米沢藩伊達氏・上杉氏が治める

米沢藩

上杉家の家紋「上杉笹」

記事カテゴリ
藩史
藩名
米沢藩(1601年〜1871年)
所属
山形県
関連する城・寺・神社
米沢城

米沢城

関係する城

米沢藩は東北で最も知名度の高い藩であり、伊達氏・上杉氏など大河ドラマにもよく登場する大名達が藩を治めました。江戸時代、藩を治める大名は数年おきに変わることが珍しくありませんが、米沢藩は一貫して上杉氏によって治められました。
ここでは、上杉藩の歴史を紐解いていきましょう。

戦国時代の米沢の治世

室町半ばから戦国時代末期まで、米沢の地を治めていたのは伊達氏でした。伊達家が米沢の地を治めだしたのは天文17年(1548年)とかなり早いのですが、その後天文の乱をはじめ、複数の家内騒動があったため、米沢以外への勢力拡大が遅れます。ようやく伊達家が米沢以外に勢力を拡大しはじめたのは、天正12年(1584年)に伊達政宗が第17代伊達家藩主になってからでした。伊達政宗は破竹の勢いで勢力を拡大させ、二本松畠山家、蘆名家・相馬家など奥州の有力大名を次々と征服します。そして天正17年(1589年)には摺上原の戦いで蘆名家に大勝して黒川城(若松城)を奪い取って本拠地とし、さらに二階堂家・石黒家・岩代家などを滅ぼして奥州の覇者となりました。
しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐で伊達政宗は豊臣秀吉に臣従したことにより、領地を大幅に縮小されてしまいます。さらに、黒川城は蒲生氏郷に明け渡し、豊臣秀吉による検知も許しました。豊臣秀吉の検知は厳しく、奥州の各地でそれに反発した百姓一揆が起こります。伊達政宗は蒲生氏郷と協力してこれを平定しますが、豊臣秀吉は一気を扇動したのが伊達政宗であることと決めつけ、さらに蒲生氏郷を暗殺したと言いがかりに近い罪を着せて伊達家の領地を没収しました。その結果、伊達家は大崎・葛西の領地を治めるだけとなり、米沢の支配は蒲生氏に委ねられます。
しかし、蒲生氏郷が没すると嫡子の蒲生秀行が13歳で後を継ぎました。幼い主君では国がまとまらず、重臣達の諍いが起き、結果的に蒲生氏は18万石に石高を減らされて会津は越後より移封された上杉景勝が治めることになります。
米沢城は上杉景勝の重臣、直江兼続が城主となりました。

江戸時代の米沢藩

豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると、上杉景勝は西軍につきます。このときに直江兼続が徳川家康に送った「直江状」は現在でも有名です。関ヶ原の戦いは徳川家康が率いる東軍が圧倒的な勝利を収め、敗北した上杉景勝は重臣の本庄繁長と直江兼続を伏見城まで赴かせて家康に直接謝罪をします。その結果、上杉家は存続を許されましたが持っていた所領のうち会津など90万石を没収され、出羽米沢30万石だけが手元に残されます。この決定により、上杉家の米沢藩支配体制が確立されました。この頃の米沢は城主である直江兼続もほとんど詰めていなかったため、城下町も人口が数百人しかいない小規模なものだったといいます。それなのに、藩主の上杉景勝をはじめ数千人の家臣団や商人・町人・職人が米沢の城下町に入ってきたため、町は大層混乱しました。城も改築を加えましたが、家臣全てを入れる余裕は無く、上杉景勝は城下町の郊外に下級藩士達だけの町を作りました。

このように、上杉景勝と直江兼続は米沢城の改築、城下町の整備と藩政を調えることに尽力します。元和5年(1619年)には直江兼続が、その4年後の元和9年には上杉景勝が死去し、その跡を上杉定勝が継ぎます。

断絶の危機と石高削減

2代目藩主の上杉定勝・その子上杉綱勝の治世は大きな混乱はありませんでした。上杉定勝は検地を行い年貢制度を定めたほか、キリシタンの取締や質素倹約を家臣に徹底させるなど藩政を調えていきました。米沢城下町の大火や寛永19年(1642年)の飢饉などがありましたが、藩政を揺るがすほどではありませんでした。しかし、上杉綱勝が子息を残すことなく26才の若さで急死すると上杉家は断絶の危機を迎えます。幸い、上杉網勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之の力添えにより、網勝の妹富子と高家の吉良義央の間に生まれていた2才の上杉綱憲を末期養子にすることができました。これにより、上杉家は断絶を免れますが、幕府により罰として信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が削減されます。つまり、石高が半分になってしまいました。

なお、上杉綱憲の生母富子が嫁いだ吉良家とは赤穂浪士の討ち入りで大石内蔵助らに討たれた吉良上野介が連なる家です。赤穂浪士の討ち入りが起こったのは、上杉綱憲41才の頃ですが、その後綱憲は生母富子を上杉へと引き取っています。また、上杉綱憲は教学振興や風俗統制、役職整備、歴史編纂といった文治政治を敷きますが、そのお陰で財政が逼迫しました。また、生家である吉良家へたびたび援助を行っており、これもまた上杉家の財政を逼迫させる原因になったと言われています。綱憲は元禄17年(1704年)死去しますが、そのころには米沢藩の財政はかなり逼迫しています。

