四条畷の戦い楠木正行が最期を遂げた南北朝の決戦

四条畷の戦い

四条畷の戦い

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事件簿
事件名
四条畷の戦い(1348年)
場所
大阪府

南北朝時代を代表する戦いのひとつが、貞和4年/正平3年(1348年)に河内国で起きた「四条畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)」です。南朝方の武将・楠木正行(くすのきまさつら)が京を取り返そうと、高師直らが率いる室町幕府軍と戦い、壮絶な最期を遂げた合戦として知られています。父・楠木正成と同じく忠義の武将として語られる正行の死は、南北朝の戦局にも大きな影響を与えました。今回は四条畷の戦いについて、分かりやすく解説していきます。

南北朝の動乱とは何か-建武の新政と分裂の背景

四条畷の戦いの背景には、日本が二つの朝廷に分かれて争った「南北朝時代」の動乱があります。

そもそも南北朝の分裂を招いたのは、鎌倉時代後期の後嵯峨上皇の時代までさかのぼります。後嵯峨上皇が皇位継承の明確な方針を定めないまま崩御したことをきっかけに、上皇の子孫は後深草天皇からはじまる「持明院統」と、亀山天皇からはじまる「大覚寺統」の二つの皇統に分かれたのです。

その後、鎌倉幕府の介入により、以後は皇位を交互に継ぐ「両統迭立」が行われていきます。しかし、この仕組みは次第に崩れ、大覚寺統の後醍醐天皇が幕府打倒を進めたことで対立が激化し、やがて南北朝の分裂へとつながっていきます。

後醍醐天皇の倒幕運動「元弘の乱」により、鎌倉幕府は元弘3年(1333年)5月、約150年の幕を閉じました。勝利した後醍醐天皇は政権を奪取して京で「建武の新政」を開始します。摂政・関白を廃し、院政も行わない、天皇が直接政治を行う体制を目指したのです。しかし、新政は武士の期待に十分応えるものではなく、公家優位の恩賞の配分や政治制度をめぐって不満が広がりました。

足利尊氏の台頭、南北朝分裂へ

こうした中で台頭したのが足利尊氏です。尊氏は幕府討伐の功績によって大きな軍事力を持つようになりましたが、やがて後醍醐天皇と対立します。

建武2年(1335年)7月に鎌倉で起きた「中先代の乱」に対し、足利尊氏は後醍醐天皇の許しがないまま京を出てこれを鎮圧します。さらに、その後も鎌倉にとどまり続けたため、後醍醐天皇は激怒し、新田義貞に尊氏討伐を命じます。尊氏は敗退して九州に逃げましたが、九州の武将たちを味方につけ、再び本州に戻り、次々と味方を増やして京に攻め上りました。

このとき尊氏は後醍醐天皇と別派閥の持明院統の光厳上皇から新田義貞追討の院宣を得ており、大義名分は十分でした。尊氏は次々と南朝方の武将たちを破り、京に近づいていきます。

楠木正成と正行の「桜井の別れ」とは

尊氏を迎え撃つため、南朝方の武将として知られる楠木正成は尊氏対策を後醍醐天皇に奏上します。正成は、尊氏より数の少ない味方が疲弊していることから、後醍醐天皇に「一度京から比叡山に撤退し、尊氏を京に引き入れたうえで、新田・楠木両軍で尊氏を挟み撃ちして撃退すればよいのでは」と提案します。

しかし、公卿の坊門清忠が「天皇がたびたび居場所を変えるのは体裁が悪い」「これまで少ない味方で戦いが上手くいったのは、武略に優れているからではなく、天皇の運によるもの」と主張しました。

結局正成の意見は容れられず、正成は討ち死にを覚悟して出陣し、湊川の戦いに向かいました。この時、正成は後の四条畷の戦いの主役となる息子・楠木正行と摂津の桜井宿で別れます。

このときのエピソードは「桜井の別れ」と呼ばれ、能や絵画の題材となりました。正成は「最期まで父上とともにいたい」という正行に対し、「私が討ち死にすれば尊氏の天下になる。そんな世の中になっても自分が助かるために降参してはならない。後醍醐天皇に忠義を尽くせ」と、遺訓を残して去りました。その後、正行は父の死を知り後を追おうとしますが、母親が正成の遺訓をもとに必死にとどめます。その後、正行は父の遺訓を果たすべく、南朝で力をつけていくのです。

