ペリー黒船来航で日本を揺るがした米海軍提督の実像

ペリー

ペリー

記事カテゴリ
人物記
名前
ペリー(1794年〜1858年)
出生地
神奈川県
関係する事件

1853年(嘉永6年)7月、アメリカ海軍のマシュー・カルブレイス・ペリーが率いる艦隊が浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。いわゆる「黒船来航」は、日本の政治・外交・社会に大きな衝撃を与え、幕末の動乱の幕開けとなりました。さらに翌年には再び来航し、江戸幕府と日米和親条約も締結しています。今回はそんな黒船来航の主役・ペリーについて詳しく解説します。なお、年号については西暦で、一部和暦を併記します。

ペリーの生い立ちと海軍での歩み

マシュー・カルブレイス・ペリー(以下ペリー)は1794年4月10日、アメリカ合衆国ロードアイランド州のニューポートで、米国海軍大尉の三男として生まれました。2人の兄も海軍所属という海軍一家で育ったペリーは幼いころから海軍にあこがれていたようで、1809年、わずか14歳で父や兄と同様にアメリカ海軍に入隊します。

1812年からは米英戦争(第2次独立戦争)に参加したペリーは、その後アフリカや地中海、ロシアなどさまざまな場所に派遣され、各地の艦隊で海軍士官としてのキャリアを積み重ね、指揮官としての能力を磨いていきます。また、1814年にはニューヨークの商人ジョン・スライデルの娘・ジェーンと結婚しています。

「蒸気船海軍の父」としてのペリー

ペリーの時代は蒸気船の黎明期でした。1807年には米国の芸術家で発明家のロバート・フルトンが外輪式蒸気船「クラーモント号」で蒸気船航路を開設し、世界で初めて蒸気船の実用化に成功しました。その後、蒸気船は次々と実用化されていきますが、米国海軍の導入は遅かったのです。

そんななか、ペリーは米国海軍への蒸気船の導入を推進しました。1833年、ペリーはニューヨークのブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年に米海軍初の本格的な蒸気船「フルトン号」の初代艦長に就任しました。さらに同年海軍大佐に昇進しており、翌年3隻の蒸気船を建造しました。ちなみに3隻の蒸気船の1隻が、後に「黒船」と呼ばれることになる「ミシシッピー号」です。

こうした功績により、1840年6月、ペリーはブルックリン海軍工廠の司令官に就任。以降も蒸気船の普及に努めたことから、ペリーは米国で「蒸気船海軍の父」と呼ばれています。

このほか、ペリーは海軍士官の教育改革や灯台施設の改善などに取り組み、多岐にわたって活躍しました。そして1852年3月、ペリーは東インド艦隊司令長官に任命され、日本との開国交渉に注力していくことになります。

ペリーによる日本遠征の背景

それではなぜ、米国はこのタイミングで日本にペリーを派遣したのでしょうか。1850年代といえば、米国では産業革命が行われており、綿花製品の輸出先として中国(清)との貿易を強化しようとしていました。

当時、清は1840年から42年までのアヘン戦争で英国と戦った結果、大敗。英国は1842年に南京条約を締結し、これにより広州や上海をはじめとした5港の開港、香港島のイギリスへの割譲、賠償金の支払いなどが決まります。後に締結された追加条約では、清の関税自主権の喪失、英国の片務的最恵国待遇、領事裁判権が認められました。

米国はこの南京条約をチャンスととらえ、条約に準じた内容で1844年に「望厦条約」を締結しました。清との最初の修好通商条約にあたるこの条約により、米国は清へと本格的に進出しますが、清との貿易の中継地点として日本の港を利用しようと考えたのです。

また、当時米国は捕鯨産業が最盛期を迎えていました。太平洋で操業する捕鯨船は日本近海を通過することが多く、捕鯨船の難破者の保護や薪や水、食料などの補給港の確保が必要でした。日本の港は、米国にとって大変魅力的な場所にあったのです。

こうした状況下で、米国政府は日本に対し条約締結を目指す方針を固め、艦隊を率いて日本との交渉に当たる人物としてペリーを任命しました。

黒船来航①ケープタウン経由で日本へ

1852年11月、ペリーは蒸気船「ミシシッピー号」に乗り込み、バージニア州のノーフォークを出発します。浦賀来航の際は4隻による艦隊でしたが、船の故障や既に清に到着していたことなどから、最初は1隻での航海でした。

