一国一城令2000以上の城が消えた幕府の大名統制策
一国一城令
- 関係する人物
関ヶ原の戦いで勝利して徳川家康が江戸幕府を開いたのち、慶長20年・元和元年(1615年)に諸大名を統制するために幕府が出したのが「一国一城令」です。名称から分かる通り、国(令制国)ごとに原則として居住する城以外の支城をすべて破壊するよう命じたもので、これによりもともと3000あった城が170程度まで減ったと言われています。幕府による大名を統制するために発布されており、あまりに多くの城が壊されたので厳守された!と思われがちですが、実はこの一国一城令には例外が多々ありました。今回はそんな一国一城令について分かりやすく解説していきます。
一国一城令とは
一国一城令は「貴殿御分国中居城をば残し置かれ、其外の城は悉く破却あるべきの旨、上意に候」とあるように、国内の居城以外の城はすべて破却せよと諸大名に通達したものです。通達したのは慶長20年(1615年)4月から5月にかけて行われた「大阪夏の陣」で豊臣宗家が滅亡した直後の、同年閏6月13日のこと。7月からは「元和」に改元されていることなどから「元和一国一城令」とも呼ばれています。徳川幕府第2代将軍の徳川秀忠の命によるものとされていますが、実際は徳川家康が立案したものでした。
一国一城「令」とありますが、江戸幕府の土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連署奉書で出されたもので、厳密には法令ではありません。幕府による大名統制策の1つとされていますが、大阪夏の陣直後に出されたことから、諸大名の動揺を抑えるためか丁寧な表現を使用。強権的な法令でなく奉書でふわっとした内容を出し、諸大名の反応もチェックしていたのでは、という説もあります。実際、「破却」についてはどこまで壊せばいいのか明示されておらず、各大名のとらえ方により徹底的に城を壊す場合もあれば、石垣程度を軽く壊して終わらせる場合もありました。
実はこの一国一城令、発布当初は畿内・山陽・山陰など西日本の大名が対象で、徐々に全国に広がったようです。なお、東日本については豊臣秀吉の時代、天正18年(1590年)7月から8月の奥州仕置で城が破却されており、あまり対象としてクローズアップされませんでした。
一国一城令が出された理由は?
江戸幕府が一国一城令を出した理由は、諸大名の力を削ぎつつ幕府に権力を集中させるためでした。西日本は豊臣恩顧の外様大名が多い地域ですから、幕府としては軍事拠点を減らしたいという考えもあったようです。
「一国一城令を出すほど城が多かったの?江戸時代に入って戦は落ち着いたよね?」と思いがちですが、実は慶長年間は関ヶ原の戦い前後から「築城ラッシュ」が起きていました。関ヶ原の戦いの論功行賞で、大名は加増や改易など大規模な配置転換がありました。しかも、西軍は負けたとはいえ豊臣宗家はまだ残っており、豊臣恩顧の大名と徳川方の対立は継続中。このため戦になりやすい国境沿いに支城が多くできたのです。当時の記録によれば、慶長14年(1609年)にはなんと1年で25の天守が立ったのだとか。これは家康でなくても城を減らしたくなりますよね…。
というわけでせっせと建てた城を一国一城令で壊さざるを得なかった大名たちですが、デメリットだけだったのかといえば、実はそうでもなかったようです。原則として「一律令国あたり一城に限る」ということは、大名の家臣たちは城を持てなくなるわけですから、家臣が力をつけて下剋上、とはいかなくなりました。大名にとって家臣を統制しやすくなるというメリットもあったわけです。
一国一城令の「例外」の数々
名前から一つの令制国に一つの城しかないように見える一国一城令でしたが、実は例外がかなりありました。そもそも幕府は城をいつまでに・どのように・どの程度破却しろといった細かい指定をしておらず、先に紹介した連署奉書で通達したのみ。「これは城ではなく砦です」と言って逃れる大名や、先走ったのか幕府におもねったのか、城を必要以上に破却した大名もいました。例外についてある程度分類すると、いくつかのパターンに分けられるので、一つ一つ見ていきましょう。
