で花開いた娯楽は厳しく制限され、多くの寄席は廃業となり、芝居小屋は江戸郊外の浅草に移転させられました。人気役者として派手な暮らしをしていた七代目市川團十郎は江戸から追い出され、人情本作家の為永春水などが処罰されています。

さらに、江戸っ子の初物禁止など、制限は細かなところまで及びました。大奥にもメスを入れたことから、忠邦は大奥からかなり恨まれることになります。

また、忠邦は田沼意次が奨励した同業者組合「株仲間」を解散させました。株仲間は市場を独占的に支配し、商品の料金を一定に保つための組合で、入るためには商売する権利の「株」を得る必要がありました。このため、新規参入が難しいという欠点がありました。

天保の改革の当時、天保の大飢饉や度重なる改鋳による貨幣の質の低下でインフレ状態にありました。このため忠邦は株仲間を廃止し、経済の自由化を促進することで商品の値段を下げようとしたのです。ところが、既存の流通システムの混乱を招き、ひいては経済の混乱に繋がったことで、施策は大失敗に終わりました。

また、忠邦は天保の飢饉による廃農で、年貢が減少し、都市人口が急増したことへの対策として、「人返し令」を発布。農民出身者を強制的に帰郷させようとしました。しかし、遠山景元の反対により、強制的なものではなく新たに人別帳に農民が加わることを禁じる「人別帳ベース」のものに変更されます。強制力がなくなったことで、人返し令はあまり効果が出ませんでした。

天保の改革②武士・大名の反発を招いた上知令

天保の改革のなかでもっとも武士や大名から大反発されたのが「上知令」でした。天保14年(1843年)6月、江戸・大坂周辺の大名・旗本領を全て幕府直轄地とするもので、土地を取られた大名や旗本には代替地を用意するというものでした。しかし、これに大名や旗本は大反発!領地替えに係る費用に加え、同じだけ年貢を得ることができる土地が代替地になるか分からなかったためです。

この上知令への反発が原因となり、水野忠邦は天保14年(1843年)閏9月13日、辞表を提出するはめとなり、天保の改革は終了しました。

その後、幕政は土井利位が主導しますが、江戸城の火事をきっかけに家慶の不興を買い失脚。外国船往来問題もあり、再び水野忠邦が老中首座に就任しますが、すぐに病を理由に辞任しています。代わって弘化2年(1845年)に阿部正弘が老中首座へ就任し、政治を主導していくこととなります。

天保の改革③異国船来航と海防強化への転換

徳川家慶は外国船の接近にも悩まされました。文政8年(1825年)、父の徳川家斉の時代に異国船打払令が出され、外国船は全て追い払うようにということが決まりましたが、天保8年(1837年)、漂流していた日本人7名の送還と日本との通商を目的に訪問した、米国商船のモリソン号を砲撃で追い払った「モリソン号事件」で幕府は批判されます。その批判が加速したことで、蘭学者の渡辺崋山や高野長英などが幕府により弾圧された「蛮社の獄」が起こりました。

また、天保12年(1842年)、2年にわたるアヘン戦争の結果、清がイギリスに敗北したことは、日本にも衝撃を与えました。

諸外国の力を実感した幕府は翌天保13年(1843年)7月、天保の薪水給与令を出し、遭難した外国船に対しては燃料や水、食料などを与えて退去させるよう、穏便な方向に方針転換しています。さらに幕府は西洋の技術を取り入れながら全国的に海防を強化し、外国船の来航にそなえました。

薩摩藩の跡継ぎ問題「お由羅騒動」への関与

徳川家慶は薩摩藩で起こった「お由羅騒動」にも関与したとされます。薩摩藩第10代藩主・島津斉興の跡継ぎ問題で、側室・お由羅の方の子・島津久光を支持する久光派と、正室の子である嫡子・島津斉彬を支持する斉彬派が対立していました。

本来ならば嫡子の斉彬が跡継ぎになるのですが、斉興は久光を溺愛して斉彬に家督を譲りたがらず、斉彬が40歳になっても隠居しなかったのです。また、斉興は斉彬が蘭学に傾倒していたことから「斉彬が跡を継げば藩の財政が傾くのでは」と不安視しており、重臣の調所広郷等も同じ考えでした。

一方、薩摩藩内の若手武士や、老中・阿部正弘はアヘン戦争などによる外圧を受け、海外事情に明るい斉彬を支持しました。

両者の対立が激化するなか、斉彬派は嘉永元年(1848年)、薩摩藩が琉球で行っていた密貿易を老中・阿部正弘に密告します。密貿易はいわば「公然の秘密」でしたが、一歩間違えれば改易になりかねない大胆な策でした。これにより調所広郷が罪をかぶる形で服毒自殺します。さらに、斉彬派は斉彬の子どもが相次いで死んだのは「お由羅による呪詛調伏のせいだ」と主張しました。

