十返舎一九滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者はどんな人だったのか

十返舎一九

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人物記
名前
十返舎一九(1765年〜1831年)
出生地
静岡県
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江戸時代後期、笑いと風刺を巧みに織り交ぜた滑稽本は庶民を中心に人気を博しました。その滑稽本の代表的な作家が十返舎一九(じっぺんしゃいっく)です。代表作の『東海道中膝栗毛』はベストセラー本となり、一大旅行ブームを巻き起こしました。実はNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公・蔦屋重三郎のもとでデビューした作家でもあるんです。今回はそんな十返舎一九について分かりやすく解説していきます。

十返舎一九とは

十返舎一九は明和2年(1765年)に駿河国府中(現静岡県静岡市)で生まれました。本名は重田貞一で、同心の長男として生まれたと考えられています。若いころ、一九は江戸に出て駿府町奉行を務めていた小田切直年(土佐守)に仕えます。土佐守が大坂町奉行に就任したため大坂に移動し、後に武家奉公をやめて創作活動に励みました。大坂では近松東南に師事していたようで、近松与七の名前で浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』を仲間と合作しています。実はこの辺りは研究者により諸説あり、はっきりとわかっていません。

一九が江戸に戻ったのは寛政6年(1794年)、30歳のときのことで、版元の蔦屋重三郎こと蔦重の食客となります。蔦重のもとで寄宿しつつ、通油町(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町)にあった「耕書堂」で用紙の加工や挿絵描きなどを手伝っていたようです。また、山東京伝の『初役金烏帽子魚』に「一九」として挿絵を描き、これが江戸での初戯作デビューとなりました。

翌寛政7年(1795年)、十返舎一九は蔦重に進められて黄表紙『心学時計草』『新鋳小判𫆓』『奇妙頂礼胎錫杖』を出版しました。ちなみに挿絵は全て自作です。その後、多くの作品を執筆・発表し続けていきますが、なかでも享和2年(1802年)から刊行を開始した『東海道中膝栗毛』シリーズは大ヒット!ベストセラーとなり、続編まで書かれることになりました。

十返舎一九が活躍したころは緊縮・節約重視の寛政の改革(天明7年(1787年)~寛政5年(1793年))が終わり、文化・文政時代(1801~1830年)が訪れていたころです。このころは都市を中心に町人文化が成熟し、庶民の間に文学・芸術をはじめとしたさまざまな娯楽が広がっていました。

寺子屋の普及により識字率も上がり、都市部では貸本屋経由でさまざまな本を手軽に読める環境が整っており、滑稽本や黄表紙が流行していました。さらに五街道が整備され、東海道を旅する人が増加していたのです。そんななか出されたユーモアたっぷりの『東海道中膝栗毛』は庶民たちの心をがっちりとつかみました。

すっかりベストセラー作家になった一九は次々と作品を発表します。ジャンルも黄表紙から洒落本、滑稽本、読本、合本、狂歌集と多種多様で、その生涯で発表した作品はなんと580冊以上!武士と作家の兼業などが多いなか、一九は筆一本で生活を立てており、日本初の「職業作家」だったとも言われています(※諸説あり)。

一九がさまざまな作品を残すことができたのは、大坂や江戸で狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などの芸能や文芸を学んでいたから。下積み時代の知識が作品に生かされているのです。また、旅行記執筆のために取材も積極的におこなっていました。

晩年は飲酒による体調不良で苦労し、徐々に刊行される本数も減っていきました。そして天保2年(1831年)8月7日、江戸・長谷川町(東京都中央区日本橋堀留町)の自宅で病死。享年67歳でした。遺体は浅草永住町(東京都台東区元浅草)にあった東陽院に埋葬されました。なお、東陽院は現在、東京都中央区勝どきに移転していますが、今も一九の墓塔が残されています。

「十返舎一九」の名前の由来は?

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は今でいうペンネームですが、その名前の由来は諸説あります。もっとも有名なのが正倉院にある「蘭奢待(黄熟香)」という香木にあるというもの。蘭奢待は天下の名香として知られており、権力者のシンボル的な存在でした。織田信長をはじめとした時の権力者たちが原木から少量を切り取っています。

蘭奢待は十回焚いても香りを失わないところから「十返しの香」の別名を持っており、「十返舎」の名前はこちらからとのこと。筆名は十遍舎、十偏斎なども用いています。

「一九」については幼名の「市九」から来ているという説が有力です。とはいえ、十返舎一九自身が名前の由来を語ったわけではないのであくまでも「説」ですが…。

このほか、さまざまな研究者が持論を展開していますが、小説家の松本清張は一九の一を 「はじめ(甫)」と読み替え、「舎一」を「舗」と見ると「 十返舗九(とうへんぼく)」と読めるのでは、と推理しています。

十返舎一九の作品①代表作『東海道中膝栗毛』

十返舎一九といえば『東海道中膝栗毛』といっても過言ではないでしょう。弥次郎兵衛と喜多八、通称弥次さんと喜多さんの主人公2名が江戸から東海道を通って伊勢詣でをしたのち、京や伏見、大坂までを旅する様子が描かれた滑稽本で、全8編・17冊です。旅先の失敗談や庶民の生活の様子、ご当地グルメなどがふんだんに盛り込まれた作品で、浄瑠璃や歌舞伎、狂言や落語、川柳など「分かる人なら分かる」ネタも混ざっています。

「珍道中」にふさわしい旅行記は庶民を中心に大ヒットし、旅行ブームが起きました。現在もインフルエンサーがSNSにあげた旅行を追体験する「コピペ旅」がありますが、弥次さんと喜多さんはまさにその先駆けだったのです。

