福知山藩文化人の大名を複数輩出
有馬家の家紋「有馬巴」
- 関係する城
福知山藩は、京都府福知山市に存在していた藩です。
室町時代末期は、本能寺の変で有名な明智光秀の所領でした。
そのため、江戸時代前期まで城主が安定せず、めまぐるしく治める家が変わっていきます。
最終的には朽木家が13代にわたって城主を務めました。
そんな福知山藩の歴史を紐解いていきましょう。
朽木家が治めるまでの福知山藩
福知山の地は、元々織田信長に丹波攻略を命じられた明智光秀が、福知山城を築いて治めていました。
本能寺の変で明智光秀が織田信長を討つと、中国攻めに出立していた羽柴秀吉が異例の速さでとって返して明智光秀を討ち取り、天下を治めました。
その後福知山藩は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで西軍につく野木勝重が最終的に城主となり、細川忠興に討たれます。
その後、福知山の地を任されて最初の城主となったのは、有馬豊氏でした。
彼は6万石で福知山に入り、後に2万石を加えられて8万石の大名となります。
再興された福知山城は有馬豊氏が、明智光秀が築いた福知山城を改修したものです。
彼は、城下町の整備にも力を入れ、福知山藩の基礎を築きました。
元和6年(1620年)、有馬豊氏が久留米藩に移封となると、小堀遠州の名で知られる小堀一政が一度は伏見奉行として福知山の地を治めます。
その後、岡部長盛が移封されて城主となり、行儀三十一カ条の制定などを行ないます。
岡部長盛は治世者として大変有能な人物であり、その後も亀山や大垣などで治世の基礎を築きました。
岡部長盛が移封した後、摂津中島より稲葉紀通が移封されてきます。
この稲葉紀通は狩りで獲物が捕れないからと領民を惨殺するなど気性に問題があった人物でした。
さらに、丹後国宮津藩主京極高広に鰤をねだったことに端を発する稲葉騒動が勃発し、稲葉紀通は幕府から説明を求められた結果、福知山城内で切腹したとも鉄砲自殺したとも伝えられています。
その後、福知山藩を治めたのは、松平忠房でした。かれは24年間城主を務めた後、島原に移り、島原藩を開きました。
朽木家の治世
福知山藩は江戸時代初期、1660年代になるまで治める家がめまぐるしく変わります。
それに終止符を打ったのが、朽木稙昌です。
彼は土浦藩の初代藩主・朽木稙綱の長男として生まれ、寛文9年(1669年)に3万2千石で丹波福知山藩に加増移封されました。
彼は正室の父・岡部宣勝の影響をうけて織部流の茶人でもありました。
しかし、移封の後で福知山では天災が発生、移封の出費も重なってたちまち財政難に陥ります。
そのため、元禄4年(1691年)には家臣の知行の半知、足軽の大量解雇なども行ないました。
この財政悪化は2代目、3代目城主も苦しめられ、4代目藩主である朽木稙治は文治政治に力を尽しますが、たいした成果は上げられませんでした。
5代目藩主である朽木玄綱の代で享保の大飢饉が発生し,「享保の強訴」と呼ばれる大騒動が勃発します。
これを受けて朽木玄綱は自らの生活を極限まで切り詰めて藩の財政を建て直そうと尽力したり、明智光秀御霊法会の開催を許可したりしました。なお、この御霊会法会は現在も御霊会祭として受け継がれています。
6代目藩主の朽木綱貞は、狩野典信に絵を習い、「学古帖」などの作品を残すほど文化的な才能に恵まれた人でした。しかし、政治能力が皆無だったため、家督争いや財政難が深刻化します。
7代藩主朽木舖綱は、『擬独語』を著わし、藩校創設の基礎を築き上げるなど文治政治に尽力しましたが、家督を継いで7年後に改革の道半ばにして病死してしまいました。
8代藩主朽木昌綱は、幼い頃から古銭集めが趣味で安永元年(1772年)には、蘭学の前野良沢に入門します。
同期には「解体新書」を翻訳した杉田玄白などもいました。
オランダ商館長とも盛んに交流し、藩主となった38歳のときには『西洋銭譜』を刊行しました。
その後も、『泰西輿地図説』、『和漢古今泉貨鑑』、『新撰銭譜撰』など数々の著作を世に出し、文化人としては超一流の才能を見せます。
その反面、政治力はあまりなく、藩政は傾き続けます。
なお、彼が集めた古銭はその後藩政建て直しのために海外に売られ、その一部が大英博物館に収蔵されています。
9代目藩主朽木倫綱は36歳の若さで早世。
10代目藩主朽木綱方は、領内で火災などの災害が多発してますます財政が悪化すると藩政に興味を失ってさっさと隠居してしまいます。
11代目藩主朽木綱条も有能な人物で将来の老中候補とも言われましたが、やはり36歳で早世しました。
12代目朽木綱張の時代、原井惣左衛門、市川儀右衛門という2人の人物が「藩政改革」の名の下、領民に重税を課した結果、万延元年(1860年)に大規模な百姓一揆が発生します。
朽木綱張はその責任をとって、幕府から任された奏者番を辞任しました。
その後、幕末に佐幕派として摂津国の海防警備、禁門の変、第二次長州征討に参加しますが、明治維新を見届けないまま53歳で病没します。
最後の藩主である朽木為綱は旧京都所司代邸の警備にあたるなど、佐幕派として活動しますが、鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に合流できずに撤退、そして西園寺公望率いる山陰道鎮撫使に降伏しました。
明治維新後は福知山県藩知事となりますが、明治4年に免官となって東京へ移住します。
その後、再度福知山に戻って困窮している士族の救済に力を尽しましたが、39歳で亡くなりました。
なお、実子の朽木綱貞は陸軍の少将となり火薬の権威として活躍しています。
福知山藩まとめ
福知山藩は朽木家が治めはじめたときから財政が傾きはじめ、幕末まで何度も百姓一揆が起こりました。
代々藩主を務めた方々は文化的な才能にすぐれ、財政が豊かな藩であったらもっと大きな功績を残したかもしれません。
朽木家の所蔵品は現在、福知山城内の郷土史博物館などで定期的に展示されています。
- 関係する城
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。