これに対し、久光派筆頭の斉興は頑なに隠居を拒否。いらだつ斉彬派は久光やお由羅の方の暗殺計画を企て(たとされ)、嘉永2年12月(1850年1月)、斉彬派の中心人物たちが切腹を命じられ、斉彬派の50人ほどが蟄居や流罪になりました。

大きな打撃を受けた斉彬派は斉彬の大叔父にあたる福岡藩主・黒田長溥のもとに逃げ込み、長溥経由で老中・阿部正弘に事態の収束するよう助けを求めました。

正弘が家慶に働きかけた結果、家慶は斉興に茶器を下賜することで、暗に引退を促しました。将軍から圧力をかけられた斉興は嘉永4年(1851年)2月に引退。斉彬は藩主となり、のちの幕末政局に大きな影響を及ぼすことになります。

ペリー来航のさなかに死去

嘉永6年(1853年)6月3日、マシュー・ペリーがアメリカ東インド艦隊を率いて浦賀に来航しました。日本の開国と通商を目的に日本を訪れたペリーは、当時のアメリカ合衆国大統領・フィルモアの国書を渡そうとしていました。

この当時、徳川家慶は病に倒れており、交渉は老中首座の阿部正弘が担当しました。正弘はこれまで幕閣のみで決定してきた外交方針について、譜代大名だけでなく外様大名にも意見を求めます。これは幕政運営としては異例の対応でした。

幕府内部でも開国か攘夷かで意見が分かれるなか、正弘は病床の家慶に報告します。しかし、家慶は水戸藩の第9代藩主の徳川斉昭と相談するよう命じただけで、どうすべきかの指示は出しませんでした。

結局幕府は国書を受け取るとともに、将軍が病気であることから返答に1年の猶予を求めました。ペリーはそれを受け入れて6月12日に江戸湾を離れます。

ペリーがいなくなったのに安心したのか、家慶は6月22日に病没しました。死因は暑気あたり(熱中症)による心不全だったと言われています。享年61歳でした。

徳川家慶の跡継ぎ問題―家定と慶喜

徳川家慶の後継問題は、幕末の政治の行方を左右する重要なポイントでした。家慶には父・家斉ほどではないにせよ側室が多く、子どもも14男13女と多かったのですが、後継となる男子はほとんど夭折しています。

元服まで生き残ったのは四男の徳川家定と、五男で一橋家当主・徳川斉位の養子として一橋家を継いだ徳川慶昌のみ。慶昌は当主に就任した翌年の天保9年(1838年)5月に亡くなっており、将軍の位を継げるのは徳川家定のみでした。

しかし、家定は病弱で人見知りが激しく、将軍に向いているとは言えませんでした。症状から今でいう痙性麻痺だったと言われています。さらに17歳の時にかかった疱瘡(天然痘)の痘痕が顔に残っていたことも、人前に出るのを嫌がる原因だったようです。

このため、家慶は水戸藩主・徳川斉昭の七男で、一橋徳川家を継いだ一橋慶喜を次の将軍にすべきでは、と考えました。しかし、阿部正弘など幕閣が「嫡子を優先すべき」と反対。家慶は最終的に家定を後継と定めます。家定は天保12年(1841年)に世子となり、嘉永6年(1853年)に第13代将軍へ就任しました。

こうして家慶の跡を継いだ家定ですが、5年後の安政5年(1858年)7月に亡くなりました。家定の時も後継者争いが起こっており、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が後ろ盾となった一橋慶喜が候補者として擁立されました。争いの結果、慶福が第14代将軍の徳川家茂として跡を継いでおり、家慶の嫡流はここで断絶しています。そして時代は幕末の動乱期となり、次代は第15代将軍・徳川慶喜となるのです。

徳川家慶の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1793年 寛政5年 0歳 5月6日、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城に生まれる
1816年 文化13年 23歳 将軍世子となる(兄の死去により後継者に)
1837年 天保8年 44歳 第12代征夷大将軍に就任
1837年 天保8年 44歳 大塩平八郎の乱が発生
1837年 天保8年 44歳 モリソン号事件が起こる
1841年 天保12年 48歳 水野忠邦による「天保の改革」が開始
1843年 天保14年 50歳 上知令を発布するが反発により失敗
1844年 弘化元年 51歳 水野忠邦が失脚、天保の改革が事実上終結
1853年 嘉永6年 60歳 ペリー艦隊が浦賀に来航(黒船来航)
1853年 嘉永6年 60歳 6月22日、江戸城にて死去(在職中)
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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。