ただし、このエピソードは現在では『太平記』上での創作の可能性が高いとされています。楠木正行については当時の一次資料があまり残されていないため、『太平記』は参考にされがちです。軍記物語とはいえ当時を生きた人々の手で記されていることから、それなりに信ぴょう性はありますが、ところどころに「盛った」創作エピソードがあるようなので注意しましょう。

足利尊氏の室町幕府が成立 南北朝が対立

建武3年/延元元年(1336年)7月、湊川の戦いで楠木正成率いる南朝方が敗れると、後醍醐天皇は比叡山に逃げ延びます。一方、京では8月に光厳天皇の弟が光明天皇として即位します。徐々に厳しい状態になる南朝方に対し、尊氏は融和を提案。結局11月に両者は和睦し、後醍醐天皇は即位に必要な三種の神器を光明天皇に渡しました。

後醍醐天皇は花山院の邸宅に幽閉されますが、12月に脱出して吉野へ移り、「光明天皇に渡した三種の神器は偽物であり、本物は自分が持っている」と自ら正統な天皇であると主張します。こうして京都の北朝と吉野の南朝という二つの朝廷が並び立ち、対立を続ける南北朝時代が始まり、日本は約60年にわたる長い内乱の時代に入りました。

後醍醐天皇の死後も南朝は継続、後村上天皇が即位

その後も南北朝の戦いは続きます。暦応元年/延元3年(1338年)には南朝の武将として名高い北畠顕家と新田義貞がそれぞれ戦死し、代わって北畠親房が南朝の最高司令官となりました。一方、北朝側といえば同年足利尊氏が征夷大将軍に任命されて室町幕府を開いています。

延元4年/暦応2年(1339年)、ついに後醍醐天皇は吉野で崩御します。しかし、南朝は後醍醐天皇の第7子である義良親王を後村上天皇として擁立し、足利幕府との争いを続けました。こうした動乱の中で南朝の軍事的中心となっていくのが、正成の子・楠木正行だったのです。

楠木正行とは何者か-南朝を支えた若き武将

楠木正行は楠木正成の嫡男ですが、生年や幼少期についてはよくわかっていません。『太平記』でも建武3年/延元元年(1336年)の「桜井の別れ」時で11歳、貞和3年/正平2年(1347年)で25歳となっておりぶれています。

正行は父の死後に若くして楠木氏の家督を継ぎ、左衛門尉に就任し、河内国(現在の大阪府東部)で勢力を築いて南朝方の有力武将として力をつけていきました。

貞和3年/正平2年(1347年)8月、正行はついに挙兵します。正行は紀伊国隅田(和歌山県橋本市)で北朝方の武将を下したのを皮切りに、次々と北朝の有力武将を破っていきました。11月には。北朝方の有力武将だった細川顕氏・山名時氏を「住吉・天王寺の戦い」で破っています。

正行の戦闘経路は、元弘の乱での父・楠木正成の経路をほぼ踏襲しています。これは「正成の再来」であると北朝に知らしめるとともに、父と同じく兵站と情報網の重要拠点を抑えようとしていたという説があります。

連勝を続ける正行により南朝方は勢いづき、乗じて反乱が発生しました。こうした動きに対し、「京を奪還されるのでは」と危惧した北朝方は、大規模な正行討伐軍を派遣することになります。

その大将となったのが、足利尊氏の側近で室町幕府初代執事を務める猛将・高師直と、その兄弟の師泰でした。

四条畷の戦い①高師直率いる室町幕府軍が出陣

貞和3年/正平2年(1347年)12月、北朝方では高師泰率いる軍が出陣し、高師直の率いる軍と淀で合流し、八幡(京都府八幡市)に移動しました。しかし、すぐに南朝を攻めず、各軍の合流を待ちつつ年を越します。当時の文献によれば、八幡に向かった時点で「一万余騎」の軍勢が集まっていたようです。

一方、楠木軍は幕府軍の動きを注視しつつ、迎撃の準備を進めていました。『太平記』によれば、最終的には幕府軍は8万(6万とも)、楠木軍はわずか3000ほどだったと伝えられています(幕府軍4万、楠木軍1000など、諸説あり)。この兵力差については後世の誇張の可能性もありますが、幕府軍が楠木軍を大きく上回っていたことは確かであり、正行は不利な状況で決戦に臨むことになりました。