東インド艦隊司令長官に任命されたペリーには、米国大統領ミラード・フィルモアの親書に加え、宛先が白紙のままの、米国の印綬を押した信任状も与えられました。ペリーはかなり広い自由裁量権を持った状態で、日本へと向かったのです。

ペリーはケープタウン経由でシンガポールや香港、上海などを経由しながら日本を目指します。上海では蒸気船「サスケハンナ号」に旗艦を変更し、4隻体制で1953年5月に上海を出発。その後、琉球王国(沖縄)や小笠原に立ち寄っていますが、これは日本政府に開国を拒否された際、2ヶ所を最低限の補給港とするため、住民と交流を持とうというペリーの考えがあったためです。ペリーの提案は米国政府も容認しています。

ペリーは武力を盾にした「砲艦外交」で琉球王国の首里城で政府との交渉を実施。親書を渡すことに成功しました。その後、一部の兵を残して小笠原諸島を探検し、現地在住の米国人から土地を買い取り、那覇に戻りました。そして4隻の船とともに浦賀に向かって北上しました。

黒船来航②浦賀に黒船現る

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の早朝、ペリーが率いる艦隊が伊豆半島沖に姿を現します。船は蒸気船「サスケハナ号」と「ミシシッピー号」、帆走船の「サラトガ号」と「プリマス号」の4隻でした。

江戸湾に向かった艦隊は江戸湾を北上し、17時ころに浦賀沖に到着して錨を下ろしました。日本側からの攻撃を警戒し、乗組員たちは臨戦態勢をとっており、物々しい雰囲気でした。

黒船の来航は江戸中の騒ぎとなり、幕府も臨戦態勢をとりました。幕府は1825年(文政8年)に「異国船打払令」を発出し、訪れる異国船をすべて追い払うよう命じていたからです。アヘン戦争での清の敗戦を受け、1842年(天保13年)に遭難船に限り燃料や水、食料などを与えて退去させる「天保の薪水給与令」を出したとはいえ、遭難船以外は受入を拒否し、追い払うのが原則でした。

実はペリーの来航は1852年(嘉永5年)時点でオランダから予告されていまましたが、情報を持っていたのは上層部のみ。現場の人間は大慌てでした。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も寝られず」という風刺狂歌がその様子を表しています。

黒船来航③ペリーが米国大統領の親書を手渡す

幕府側は状況を素人浦賀奉行所与力の中島三郎助を向かわせますが、ペリーはこれを拒否。三郎助が「副奉行」であると身分を詐称して交渉すると、ペリーは船内に乗り込むことを受け入れました。この時ペリーは米国大統領の親書を渡す目的であることを幕府側に説明しましたが、「副奉行では身分が低すぎる」と親書を預けることを拒否します。

その後、日本側が長崎に船を回すよう主張するのに対し、ペリーはあくまでも「親書を受け取れるレベルの高官」の派遣を求めます。加えて江戸湾を北上して測量を続け、猿島を「ペリーアイランド」と名付けるなど日本を調査。品川沖では空砲を鳴らすなど恣意的行為を続けました。

さらに親書を受け取れる高レベルの役人を派遣しない場合、「兵とともに上陸して江戸に向かって将軍に手渡す」と幕府を脅しました。このため幕府は国書を受け取ることを決定。当時の将軍・徳川家慶は病床にあったとから、老中首座の阿部正弘が対応にあたりました。

こうして幕府はペリー一行に対し、久里浜(現神奈川県横須賀市)への上陸を許可。7月14日、ペリーは米国海兵隊とともに上陸し、幕府軍が警備するなか、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道と会見して親書を手渡しました。この際、幕府側は将軍が病気であることを理由に回答を先延ばしするよう求めるとともに、「回答は長崎で行う」と主張しています。

ペリーは返事の遅れについて理解を示しましたが、幕府には「返事を聞くために一年後に再来する」と伝えました。なお、この際外交上の交渉等は行われていません。その後ペリーは次回の訪問に備えて測量を行うなどしたのち、7月17日に日本を出発し、香港に向かいました。

米国からの長旅にもかかわらず、幕府の高官に親書を渡すだけにとどまったペリー。実は、船の石炭、食料・水などの備蓄不足や、清が1851年から続く太平天国の乱による政情不安で、米国人居留者保護のために軍艦を清に送る必要があったなど、さまざまな要因から長居ができなかったのです。

