江戸幕府最後の武家政権

江戸幕府

徳川家の家紋「三つ葵」

記事カテゴリ
藩史
藩名
江戸幕府(1603年〜1867年)
所属
東京都
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江戸幕府は慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸に開いた武家政権です。鎌倉時代から始まった武家政権の最後であり、徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府ともいわれています。また、開闢から終了までの約250年間小規模な内乱はあれ、大規模な争いが幕末をのぞいて発生しなかった平和な時代でもありました。そんな江戸幕府の歴史を紐解いていきましょう。

江戸幕府開闢から5代将軍徳川家綱の時代まで

慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任して徳川幕府を開きました。

その2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を徳川の世襲とする体制を固めるため、徳川秀忠に将軍職を譲り、自分は駿府城に移ります。しかし、実験を完全に手放さずに朝廷・寺社・西国大名・外交を担当しました。
慶長19年(1614年)にはいまだ脅威であり続けた豊臣を滅ぼすべく大阪冬の陣、夏の陣を起こし、豊臣秀頼とその母親である淀殿を自害に追い込みます。

同じ年、武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定して武家政治の基礎を固めました。
そして元和2年(1616年)~元和5年(1619年)にかけて、九男徳川義直に尾張藩、十男徳川頼宣に紀伊藩、末男徳川頼房に水戸藩を開かせて徳川御三家を作ります。

こうして将軍が長を務める幕府と将軍と主従関係を結んだ大名が長を務める藩で構成される幕藩体制の基礎を築いた徳川家康は、御三家を創設している最中、元和3年(1617年)に数え年75歳で死去しました。

2代目将軍の徳川秀忠は、元和3年(1617年)に中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定し、鎖国への道を歩み始めます。
また、元和8年(1622年)には諸大名へ妻子を江戸に住まわすこと、また大身家臣の人質も江戸に送ることを命じるなど、父家康の志を受け継いで幕府の体制強化に努めました。
秀忠は元和9年(1623年)に家督を次男徳川家光に譲って隠居しますがやはり実権は手放さず、大御所政治を行いました。

3代目将軍徳川家光は寛永12年(1635年)に武家諸法度の改訂を行い、大名に参勤交代を義務づけます。これにより東海道など五街道をはじめとして全国の街道がの整備が進みました。
また、寛永10年(1633年)~寛永18年(1641年)にかけて鎖国を完成させます。この間に江戸時代最大の内乱と呼ばれる「島原の乱」が発生しました。ちなみに、この乱の責任を取らされ、島原藩2代藩主松倉勝家が斬首されています。

徳川家康~家光までの政治は「武断政治」であり、多くの大名が改易や切腹を命じられています。しかし、家光の代を最後に大名の切腹や斬首、さらに50万石以上の大名の改易は行われなくなりました。

寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、全国の藩が大打撃を受けます。この基金をきっかけに農民統制として田畑永代売買禁止令を発布します。
徳川家光は慶安3年(1650年)に病で倒れ、諸行事を4代将軍家綱に代行させますが、隠居はせず翌年没しました。

4代目将軍徳川家綱は末期養子の禁を緩和し、殉死を禁ずるなど父が行った武断政治から文治政治への移行を行いました。
また、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済の発展を促す政策を行っています。
その一方で、家綱には実子がおらず、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて跡を継がせています。徳川綱吉は延宝8年(1680年)に40歳の若さで病死します。

5代目将軍徳川綱吉は将軍職についた直後は天和の治と呼ばれる善政を敷きますが、貞享元年(1684年)に堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると以降大老を置かず、老中ではなく側用人の柳沢吉保らを徴用するようになります。

現在でも有名な悪法「生類憐みの令を」などが発令されたのも、それ以降です。
また、勘定奉行の荻原重秀の提案で貨幣の改鋳も行いましたが、うまくいかずかえって経済が混乱してしまいます。徳川綱吉にもまた子どもができず、家光の三男の子どもである徳川家宣が6代目を継ぎました。