一国一城令の例外①一国を複数の大名が統治している場合
一つの令制国につき城は一つですが、その一国を複数の大名が統治している場合は例外措置として、大名の数だけ城が置かれました。例えば伊予国(愛媛県)は藤堂氏の今治城、伊達氏の宇和島城、脇坂氏の大洲城、加藤氏の松山城のように複数の大名が自城を持つことになりました。徳川幕府としてもいらぬ争いを生みたくなかったということでしょう。
一国一城令の例外②大名が複数の国を統治している場合
①とは逆に、大名が複数の律令国をまたがって領有・統治している場合です。例えば藤堂氏の津藩は伊勢国(三重県の北中部、愛知・岐阜県の一部)・伊賀国(三重県西部)を領有しているため、伊勢国に阿濃津城、伊賀国に上野城の二国を許されています。
一国一城令の例外③幕府の配慮により複数の城を許された場合
厳密な決まりのない「一国一城令」は、幕府との関係次第では一令制国に一城ではなく、複数の城を持つことが許されました。
例えば「加賀百万石」で有名な前田氏の金沢藩は、加賀(石川県南部)・能登(石川県北部)・越中国(富山県)の三令制国を治める大名。当初は加賀国の金沢城のみ許されていましたが、前田利常が徳川家と親しい関係にあったことから、後に加賀国に小松城を再建することを許可されています。とはいえ一国一城であれば能登と越中にも城があってもよい気がするのですが…。
また、池田氏の鳥取藩は因幡国(鳥取県東部)・伯耆国(鳥取県中・西部)の二令制国で三城を許されました。池田氏には徳川家康の娘・督姫が嫁いでおり、将軍家の親戚だったことや、いまだに幕府が毛利氏を警戒していたことなどが一因だったようです。鳥取城と米子城、そして陣屋扱いになりますが倉吉城の三城を有していたほか、黒坂藩(鳥取県日野郡)が改易になった後は黒坂城も陣屋として手に入れています。
佐竹氏の久保田藩(秋田藩)は、出羽国(山形県、北東部を除いた秋田県)の一令制国で三城を得ています。こちらは幕府による優遇策ではなく、物理的に出羽国が広すぎたためで、久保田城、大館城、横手城を残しました。実は佐竹氏、関ヶ原の戦いの際にどっちにつくか家臣で意見が割れた結果西軍寄りの行動をしており、それを徳川家康が咎め、もともといた常陸国(茨城県)から出羽国に減転封されていました。幕府としては減転封で佐竹氏の勢いを弱めることができたと考えており、新天地でいろいろと不慣れな佐竹氏に恩を売ろうという考えもあったのかもしれません。
このほか、加藤氏の熊本藩(肥後藩、熊本県など)は熊本城と麦島城の一国二城が認められました。ところが麦島城は元和5年(1619年)の大地震で倒壊。その後、2代藩主の加藤忠広が幕府に新城をつくる許可を得て、城の位置を松江に移して八代城を完成させ、その後も続いていくことになります。
なぜ麦島・八代城が破却から免れたかというのは、実ははっきりわかっていません。城の位置が肥後国と薩摩国の境目にあることから、島津氏の薩摩藩(鹿児島県、宮崎県南西部)を警戒・監視するためなのではという説、キリシタンや異国船への備えという説、熊本藩の内部分裂を阻止したかったという説などが出されていますが、真偽のほどは不明です。とはいえ、加藤清正の娘・八十姫は徳川家康の息子で紀伊和歌山藩の初代藩主・徳川頼宣の正室ですし、2代藩主の忠弘は慶長19年(1614年)に徳川秀忠の養女である琴姫を正室に迎えていますから、幕府との関係が深いことは確か。そうした事情もあり、二城を認められたようにも思えます。
一国一城令の例外④大名側が「城ではなく要害(または役屋)」とごまかした場合
幕府側の配慮ではなく、大名側が「これは城ではなく要害屋敷(または役屋)だ」とごまかしにかかったケースもあります。仙台藩(宮城県全域、岩手県南部・福島県の一部など)の伊達氏がこの例で、要害屋敷とありますが、一部には石垣もあり、「これ城なんじゃ…」というものもあります。貞享4年(1687年)に幕府に届け出た要害屋敷はなんと21ヶ所もあったのだとか。ちなみに仙台藩は仙台城に加え、伊達政宗の右腕・片倉小十郎景綱が城主だった白石城も破却を免れています。