上杉綱憲の跡を継いだのは庶子として生まれた上杉吉憲です。藩主となってすぐに江戸幕府に普請を命じられるなど重い負担を課せられました。そのため、藩の財政はますます厳しくなり、ついには参勤交代の費用もままならないほどになります。上杉綱憲は39才で死去し、跡を継いだ上杉宗憲も22才の若さで死去します。上杉宗憲は後継ぎがいなかったので、弟の上杉宗房が新たに藩主の座に就きますが、彼もまた29才の若さで亡くなりました。その間、藩の財政は傾く一方であり、有効な策もないまま時だけが過ぎていきます。また、年貢の未納も深刻になっていました。
上杉宗房の跡を継いだ上杉重定は上杉吉憲の子息で、上杉宗憲や上杉宗房の弟にあたります。上杉重定は長生きこそしましたが、家臣同士の騒乱がおこったり大凶作によって領民が困窮したことによる打ち壊しが起こったりしました。藩政はますます窮乏しますが、上杉重定はろくな政策もおこなわず、家臣に政治を丸投げしていたと伝えられています。上杉重定は病を理由に明和4年(1767年)に隠居をしますが、隠居後も住居を複数回建て替えるなどして、藩の財政に打撃を与え続けました。

上杉治憲の治世

上杉重定の跡を継いだのは上杉家の中興の祖として名高い上杉治憲(鷹山)です。明和4年(1767年)に家督を継いだときには、借財が20万両(現在の貨幣にして約150億〜200億)あり、15万石の石高に対し、家臣が6千人もいるなど財政が破綻している状態でした。


上杉治憲は、産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政などを重用し財政の立て直しに着手します。また、自ら率先して質素倹約に努めました。江戸屋敷での生活費を従来の4分の1にまで減らし、奥女中も10人以下にするなど思い切った倹約は家臣達の反発を招きましたが、上杉治憲は考えを改めることはありませんでした。そのため、上杉家の重臣達が改革中止を求める「七家騒動」などを起こしましたが、結局は失敗に終わります。上杉治憲は単に質素倹約に努めるだけでなく、閉鎖された学問所を藩校・興譲館として再開し、身分を問わずに学べる場所を作って優秀な人材を集める努力を惜しみませんでした。このほか、米以外の産業の発展にも尽力し、労を執るために漆の木を100万本移植するなど壮大な計画を立ち上げています。なお、漆の木の移植計画は結局失敗におわりました。
天明5年(1785年)に35才の若さで藩主の座を前藩主上杉重定の実子上杉治広に譲って隠居しますが、死去するまで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しつづけました。なお、上杉治憲は上杉鷹山という名前の方がよく知られていますが、その名を名乗ったのは、享和2年(1802年)、剃髪してからです。
また、家督を上杉治広に譲る際に申し渡した伝国の辞は、大政奉還まで上杉の家訓として代々の藩主へ伝えられました。

幕末の米沢藩

上杉治憲の努力もあって、破綻寸前だった米沢藩の財政は11代藩主上杉斉定のときに見事建て直され、借金が完済されました。彼が藩主であった頃の天保の大飢饉が発生しますが、上杉斉定は上杉治憲の治世を見習って自分は粥を食べて領民に米を与え、ひとりの餓死者も出さなかったという偉業を成し遂げます。また、上杉斉定は歴代の藩主が行ってきた家臣から給与を借り上げて藩の財政の一部に当てることを廃止し、初めて家臣に手当金を与えたと伝えられています。
上杉斉定は天保10年(1839年)に52才で死去し、その跡を子息の上杉斉憲が継ぎます。

上杉斉憲は、藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなどして大成功を収めます。その甲斐あって幕府から3万石の加増を受けました。これは、米沢藩始まって以来のことで、上杉斉憲は上杉治憲以来の名君と称えられます。
しかし、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きると米沢藩は繋がりの深い会津藩と共に新政府の討伐の対象になりました。上杉斉憲は最初こそ新政府に味方しようとしますが、恭順の意思を示す書状を新政府に握りつぶされたため、激怒して仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となります。米沢藩は猛攻により一時は新政府軍から新潟港を奪い返しましたが、やがて旗色が悪くなると真っ先に投降し、庄内藩の軍へ兵を向けました。そのため、奥羽越列藩同盟からは「裏切り者」と罵られることになります。明治維新後、米沢藩は新政府軍に逆らったことを咎められ、14万石に削減されました。上杉斉憲はその後家督を上杉茂憲に譲って隠居します。

最後の藩主となった上杉茂憲は、廃藩置県後にイギリスに留学し、帰国後に沖縄県令となります。実直な人柄と仕事に精励に取り組む様が高く評価されました。明治16年(1883年)には元老院議官となり、翌年には伯爵となります。明治29年(1896年)に米沢に移住し、養蚕製糸織物の改良や産業の発展に力を尽しました。私財をなげうって沖縄や米沢で人材を育成して産業をもり立てたため内情は豊かでは無かったようですが、現在も米沢城址には、上杉茂憲の住まいである上杉伯爵邸(鶴鳴館)が残されています。

米沢藩のまとめ

米沢藩は西軍に与した上杉景勝を祖とし、120万石を30万石に減石されるという逆境の中で藩政が始まります。財政は困窮する一方でしたが、上杉治憲の改革によりなんとか藩の材を立てなおし、幕末まで藩を維持しました。なお、上杉茂憲以降も上杉家は存続し、現在は上杉邦憲氏が17代目当主を務めています。なお、邦憲氏は宇宙工学博士であり、「はやぶさ」の開発にも携わりました。現在、邦憲氏は退官しましたが、杉氏関連の講演会で講師などを務めているそうです。ちなみに毘沙門天管弦楽団などで指揮者として活躍していた音楽家の上杉隆治氏は弟にあたります。

関係する城
AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。