四条畷の戦い②『太平記』の「辞世の句」の真偽

『太平記』によれば、室町幕府方の動きを察した楠木正行は、貞和3年/正平2年(1347年)12月27日、吉野の後村上天皇に拝謁します。後村上天皇は「父と同じ道を歩んではならない、生きて戻るように」と止めますが、正行は玉砕を覚悟していました。

そして、同日吉野にある後醍醐天皇の勅願寺・如意輪寺に一族郎党と参詣し、参詣者から神を集めて奉納し、矢の鏃で本堂の扉に辞世の句を刻んだと伝えられています。

「かえらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」

この歌は「生きて帰ることはないと覚悟している。せめて武士として名を残したい」という意味です。

ところが、このエピソードは当時残された書状などから、連戦連勝中だった正行らは玉砕覚悟ではなかったことが推察されており、研究者からは「後世の創作では」とされています。

四条畷の戦い③6時間の激闘と楠木軍の最期

翌貞和4年/正平3年(1348年)1月2日、師直軍と師泰軍はそれぞれ出陣します。師直軍は八幡から河内の野崎(大阪府大東市)に向かいました。一方の師泰軍は摂津の渡辺を通過し、堺に入りました。

『太平記』によると、師直軍はさらに兵を五つに分け、野崎から四条畷にかけて布陣し、飯盛山も占拠しました。野崎から四条畷にかけては幅が狭く山に水辺、湿地帯に囲まれ、大軍の行軍には不向きな場所でした。このため師直は、軍を分けての挟み撃ちにしようと考えたのです。

正行は一歩出遅れ、狭い東高野街道を進んだ結果、師直軍と正面から衝突することになりました。とはいえ、先述した通り、大軍が展開しにくい湿地帯での戦いに対し、正行たちは「勝機がある」と考えていたようです。

最初の衝突は5日の午前10時頃で、小競り合いから戦いは次第に激化していき、両軍は何度もぶつかりました。なかでも正行軍が苦戦したのが、武田信武や佐々木道誉などが率いる軍による挟み撃ちでした。何とか撃退できましたが、後衛がほぼ全滅し、残りの兵力は300騎程度まで減少してしまいます。

その後、正行は馬が射られたことで下馬して徒歩で進み、師直本陣に接近します。一時は「師直討ち取ったり!」となりましたが、実は討ち取ったのは替え玉だったと伝えられています。

やがて追い詰められた正行軍は退却しようとしますが、待ち構えていた高師兼の弓隊に弓を射られます。左右の膝頭3ヶ所に右の頬先、左の目じりを深く射られて満身創痍になりました。

午後4時ごろ、自らの最期を悟った正行は、敵に殺されるくらいなら…と、権現川堤付近で弟の正時と刺し違えて亡くなります。この時点で正行は23歳から26歳だったと言われています。

その後、正行の家臣・和田賢秀が薙刀で高師直の首を狙って本陣深くに入り込むも、正体がばれて討ち取られました。しかし、その首が敵に噛みついて離れなかったという伝承が残っており、後に「歯神さん」として信仰されるようになったと言われています。こうして、四条畷の戦いは高師直たち北朝方の勝利に終わりました。

四条畷の戦いの影響-南朝衰退と観応の擾乱へ

四条畷の戦いは南北朝の歴史に大きな影響を与えました。楠木正行は南朝の有力武将であり、その死は南朝にとって大きな打撃でした。南朝はその後も抵抗を続けますが、軍事力は次第に弱体化していきます。

正行を討ち取った高師直は吉野に兵を進めますが、吉野の後村上天皇たちは師直が到着する前に吉野を脱出。移動の末大和の賀名生(奈良県五條市)に行宮を置きます。

一方、正行の死は北朝にも影響を与えました。師直が四条畷の戦いで勝利したことで、師直の幕府内での権威は上昇しました。このため当時幕政を主導していた足利尊氏の弟・直義と政治的対立が発生。室町幕府を二分し、日本全国を巻き込む「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)」へと発展していったのです。

【参考文献など】
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。