思ったより早かった?ペリー再来

ペリーは琉球王国を経由して香港に戻りますが、その際英国香港貿易局から「小笠原諸島は英国領である」と小笠原での土地買収を咎められてしまいます。この件は紆余曲折ありましたが、ペリーは国際問題になることを避けるため謝罪し、買収は米国政府の指示ではなく個人的判断でおこなったものであると説明。以後所有権を主張しませんでした。

ペリーは香港で日本再来の準備を進めますが、実は黒船来航の少し前、1853年3月4日、米国本国で大統領がこれまでのホイッグ党のフィルモアから民主党のフランクリン・ピアースに代わると、米国政府は日本進出に徐々に消極的になっていきました。さらに砲艦外交から温和外交に方針が転換されると、ピアースは11月14日、ペリーの権限を制限する訓令を出し、外交権限を公使に与えます。清に駐在する米国公使からは、太平天国の乱が続く清で米国居留民を保護するため、東インド艦隊のリソースを使うよう命じられるようになりました。

こうした米国内の事情に加え、ペリーが浦賀を去った直後の1853年7月27日、将軍・徳川家慶が病死したことや、7月18日にロシアからプチャーチンが長崎をを訪れて開国交渉をしていることなどから、ペリーに焦りが生まれます。しかもペリーはリウマチが再発し、健康を害していました。自らかかわった日本海国をぜひとも実現させたい。ペリーの気持ちは高まります。

こうした要因から、ペリーは当初予定よりも早い1854年1月14日、蒸気船3隻、帆船6隻の9隻で香港を出発し、日本に向かいました。訓令違反では?と思うこの行動ですが、実は本国で出された訓令はまだペリーの元には届いていませんでした。ギリギリのタイミングで、ペリーは日本への再来に成功したのです。

ペリー再来と日米和親条約締結

ペリー率いる黒船艦隊は1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、旗艦「サスケハナ号」など9隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求めました。予期せぬ早い来訪に混乱する幕府でしたが、横浜を交渉場所に指定してペリーと会合を開きます。

米国の代表はもちろんペリーと、副官のヘンリー・アダムズ。対する日本側の「応接掛」は林大学頭(林復斎)を筆頭に、江戸町奉行の井戸覚弘(前職は長崎奉行)、浦賀奉行の伊澤政義、目付の鵜殿長鋭の4名が中心となりました。

交渉は難航し、ペリーは武力行使をにおわせるとともに、珍しい贈り物や宴を通じて幕府を懐柔しようとします。一方の幕府は「ぶらかし」戦法、つまりのらりくらりと戦争を逃れ、鎖国を何とか続けようとします。こうした外交合戦の結果、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、横浜で12か条からなる日米和親条約が締結されました。

日米和親条約では、ペリーが求めた通商は幕府側が断固として拒否。しかし、物資補給や補給港の開港などは幕府が折れて承諾しました。これにより「伊豆下田」の即時開港、「松前地箱館」の翌年3月の開港と、各港での薪水、食料、石炭、その他航海のための不足の補給の許可、漂流民の救助と保護、米国の最恵国待遇が決定しました。

その後、ペリーと幕府は開港を控える箱館と下田を訪問。下田の了仙寺(静岡県下田市)では日米和親条約の細則を定めた下田条約を締結します。条約締結後、ペリーは7月に琉球王国に入り、日米和親条約に準じた内容の「琉米修好条約」を締結しました。

晩年のペリー

ペリーは琉球から香港を経て、1855年1月2日にニューヨークに到着します。目標だった日本開国については通商が認められなかったため実現できませんでしたが、ペリーは「日米和親条約の締結は米国にとって大きな一歩」と、米国内で自身の功績をアピールします。米国国内ではペリーの成果は称賛され、ペリーはニューヨーク名誉市民に認定され、議会からは報奨金を得ました。

その一方でペリーの砲艦外交を批判する声も出ており、晩年は順風満帆、というわけにはいきませんでした。晩年のペリーはアルコール依存症、痛風、リウマチを患っており、体調不良のなかで米政府より依頼された『日本遠征記』の編纂監修に取り組みました。名誉職には就いたものの、実務の第一線からは退きました。1857年12月に『日本遠征記』の編纂を終えると、翌年1858年3月4日、ペリーはニューヨークでリウマチ性の心臓発作により死去。享年63歳でした。

関係する事件
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。