6代将軍徳川家宣~10代将軍徳川家治まで

6代将軍徳川家宣は48歳で将軍職に就くと、宝永通宝の流通と、生類憐れみの令の一部を順次廃止していきます。
また、5代将軍の側用人を勤めていた柳沢吉保の辞任により側用人に間部詮房、学者として新井白石らを登用し、綱吉時代から始まった文治政治を推し進めていきました。
外交では李氏朝鮮や琉球と使節のやり取りを行い、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革も試みますが、将軍についてわずか3年で死去します。
徳川家宣も実子に恵まれず、後を継いだ7代将軍徳川家継はわずか3歳でした。

その徳川家継は3年後の数え年8歳(満6歳)で夭折します。

跡を継いで8代将軍になったのは、初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたる徳川吉宗でした。徳川吉宗は江戸幕府の中興の祖として名高く、近年でも彼を主人公にした時代劇や大河ドラマが作られており、最も知名度の高い将軍といえます。

徳川吉宗は紀州藩主徳川光貞の末男(四男)であり、しかも母親の身分が低かったため、紀州藩主にもなれる可能性が低かった人物でした。それが、相次ぐ父と兄たちの病死によって紀州藩主となり、尾張藩徳川継友と争った末に将軍職に就きます。そこまでの過程も非常にドラマチックですので、興味がある方は調べてみても面白いでしょう。

徳川吉宗は、水野忠之を老中に任命して財政再建を始めます。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化を図り、新田開発を推進しました。また、町火消の設置、大岡忠相の登用などに代表される享保の改革を行います。
彼自身も好奇心の強い性格でキリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁し、長崎に蘭学の流行をもたらしました。

しかし、武芸を強く推奨して質素倹約を推奨したため、文化や経済の停滞を招き地方では百姓一揆が頻発するマイナス面もありました。

徳川吉宗は2代将軍秀忠以来の大御所となり、9代将軍徳川家重に家督を譲った後も実験を握り続け、寛延4年(1751年)に66歳で死去しています。

9代将軍徳川家重は障害により言語が不明瞭で、将軍になってからも大奥にこもりがちだったと言われています。父である8代将軍徳川吉宗の死後は勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令で酒造統制の規制緩和など、評価委に値する経済政策を行っています。
しかし、父吉宗が享保の改革の一環として増税を行い、その負担と飢饉による凶作から一揆が多発し、社会不安が増していきました。このほか御三卿体制が整ったのもこの時代です。

晩年の徳川家重はさらに言語が不明瞭となり、側用人の大岡忠光のみが将軍の言葉を聞き分けることができたため、彼が重く用いられました。そして、大岡忠光が亡くなると将軍職を退いて大御所となり、田沼意次の重用を家治に遺言して宝暦11年(1761年)に数え年51歳で死去します。

10代将軍徳川家治は田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励みましたが、次第に田沼意次にすべてを任せるようになり、本人は趣味の将棋などに没頭し、天明6年(1786年)に死去します。
なお、徳川家治の死後田沼意次即失脚しました。

11代将軍徳川家斉~最後の将軍徳川慶喜まで

徳川家斉は御三卿の一つ一橋家の生まれで、徳川家治の養子となった人物です。将軍に任命されたときは15歳の若さでした。そのため、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信が老中首座につき、彼の主導で寛政の改革が行われます。

寛政の改革は当初は好意的に受け入れられましたが、あまりにも厳格すぎたため次第に批判が強くなり、ついに寛政5年(1793年)松平定信は罷免されます。その後、徳川家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命しますが、忠成はわいろ政治を復活させるなど私腹を肥やすのに積極的だったと言われています。

また、このころになるとアメリカやイギリスの船が日本沿岸にやってくるようになり、「異国船打ち払い令」が発布されます。これにより、防費支出が増大して幕府財政の破綻寸前となります。

