水野忠邦天保の改革を実施した出世意欲旺盛な老中

水野忠邦

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名前
水野忠邦(1794年〜1851年)
出生地
東京都
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江戸城

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江戸時代の三大改革のひとつ「天保の改革」。江戸幕府の財政難を立て直すため、天保12年(1841年)から天保14年(1843年)、老中・水野忠邦により実施されましたが、理想主義的な内容とあまりの強引さで多くの反発を受けて改革は頓挫し、忠邦は政界から退くことになりました。今回は天保の改革を実施した水野忠邦がどんな人物だったのかを、掘り下げて解説します!

唐津藩主の次男として生まれる

水野忠邦は寛政6年(1794年)6月23日、肥前国唐津藩(現佐賀県唐津市)の第10代藩主・水野忠光の次男として生まれました。長男の兄が早世したことで跡継ぎとなり、文化9年(1812年)に家督を相続します。

忠邦の父・忠光は藩主就任後、すぐに自身が政治に積極的にかかわる藩主親政の姿勢を打ち出しました。その流れを追う形で、忠邦も自ら藩政改革に乗り出します。財政難だった唐津藩の立て直しをはかり、自らの衣服料を切り詰めるなど質素倹約に努めました。

その一方で忠邦は出世をめざし、賄賂などを用いて権力者に取り入り、文化13年(1816年)に奏者番に就任しました。奏者番は大名や旗本が将軍に謁見する際、謁見者の名前を読み上げるほか、進物や下賜品の取り次ぎなどを担当する役職で、幕府における出世の登竜門的存在でした。

財政難に苦しむ中、なぜ忠邦は出世にこだわったのか。理由ははっきりとわかっていませんが、幕府の要職に就くということは「家の誉れ」という名誉欲に加え、賄賂をはじめ数々の利権を得ることができるというメリットも一因だったようです。

唐津藩を捨て、浜松藩に転封

水野忠邦は幕府内での更なる出世を目指しますが、その足かせになったのが唐津藩でした。唐津藩は重要な拠点である長崎港の警護を担当する「長崎見廻役」の役目を負っており、老中などの重職に就かないことが慣例だったのです。

このため忠邦は出世のための国替えをはかり、賄賂を使ったロビー活動を展開します。忠邦がすり寄った人物が、同じ「水野」姓を持つ水野忠成でした。忠成はもともと「岡野」姓でしたが、水野忠隣の養子となって家督を相続し、徳川家斉の側近として台頭し、老中に就任していました。

こうした根回しが奏功し、忠邦は文化14年(1817年)、遠江国浜松藩(現静岡県浜松市)への転封を実現させました。石高としては唐津藩6万石に対し、浜松藩は5万石でしたが、幕府は近江浅井などの飛び地領1万石を与えたため、石高は計6万石となりました。

石高だけを見ると同程度の転封に見えますが、実質石高を見ると唐津藩約25万石に対し、浜松藩は約10万〜15万石。このため家臣達は浜松への転封を必死になって反対しました。なかでも財政改革の責任者を務めていた水野家家老の二本松義廉は、忠邦に転封を再考するよう何度も訴えましたが、忠邦は聞き入れず激怒しました。このため義廉は抗議のため自決してしまいましたが、忠邦は出世優先で押し切りました。

浜松藩に転封が決定した文化14年(1817年)9月、忠邦は寺社奉行になります。さらに文政8年(1825年)には大坂城代に、文政9年(1826年)に京都所司代となり、侍従に任ぜられて同年12月には越前守に就任。文政11年(1828年)には西丸老中、天保5年(1834年)には水野忠成の病没に伴い、代わって本丸老中に就任します。

老中に就任も、家斉の大御所政治に苦しむ

本丸老中になった水野忠邦ですが、当時政権を握っていたのは第11代将軍の徳川家斉でした。家斉といえば贅沢な生活を好んで浪費を繰り返し、55人の子どもを作ったことで大奥の生活費や子どもの養子・降嫁費用などが莫大なものになり、幕府の財政が非常に悪化したことで知られています。このため、水野忠成は財政難を改善するために度重なる貨幣の改鋳を実施し、差益により幕府の財政を無理やり立て直しました。

ところがこの改鋳が原因で大規模なインフレが起こりました。さらに天保4年(1833年)から天保8年(1837年)にかけて天保の大飢饉が発生し、各地で打ちこわしや百姓一揆、ひいては元幕府役人による「大塩平八郎の乱」が発生し、混迷の時代が訪れました。