『東海道中膝栗毛』は享和2年(1802年)から文化11年(1814年)まで順次刊行されました。終了後も人気は衰えず、文化7年(1810年)から文政5年(1822年)までは全12編・25冊の続編『続膝栗毛』が刊行されました。続編で弥次さんと喜多さんは香川県の金刀比羅宮や広島県の宮島・厳島神社、善光寺や草津を訪れています。ちなみに本編と続編の刊行時期が重なっているのは、本編の番外編的な一冊『東海道中膝栗毛 発端』が『続膝栗毛』1編目後に出版されたためです。

なお、『東海道中膝栗毛』の1作目の版元は村田屋治郎兵衛(栄邑堂)で、一九を見出した蔦重の「耕書堂」ではありません。実は蔦重は寛政9年(1797年)5月6日にこの世を去っており、残念ながら一九のベストセラーの出版には関われなかったのです。

十返舎一九の作品②人情本の嚆矢『清談峯初花』

十返舎一九は代表作の『東海道中膝栗毛』シリーズ以外にもたくさんの作品を世に送り出しましたが、そのなかでも注目したいのが『清談峯初花(せいだんみねのはつはな)』です。素人作者による写本『江戸紫』をもとに、十返舎一九が出版するために形を整えた人情本(庶民の色恋をテーマにした読み物)で、文政2年(1819年)に初編2冊、文政4年(1821年)に後編3冊が刊行されました。

『江戸紫』は商人の家を舞台に、主人公の惣次郎と許嫁のお組の恋を描いた話です。惣次郎は弟に家督を譲るためわざとお組に冷たい態度をとり、放蕩生活を送った末に家を勘当されます。一方でお組は無理な縁談を拒否したため貧しい生活に苦しみます。途中で惣次郎が他の女性と恋愛関係にあったりといろいろありますが、最後は二人が結婚し、勘当も解かれてハッピーエンドです。

十返舎一九が『江戸紫』を『清談峯初花』としてまとめる際、主人公の名前が捨五郎とお薫と変わりましたが、大まかなあらすじには変更はありません。厳密には一九の作品とは言えませんが、この『清談峯初花』の刊行後、文政4年(1821年)に二世南仙笑楚満人(のちの為永春水)が『明烏後正夢』を発表し、その後人情本の第一人者として大成していくことを考えると、かなり意義のある作品だったといえるのではないでしょうか。

ちなみに一九自身もその後、『所縁の藤波(ゆかりのふじなみ)』などの人情本を書いています。

十返舎一九の作品③黄表紙『化物太平記』

十返舎一九は享和4年(1804年)、黄表紙『化物太平記』を刊行しました。こちらは武内確斎が寛政9年(1797年)から享和2年(1802年)まで記した豊臣秀吉の一代記『絵本太閤記』のパロディ本です。『絵本太閤記』は大人気で人形浄瑠璃や歌舞伎にもなっています。

一九の『化物太平記』で秀吉は小蛇、織田信長はなめくじとなっています。実は続巻が予定されており、徳川家康が「蛙」として登場予定だったとか。この作品は幕府の怒りを買い、一九は手鎖50日に処せられました。

実は元ネタの『絵本太閤記』も絶版になっており、これは幕府が出した「天正年間以来の武士を描いてはいけない」という禁令を破ったからだとも、寺社奉行の脇坂安董の関与があったからだともいわれています。安董については先祖で賤ケ岳の七本槍として知られる脇坂安治を描いたのが問題視されたようです。

結局どういう人だった?一九の面白いエピソード

十返舎一九の辞世の句は「此の世をは とりやお暇に線香の 煙とともに灰さようなら」(※微妙に異なる別バージョンあり)。「おいとまにせん」と「せん香」、線香の「灰」と自分の遺灰、「はい、さようなら」の「はい」をかけた、ユーモアにあふれた言葉遊びたっぷりの句です。

江戸時代は都市部を中心に火葬がおこなわれており、一九も火葬されましたがその際に花火がドーンと打ちあがったという話が残っています。なんと一九は自分の死に装束に花火を仕込んでいたのです!ただし、こちらは後世の創作だといわれています。

このほか、一九については『東海道中膝栗毛』の面白さの影響からか、多くの面白いエピソードが当時や後世の人々により書き残されています。文政7年(1824)に出版された、戯作者・岳亭丘山の『狂歌現在奇人譚』によると、お酒を買いすぎて室内の調度品や正月の鏡餅等が買えなくなったので代わりに壁紙に絵をかいて済ませたり、お酒を飲んで酔っ払って湯槽を借りて頭にかぶって帰ったりしていたのだとか。

年末にやってきた質屋・近江屋を入浴させ、そのすきに羽織を無断で借りて年末のあいさつ回りをしたり、近江屋から借りたお金で近江屋とお酒を飲んで狂歌を詠んで楽しんだり(もはや本末転倒…!)、面白いエピソードがたくさん残されています。

一方で「寡黙な男だった」「きさくな人柄だった」と、文献により正反対のことも書かれています。一九とは少しばかり交流があった滝沢馬琴は、他の人に宛てた手紙で「気質は悪からぬ仁」「浮世第一の仁にて衆人に娯(たの)しがれ候」と、気難しい馬琴としては珍しく誉めています。

結局どういう人物だったのかは定かではありませんが、共通しているのが「酒」に対するエピソードの多さ。お酒が好きだったということは間違いないようです。

江戸時代を代表するベストセラー作家・十返舎一九。『東海道中膝栗毛』をはじめとしたその作品は多くの人に感動と笑顔を届けました。今もなお多くの人々に愛される作品を、ぜひ一度手に取って読んでみることをお勧めします。

関係する事件
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。