貨幣の改鋳も行われましたが、かえって経済的な不安が増すばかりでした。家斉自身もこのころは怠惰な生活を送り、側近に取り立てた林忠英らが幕府の実権を握っていたため幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが深刻になります。それに応えるように大塩平八郎の乱や生田万の乱がおこりました。徳川家斉は天保8年(1837年)、次男・家慶に将軍職を譲りますが実権は手放さず、69歳で死去しました。

12代将軍徳川家慶は老中の水野忠邦を徴用して天保の改革を行います。しかし、天保の改革は徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用し、さらに高野長英や渡辺崋山などの開明的な蘭学者を弾圧する蛮社の獄を行ったため、猛反発を受けて頓挫しました。

また、オランダ国王ウィレム2世の開国勧告を謝絶してもいます。この家慶の時代にぺリーが来航しますが、その対応に追われている中で死去しました。

13代将軍徳川家定は、家慶の4男にあたります。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけで、彼自身も病弱だったと伝えられています。将軍になった後は、嘉永7年(1854年)、マシュー・ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は同年3月3日(3月31日)日米和親条約に調印するなど、幕末の動乱が幕を開けます。もともと病弱であった家定の健康状態はさらに悪化し、世継ぎにも恵まれず幕政は混乱しました。そして最後に後継者として徳川家茂を指名して35歳で生涯を閉じます。

14代将軍徳川家茂は家定の従兄弟にあたる人物です。皇女和宮が降嫁した人物でもあり、天璋院篤姫が養母でもありました。本人は、幕末の動乱の中慶応2年(1866年)、第2次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に伏し、そのまま死亡しています。享年21歳(満20歳)若すぎる死でした。

15代、最後の将軍徳川慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の七男です。また、将軍に在職中一度も江戸城に入らなかった唯一の将軍でもあります。

徳川慶喜は安政7年(1860年)に将軍後見職に就きます。彼はもともと12代将軍家慶の時代から続く将軍の世継ぎ問題に巻き込まれており、本人は将軍につく気がなかったという話も伝わっています。将軍になった後は開国に積極的で、本人は機内で政治を取り続けました。そして、横浜と神戸を開港するなどしましたがその強硬な開国の姿勢に幕臣たちとの摩擦が生じ、薩藩主導の討幕勢力の形成されます。このあたりの流れは映画やドラマ、小説などでも頻繁に描かれていますね。

慶応3年(1867年)徳川慶喜は明治天皇に大政奉還を申し出てそれが受け入れられ、260年以上続いた江戸幕府はここで幕を下ろしました。しかし、政治は相変わらず安定せず、よく明治元年(1868年)には、は薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩が政変を起こして朝廷を掌握し、慶喜を排除しての新政府樹立を宣言します。

その年の12月、戊辰戦争が起こり徳川慶喜は参戦したものの大阪から江戸へ退却し、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いを皮切りに敗北に敗北を喫します。そして新政府軍は江戸城を取り囲みますが、幕府代表の勝海舟と新政府軍代表の西郷隆盛の会談が行われた結果、江戸城は無血開城され徳川幕府は翌明治2年(1969年)に正式に消滅しました。

徳川慶喜はいったん水戸で謹慎して沙汰を待ちましたが、勝海舟や大久保一翁ら旧臣が三条実美や大久保利通など政府高官に働きかけた結果、謹慎を解かれて静岡に移りすみます。明治4年(1871年)徳川慶喜は上京し、明治21年(1881年)には従一位に任ぜられ、公爵にもなっています。

将軍を退いた徳川慶喜は趣味に没頭し、コーヒーを飲んだりサイクリングを楽しんだりわりと自由に余生を楽しみ、大正2年に没しました。

徳川幕府まとめ

徳川幕府は15代将軍が260年にわたって納めた最後の武家政権です。
今もなおこの時代は小説や映画、ドラマに描かれ、私たちは気軽にその時代の空気に触れることもできます。
なお、徳川家は今もなお存続し、一族は文化財保護などの活動に尽力しています。

関係する城
AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。