家斉は天保8年に跡継ぎの徳川家慶に将軍職を譲りますが、以前として権力を握り続ける「大御所政治」を継続しました。そんななか、忠邦は天保9年(1838年)の西の丸の火災の際、避難誘導・消火などに尽力したことが認められて1万石を加増されました。さらに天保10年(1839年)には老中首座に就任します。

老中首座となった忠邦は奢侈の禁止をはじめとした倹約令を発出して財政改革に取り組もうとしますが、大奥や家斉の寵臣たちからの反対にあい、なかなか改革を進めることができませんでした。さらに天保13年(1842年)にはアヘン戦争で清がイギリスに敗北しており、忠邦は諸外国の動きを警戒。江戸湾防備の強化に努めますが、こちらも家斉による長期政権による緩み切った空気でなかなか進みませんでした。

家斉の死後、天保の改革を実施

天保12年(1841年)閏1月7日に家斉が亡くなると、徳川家慶は水野忠邦とともに家斉派閥の幕閣を次々と罷免し、大奥を縮小し、鳥居耀蔵や渋川敬直、後藤三右衛門などの有能な人材を登用します。ちなみにこの三人は「水野の三羽烏」と呼ばれており、天保の改革の中心人物として幕政改革を展開していきます。

同年5月15日、家慶は天保の改革を宣言しました。こうして忠邦は経済政策や物価統制、帰農策、倹約・風紀粛清、対外防備策など次々と政策を打ち出していきます。

天保の改革①経済政策で株仲間を解散

天保の改革ではインフレ対策をはじめさまざまな経済政策が実施されました。代表的なものが「株仲間の解散」です。株仲間は同業者による組合で、当時市場を独占的に支配していました。競争を避け、一定の料金で商品を安定的に供給していましたが、水野忠邦は株仲間による独占を物価高の原因と考え、天保12年(1841年)から翌年にかけて、株仲間解散令を発布しました。

これでインフレが落ち着く…と思いきや、株仲間の解散により江戸・大坂を結ぶ既存の問屋・信用・輸送ネットワークが破壊され、流通の停滞を招く結果となりました。さらに、問屋は資産の価値のある「株」を担保に借り入れなどをおこなっていたため、株仲間の解散は金融収縮を招き、問屋の廃業にも繋がりました。結局株仲間の解散は失敗に終わり、嘉永4年(1851年)に株仲間は再興されています。

また、忠邦は天保13年(1842年)、「銭相場公定に伴う物価引き下げ令」を発布してインフレからの脱却を目指します。家賃や給料の値下げの命令なども出し、物価は下がったものの、商人側は品質・内容量の調整で対応したことであまり効果を示しませんでした。

天保の改革②帰農を促す「人返しの法」

天保改革の際に大きな課題となっていたのが、都市への人口集中でした。天保の大飢饉による相次ぐ凶作で、村を捨てて都市に出てきた元農民達により、江戸の人口は急増し、治安が悪化していたのです。また、廃農の増加による耕地の荒廃は、米の収穫量の減少を招きました。

このため忠邦は天保14年(1843年)に元農民を帰農させるための「人返しの法」を発令。同時に農村からの出稼ぎを禁止し、農村人口の減少を食い止めた上で、米の収穫量の増加、つまり年貢収入の土台を維持しようとしたのです。

当初は強制送還を検討していましたが、北町奉行の遠山景元らの反対により、人別帳改めの強化を軸とするゆるやかな内容のものへと修正されました。このため効果は限定的なものにとどまっています。

このほか、忠邦は新田開発などをめざし、印旛沼の開拓にも取り組んでいますが、忠邦の失脚により、ほぼ完成目前で中止されています。

天保の改革③倹約令と風紀粛清

水野忠邦は厳しい倹約令を出したことでも知られます。庶民だけでなく武士や大奥を対象にこまごまとした経費削減策を決定し、倹約するよう命じました。

また、風俗粛正と出版統制を推進し、歌舞伎や浮世絵の規制を強化します。寄席はほとんど廃業となり、歌舞伎小屋も江戸の端にあった浅草に移転。出版統制により人情本が禁止され、浮世絵の場合は役者絵・美人画への規制が強化されました。娯楽が次々と規制される厳しすぎる改革は、人々からの批判を招くことになります。