幕府は割と仙台藩に甘かったように見えますが、ごまかしを認めたのは東北地方に一揆が多かったため配慮した、片倉家を引き立てることで伊達家と勢力を二分させ仲たがいさせ、仙台藩の勢力減を狙ったなど、さまざまな説が挙げられています。
一国一城令の例外⑤大名側が幕府に配慮した例
何とか城を残そうとあれやこれやと考える大名がいる一方、潔く城を破却したのが毛利氏の萩藩でした。周防国(山口県東南半分)・長門国(山口県西半分)の二令制国でしたが、長門国の萩城を残し、岩国城などを破却しています。これに対し幕府は「周防と長門の二国を納めているのだから、岩国城は破却する必要はなかったのでは…」と冷静に指摘。岩国城は破却損となってしまいました。
岩国城の城主は毛利元就の孫・吉川広家。最後まで岩国城の破却に反対していましたが、毛利宗家が幕府に目をつけられていることから、幕府におもねる形で破却するよう要求されたことで泣く泣く破却する羽目になったのだとか。また、この破却には関ヶ原の戦い以来の吉川家と毛利宗家の対立が背景にあったという説もあります。
毛利宗家の毛利輝元は関ヶ原の戦いの際、西軍の総大将に就任しましたが、吉川広家は東軍有利と見て独断で家康に内通して毛利氏の本領安堵を求めていたのです。そして関ヶ原の戦いでは布陣するも出陣することなく戦を終了。これで安心かと思いきや、徳川家康から輝元の行動を攻められて毛利宗家の改易と、広家に周防・長門国を与えるという沙汰がありました。これを受けた広家は自らの領地を毛利宗家に譲り渡しましたが、宗家からすれば「広家が動けば関ヶ原の戦いに勝っていたのでは?」という思いは当然あったでしょう。岩国城の破却はそういった背景もあり、宗家からの制裁だったのかもしれません。
一国一城令の後に出された「武家諸法度」
城の数に規制を設けた一国一城令でしたが、その翌月、幕府は武家諸法度を口頭で発布します。武家諸法度はその後も数度にわたり出されているので、この時のものは別名「元和令」と呼ばれています。ここで幕府は「諸国の居城修補をなすといえども、必す言上すべし。いわんや新儀の構営堅く停止せしむる事」、つまり城の修繕は勝手にせず幕府に事前に伝えること、増築や新しい城を建てるのは禁止であると定めています。
武家諸法度は破ると重い厳罰が下されました。よく「一国一城令のせいで改易させられた人」として名があがる福島正則ですが、正則が破ったのは武家諸法度のほうです。正則は元和4年(1618年)に広島に台風が上陸し、広島城が被害を受けたことから城を修復しようと幕府に届け出ます。ところがなかなか聞き入れられません。見かねた正則は城の修理を勝手にはじめ、幕府には事後報告ですませようと考えました。
それを知った徳川秀忠は「武家諸法度に抵触した」と怒り、正則を改易しようと試みますが、他の武将への影響を考えたのか一度クールダウン。修復した石垣や櫓の破却などの条件で正則を許そうとしました。ところが正則は条件を守らず不十分な対応しかしなかったため、秀忠は正則を信濃国川中島四郡の高井郡(長野県)と越後国魚沼郡(新潟県)に減転封させています。
一方、一国一城令の罰則はといえば、当初はきちんと城を破却していない場合でも見逃されることもあり、緩い感じでした。例えば薩摩藩の島津氏は城の破却を積極的に実施せず、寛永10年(1633年)に幕府の役人が諸国を見廻った際、「なぜ他国のように城を破却していないのか」と突っ込まれています。これに対し、島津氏側は「城を掘り崩すそこを田畑にして知行を増やそうとする者がいるから」と言い訳じみた回答をしていますが、役人はスルーしています。
そんな一国一城令が再び注目を集めるのが、寛永14年(1637年)10月から翌15年(1638年)2月まで続いた「島原の乱」です。一揆軍が立てこもったのは、破却された原城趾でした。このため幕府は島原の乱後に一国一城令を強化。廃城となった城郭を一揆勢などが利用しないように、石垣を破壊するなど徹底的に城を破却させるよう大名達に求めるとともに、監視を強化していくのです。
- 関係する人物
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。