上田藩真田信繁の兄、真田信之から始まる
松平家の家紋「五三の桐」
- 関係する城
上田藩は「日本一の兵」と呼ばれた真田信繁の兄、真田信之を始祖とした藩です。真田氏・仙石氏・松代氏という3つの家が明治まで上田藩を治めました。ここでは、上田藩の歴史を紐解いていきましょう。
日本一の兵の兄、上田藩の始祖真田信之
真田信之は、永禄9年(1566年)真田昌行の長男として生まれます。幼少期は武田家の人質として過ごしますが、織田信長により武田家が滅ぼされると同じく武田家の人質になっていた母とともに武田家を逃げ出します。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、父真田昌行と弟信繁が西軍についたのに対し、徳川の重臣本田忠勝の娘である小松姫を妻にした信之は東軍につきました。その結果、信之は徳川家の与力大名になり、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石となります。上田城は破壊されていたので、沼田城に入って治世を行いました。信之が上田藩の藩主になったころ、第二次上田合戦や浅間山の噴火により領地は荒れ果てていましたが、信之は城下町の整備・堰・用水の開削・年貢の減免など様々な政策を行って藩を立て直そうとします。上田城の歴史で述べたように、真田信之は再三徳川家に上田城の再建を願い出ますが、ついにかないませんでした。信之は元和8年(1622年)に、信濃松代に13万石で加増移封され、松代の地で93歳の生涯を閉じます。
上田城を再建した仙石家
仙石家は、真田信之が松代藩に移封された後で、信濃小諸藩から移ってきた家です。当時の藩主は仙石忠政です。仙石家は豊臣家の家臣でしたが三男であった忠政は関ヶ原の戦いで東軍につきます。その功をたたえられて従五位下・兵部大輔に叙位・任官しています。仙石忠政は、大阪夏の陣における天王寺・岡山の戦いで真田信繁、毛利勝永ら豊臣軍と交戦し、11もの首級をあげました。その武勲によって上田藩に加増移封されたとも伝えられています。仙石忠政は、徳川家康によって徹底して破壊された上田城を再建しつつ、真田信之の後を引き継いで新田開発や産業の推進に勤めました。また、兵農分離をすすめて領内を8つの組に分けて各村に庄屋を置くなど支配体制を強化したといわれています。なお、上田藩への移封は仙石忠政自身が望んだためと言われており、真田信之は抗議のために上田藩関係の書類を燃やしてしまったという逸話が残っています。(真偽不明)
仙石忠政は寛文9年(1669年)に隠居し、長男の子供である仙石政明が三代目の藩主となりました。しかし、正明は幼少だったため、藩の実権は続けて忠政が握ります。藩主就任の際、政明の弟である仙石正勝に2,000石を分与したために、上田藩は5万8,000石となりました。15歳の時に祖父の仙石忠政が亡くなり、家臣の補佐を受けながら藩の運営を行いますが、藩の財政が行き詰ったため延宝3年(1675年)には上米・倹約令などを出しています。
宝永3年(1706年)上田藩から出石藩へ移封されたことで仙石家の上田統治は終わりを告げました。
明治まで上田藩を治めた藤井松平家伊賀守流
藤井松平家というのは、松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流であり、十八松平の一つです。仙石政明が出雲藩に移封されると、丹波国亀山藩3代藩主を務めていた藤井松平家伊賀守流初代、松平忠晴の三男松平忠周が、5万8,000石で上田藩へ移封されます。幼少時からたいそう聡明であったそうです。忠周は、上田藩の4代目藩主となると農民に明細帳提出させ、年貢を籾納から米納への切り替えを求ます。加えて、複数の村の庄屋を監督する村役人や大庄屋を設置するなど農村統制を強めました。松平忠周は上田藩の藩主を務めながら、5代将軍である綱吉に仕え、側用人にまで出世します。6代将軍家宣の代になるといったんは罷免されますが、8代将軍である吉宗がふたたび彼を重用し、京都所司代を経て老中にまで出世しました。その一方で、上田藩の政は国元の家臣たちに任されます。松平忠周は68歳で死去しますが、藩主になってから大部分の期間を江戸で過ごしました。
忠周の跡を継いだのは三男の松平忠愛です。しかし、父に似ずに暗君であったと伝わっています。藩主を継ぐ際に弟の忠容に川中島5000石を分地したため、上田藩は5万3,000石となります。忠愛が藩主であった間、享保15年(1730年)に上田城大火により藩主居館が全焼したり、寛保2年(1742年)には水害を被ったりするなど、災害が相次ぎました。財政的に行き詰った上田藩は、幕府より5,000石を借り受けて財政の立て直しを図りました。しかし、忠愛が行った政策は、元文5年(1740年)に検見法から定免法に税制を改正して重税を取り立てたのみで、本人は遊興にふけり藩政を顧みることがなかったと伝えられています。そのため、寛延2年(1749年)には半ば無理やり隠居させられました。