天保の改革④外国に備える軍事政策

アヘン戦争で清が負けたことにより、西洋諸国に脅威を覚えた水野忠邦は天保13年(1842年)、異国船を打払う方針を転換し、物資を与えたうえで穏便に退去させるための「薪水給与令」を発布しました。異国船打払令の事実上の緩和を行う一方、侵略に備え、西洋式の砲術を導入させるなど国防に予算を割き、軍備を増強しています。

天保の改革⑤改革失敗の大きな原因となった「上知令」

1843年(天保14年)、水野忠邦は江戸・大坂周囲十里(約40km)四方を江戸幕府の直轄地に組み入れる「上知令」を発布し、これを後に全国に拡大します。幕府に接収された大名や旗本には代替地を用意することになっていました。

上知令の狙いは、収益の高い土地を幕領にすることで増収を図るとともに、江戸と大坂周辺を江戸幕府が直接支配し、防備を固めるためでした。しかし、幕府の都合に合わせた勝手な政策は大名や旗本ばかりか領民の怒りを買うことになります。

大名や旗本にとって、領地替えの引っ越し費用は莫大な経費が必要なものでした。また、大名たちは領民に先納金等のかたちで借金をしていたため、領民からは「領地替えで借金が踏み倒されるのでは」との懸念の声も上がりました。

上知令にともない、幕府は借金の棄捐令を出して対策仕様としますが、上知令への反対の声は日に日に大きくなり、ついには遠山景元ら腹心も反対するようになります。鳥居耀蔵などは反対の声が大きくなるや否や、忠邦を裏切って上知令反対派に機密書類を横流しました。

結局上知令は忠邦が病で倒れているうちに将軍の名のもと撤回されてしまいました。そして閏9月13日、忠邦は老中を罷免されてしまいます。忠邦は役宅を引き払おうとしますが、天保の改革の専横に怒り心頭の群衆は屋敷の打ちこわしをはかって騒ぎを起こしました。この事件により、「ふる石や瓦とびこむ水の(水野)家」という川柳が詠まれています。

老中首座に再任されるも…

ところが、水野忠邦は弘化元年(1844年)6月に再び老中首座に就任します。実は同年起こった江戸城の火災により、老中首座の土井利位が失脚。加えて3月にフランス船が琉球に来航し、琉球との貿易を求めたこと、5月に「オランダ国王の使者が日本にやってくる」との報があがるなか、こうした外交問題に対峙できる人物は忠邦以外にいなかったことが再起用の要因でした。

しかし、忠邦は正弘ら敵対勢力に抑えられて往年の指導力を回復するには至らず、なおかつ持病も悪化したことで病欠するようになりました。同時代の記録に、御用部屋に木偶の坊のようにぼんやりと座っていることが多かったとの記述も残っています。

結局忠邦は弘化2年(1845年)2月21日に辞職し、代わって阿部正弘が老中首座につきました。なお、忠邦は在職中、裏切った鳥居耀蔵を罷免するなどしっかりと報復人事をおこなっています。

その後、天保の改革時代に耀蔵が砲術家の高島秋帆を陥れて投獄した件に対し、実は忠邦がかかわっていたのではとの疑いがかかったこと、他にも勤務中に不正があったことが発覚したことなどから、忠邦は家督を息子の長男の水野忠精に譲り、隠居・謹慎するよう命じられます。

こうして忠邦は謹慎し、忠精は親の責任を取る形で出羽国山形藩(山形県山形市など)に転封されました。この際、忠精は領民からの借り上げ金などの借金を踏み倒して移封しようとしたため、怒った領民たちが浜松で大規模な一揆を起こしています。

その後、忠邦は病により徐々に弱っていきます。謹慎中だったことで山形についていくことができず、武州豊島郡中渋谷村(東京都渋谷区)の下屋敷でひっそりと生活を送りました。忠精は幕府に謹慎赦免と三田の下屋敷(東京都港区)への引き取りの要請があるものの幕府はなかなか許さず、嘉永2年(1849年)にようやく三田への引っ越しを許可しています。その後、忠邦は嘉永4年(1851年)2月10日、58歳の生涯を閉じました。

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執筆者 (日本の旅侍) 日本の旅侍は全国の城情報を中心に発信するWebメディア。旅侍は日本人による日本の情報を世界に発信することを目指して運営している媒体です。