松平忠愛の跡を継いだのが、長男の松平忠順です。忠順が藩主の座についた頃、上田藩の財政はすでに破綻していました。そのため、忠順は、宝暦3年(1753年)に半知上納を行ない、宝暦9年(1759年)に倹約令を出すなど、藩の財政の立て直しに勤めます。しかし、農民を直接支配していた群奉行が悪政をしいたため、宝暦11年(1761年)に約13,000人が上田城に押しかけるという一揆が発生しました(上田騒動)。
農民たちは、悪政を敷いていた群奉行の罷免と年貢の軽減、農民を人足として使う事をやめることなどを要求します。松平忠順は、一部非を認めて群奉行を罷免しますが、一揆の首謀者とされた農民たちは死罪や永牢を命じられ、一揆は終息しました。
藩主としては明確な成果を上げられなかった松平忠順ですが、江戸幕府の中では順調に出世をし、明和元年(1764年)に寺社奉行、安永4年(1775年)に若年寄上席しています。
天明3年(1783年)、松平忠順が亡くなるとその跡を継いだのが長男の松平忠済です。忠済は、幕命による普請手伝いを行い、桜田御門番、西の丸大手門番などを歴任したため、藩の財政はさらに悪化しました。なお、忠済には4人の男子と6人の女子がいましたが、長男をはじめとする男子がすべて早世してしまったために、家督争いが起こります。そのため、忠済は分家の松平忠学を養子として迎え、次女を正室として家督を継がせました。本人は78歳で死去します。
忠済の跡を継いだ松平忠学は、文化10年(1813年)に藩校・明倫堂を創設して文武を奨励するなど、文化面の充実に努めます。養父同様子女に恵まれずに松平忠優を養子とします。この松平忠優が、日米和親条約と日米通商友好条約の際に老中の座についていた、松平忠固です。
松平忠済は、文政13年(1830年)に松平忠固に藩主の座を譲って隠居します。
養父の跡を継いで藩主の座に就いた松平忠固は、藩内で養蚕を奨励します。生糸産業の推奨が、明治時代に長野県の生糸産業を発展させる基礎となりました。松平忠固は、水野忠邦失脚に伴い、嘉永元年(1848年)、老中に抜擢されます。1度目の老中就任中に、浦賀に来航したアメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリーから開国の要求を受けました。この際、幕府の内部は大変な混乱となり、水戸藩9代目藩主の徳川斉昭と松平忠固は真っ向から意見が対立します。その結果、積極的に開国を指示していた松平忠固は老中を辞任することになりました。
しかし、老中筆頭であった阿部正弘が任命した老中、堀田正睦に乞われて数年後の老中に復帰します。忠固は、日米修好通商条約締結につき、勅許不要論を主張し、他の老中たちと激しく対立しました。忠固は、日米修好通商条約の締結を決意しますが、調印の4日後、堀田正睦とともに老中を罷免されて蟄居を命じられます。これが、安政の大獄の始まりです。
この時期、松平忠固は上田藩藩主として産物会所を上田と江戸に設置し、上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げています。これにより、上田藩は横浜開港と同時に生糸の輸出を始めることができたのです。
安政6年(1859年)、忠固は49歳で急死します。病死ということになっていますが、現在に至るまで暗殺説も根強く唱えられています。
松平忠固の跡を継いだのは、三男の松平忠礼です。忠礼は、わずか9歳で家督を継いだので藩は混乱を極め、藩内抗争が激化しています。しかし、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、明治新政府側に恭順して会津戦争などに従軍しました。明治2年、(1869年)6月、版籍奉還に伴い、忠礼は上田藩知事となります。しかし、巳年騒動と呼ばれる百姓一揆が起こるなど藩内は全く安定しませんでした。明治4年(1871年)に廃藩置県となって藩知事を免職されると亡父の遺言に伴ってアメリカに留学します。明治12年(1879年)に日本に帰国し、明治13年(1880年)から外務省御用掛・外務省取調局に勤務しましたが、明治28年(1895年)に46歳で死去しています。こ
上田藩についてのまとめ
上田藩は、真田氏・仙石氏・松平氏という3つの家に治められ明治を迎えました。上田藩は冷涼な気候に加えて浅間山の噴火など天災にも見舞われているため、民衆の暮らしは厳しく、一揆もたびたび起きています。しかし、幕末に松平忠固という先見の明に秀でた君主に恵まれたことで、「生糸産業」という新しい産業を作ることができました。戦前の上田市は日本の主力産業であった生糸を生産する蚕の繭の一大生産地でもありました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。